やっと暖かくなりましたね。この間 雪がちらつく日に野外でガタガタ震えながら現場に
て文字を書いてきました。何分下請けが多いので 看板の写真をアップする機会がありま
せん・・。ブログのテーマは「看板屋の独り言」ですから 何卒、ご容赦ください。
最近、ブログの記事の内容に共感して下さる方達に直接 お声をかけて頂く事が多くなり
ました。拙文なので 少し照れくさい気もしますが・・・。
最近 お客様と人生観等をテーマにして対話する機会が多くなりました。
当然と言えば当然なのですが、好感が持てる方達には
惚れ惚れするような 品格を備えた方達がいらっしゃいますね・・・。
そういう方達に共通して言えることですが 仮に、自分の立場が上であっても 態度を崩
さない人が多いですね。
譬え、仲良くなって馴れ合いになったとしても
常に相手を気遣う やさしさには 我も覚有りたいと感動します。
「賢人は八風に冒されず」と言いますが それに 近い方達なのかも知れません。
人間それぞれ 自身では気づかず 他人に対して目に見えない雰囲気(オーラ・品格)を
与えているようです。私自身も気をつけなければ・・・。
最近の若者は「品が無くなった」と言われがちですが 社会全体が、宗教や論語を嫌う風
潮がありますので これは致し方ない事だと思います。
我々の世代の 学校や社会では 競争して勝つ事しか教えて来なかったのですから。
教育基本法の改正とやらも 一体、何をテーマにしたものやら・・・・。
南洲(西郷隆盛)遺訓の中に「敬天愛人」(人を相手にせず 天を相手にせよ。
天を相手にして己を尽くして 人を咎めず 我が誠の足らざるを 尋ねべし)
とありますが 神や仏への恐れを知らず ただ弱肉強食の世界で 生きたいように生
きるのであれば 西郷先生のような 立派な人格は存在しなかったように思います。
品格とは「人の振る舞い」であり 良き行いも 悪き行いも命に業として蓄積されるもの
だと思います。
それが ある一定に達した時 じっとしていても 命が匂いたつように 他人に「印象」
として 己を感じさせるのではないかと思います。たまに悪業を積んで 一目見ただけで
他人に威圧感を与える方もいらっしゃいますが。隠しても、個人独特の印象は嘘をつけな
いのであります。
それじゃあ、その品格(品格)を高める術は何なのかといいますと
ボランティア活動で菩薩の如き精神を身につけておられる若い方達は別として、
どこで 善業を積むのかといえば なかなか見つかりにくいように思います。
しかし 日常、善行を少しずつ貯蓄する事は可能だと思います。
人間として 最低限の振る舞い方を身につける事・・・。
最近、孔孟の教え(論語)の必要性を痛感しているのであります。
我国には 世界に誇る哲学ともいえる「武士道」というものがありますが
この思想の大元である依教は論語なんですね・・・。
「武士道」を海外に流布させた新渡戸稲造の功績は大きいと思います。
一歩外に出れば 死と出くわすかも知れない その様な緊張した社会状況の中
昔、侍達は 言葉のやり取り如何で 斬り合いが始まり命を落とす事もありましたので
縦社会の中で生きて行く智恵として 論語を学んだのではないかと思います。
「孔子曰く 君子に九思あり 視は明を思い 聴は聰を思い 色は温を思い 貌は恭を
思い 言は忠を思い 事は敬をおもい 疑は問を思い 忿は難を思い 得を見ては義を
思う」と考察の方法を説いています。
「九思一言」として有名な戒めですが 簡単にいえば 一言発するにも これら9つの
事を加えての考察の後でなければ 出してはいけないとの事・・・。
私は気が短く 短慮に物事を捉える癖がありますので これを座右の銘としておりますが
しかし最近、無礼極まる態度に出会い これらの戒めを忘れ カッと我を忘れてしまいま
した。相手も、従順そうな私を甘く見たのでしょう。
私の豹変振りに(※ここで言う豹変は「君子豹変す」の意味ではありません)
小さくなってしまいましたが・・・。世間が仏面をさせないのでしょうか・・・・。
しかし
「我が側(かたわら)に袒(たん)せき裸(ら)ていす といえども 汝 いずくんぞ
能く 我をけがさんや」
※たとえ 我が傍らで 裸になるという 無礼な態度をとっても それは 汝が
やった事であり 私を汚す事はできない。
とるに足らない侮辱に腹を立てるのは賢人ではないけど 正統な怒りであれば 怒ること
も大事なのかも知れませんね。
しかし この悪世で 誠実を通すのも 楽じゃありません.
なにしろ 五濁の底流に身を置いているのですから・・・。
相手を見抜く洞察力を養わなければ・・・・・。
いやはや なんとも・・・。私はいつまでたっても賢人にゃなれぬのであります。