![地方梅](http://image.blog.livedoor.jp/femdom5/imgs/9/9/993ae35f-s.jpg)
さりながら。
庶民たちは生活に追われ、季節になってもゆっくり楽しむこともできません。
万葉集に面白い歌があるんですよ。
ももしきの 大宮人は 暇あれや 梅をかざして ここに集へる
あぁあ、梅の花なんかかざしてまあ、都人ってのはよっぱど暇なんだろうよ、
やっかみ半分、ユーモラスですね。
さて、僕の尊敬する万葉学者の犬養孝博士は、富士山の歌を例にそこらの事情をこう解説されてました。
>神亀天平の歌人山部赤人は、富士を仰いで創作意識を自在に駆使し、かの有名な不盡山歌をつくった。
>それはなによりも旅の宮廷人の感覚であって、土地の人には、生活の山ではあっても美の対象ではない。
>人間と風土との関連はみごと一つの富士を現出している。
そして先生は、「赤人と現地の人とでは、全く富士の見方が違う。現地の人は(赤人と違って)美しいなんて思って見てない。そんなことしてたら仕事にもなんにもなりゃしないから。」
と、おっしゃってました。
うーん、いくら犬養博士のお説でも、僕、これだけは賛成できないんです。
昔、浦安ディズニーランドにいった折のことです。
帰り際にキャストと呼ばれている清掃員の人たちが、「今日の花火は綺麗だったね」と話していたのを聞いたことがありました。
随分小さいじぶん(←掛詞)のことでしたが、はっきりと覚えています、だって僕も花火が綺麗だと思ったから。
人の感性にも最大公約数みたいなものがあるもの、綺麗だと思うものは大抵の人が綺麗だと思うものです。
旅人であろうが現地人であろうが、業務中であろうが業務外であろうが。
いや、むしろ『業務中』の人のほうが、こういった小さな楽しみを見つけて『心の休み時間』にするのではないでしょうか?
万葉集に登場する歌人は天皇から乞食まで種々雑多な人たち、この種の『最大公約数』が『万』葉の心なのではないでしょうか? 先生。
と、この言い回し、
↓
犬養先生のお説でも
を丸写ししました。
………
………
わああぁぁぁぁ!!! ミユ様! ごめんなさい! ごめんなさい!!
また、パクってしまいましたぁ!
いけない僕をイヂメて、イヂメて!
もっと、イヂメて~!!
(;`Д´)/ヽアー/ヽアー!!