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HBD in Liaodong Peninsula

中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信しています

少帥府 - 張学良旧居

2022-10-27 | 天津を歩く
天津の旧フランス租界・赤峰道を歩いていると、こんなバロック風の古そうな洋館がありました。



赤い屋根に天津・少帥府(コマンダー張マンション)という大きな文字がでかでかと突き刺さっています。
せっかくの老建築の優美な雰囲気を台無しにしています。ああ、なんてもったいないことか、と思います。中国観光地あるあるです。

ともあれ、このここはかの張学良の住宅だったようです。

張学良は1925年から32年頃の間、ここで暮らしたそうです。24歳から31歳時ということになります。張学良が爆殺された父・張作霖から満州における権力と巨額の財産を承継して実権を握った頃です。

建物自体は1921年に建てられ、その後増築されてたようです。



庭に立っている左側のブロンズが張学良だそうです。

しかし、少帥府とはいいネーミングです。
若い頃の写真を見ると、たしかにイケメンです。
張学良は100歳まで生きましたが、晩年も少帥とよばれたのでしょうか。



現在、博物館として開放されているようでした。
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天津勧業場

2022-09-24 | 天津を歩く
天津勧業場は、天津に残るあまたの近代歴史建築の中でもとりわけ有名な大型建築です。



平和区の平和路と浜江道が交わる華やかな場所です。

この建物は1928年に建設され、フランス人建築家による設計です。
本体は5階で、交差点に面する部分は7階まであります。鉄筋コンクリートフレーム構造です。建築当時、華北地区では最大の商業施設でした。





この建物は戦前の古写真によく登場します。

戦前の勧業場は、1階から3階部分に店舗やテナントが入居するデパートして利用されました。
4階から6階にかけては劇場、映画館などの娯楽施設が入っていたそうです。

最大時にはビル内に300軒以上のテナントが集まったそうです。

設計と建築を担ったのは、ブロサール・モパン(Brossard & Mopin)というフランスの会社でした。時代は1928年ですから、当時の民国で鉄筋コンクリートはかなり先進的な技術だったのではないでしょうか。天津にはこの会社が担った建築物が他にもあります。当時の天津では相当有力な会社だったことが分かります。

今から100年近く前の竣工時、地元の人たちはこの豪華な大型建築を見てさぞ驚いたのではないでしょうか。



左側は惠中飯店です。下の古写真と見比べてください。



新中国成立後も商業施設として多くの客を集め、天津のランドマークであり続けたようです。ビルは語りませんが、激動の近代中国を見てきたというわけです。

天津勧業場の建設に当たって、清朝の末代慶親王である愛新覚羅・載振は主要株主となり、30万元を投資したとされています。
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天津交通飯店

2022-09-12 | 天津を歩く
天津の旧交通飯店ビルです。



天津旧フランス租界で最も華やかな一角である和平路と濱江道の交差点にあります。

天津を象徴する交差点といってよいと思います。
この辺りは現在、歩行者専用道路になっています。

1928年の竣工です。もともとは交通旅館とよばれていました。

天津勧業場、惠中飯店(2022年1月22日の日記)、浙江興業銀行(2021年7月2日の日記)という近代歴史建築と交差点を隔てて対向しています。

風格のある鉄筋コンクリート構造の5階建てで、交差点に面した一部に望楼風の6階部分があります。
5階部分には幾何学的な形のベランダがせり出しています。

フランスのブロサール・モパン社の施工で、同じくフランス人建築家であるミュラーの設計だそうです。ブロサール・モパン社は

投資者の名前の中には末代の慶親王だった愛新覚羅·載振の名前もあります。

近年になって修復を行っているのだと思いますが、1920年代の建築物としては風化を感じず、良好な状態を維持しています。

現在は玄関が封鎖されており、使われていない様子でしたが、今後どのように使う計画なのでしょうか。
さまざまな文物指定を受けているので、取り壊されることはなさそうです。
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旧新華信託貯蓄銀行天津支店

2022-08-19 | 天津を歩く
旧新華信託貯蓄銀行天津支店ビルは租界時代の金融街だった解放北路と浜江道の角に残っています。

1934年竣工の鉄筋コンクリート構造、6階建てです。



玄関は交差点の方向を向いていてます。

縦方向の構図を強調したアールデコ風のデザインです。



新華信託貯蓄銀行は中国資本による中国企業のための商業銀行で、中国銀行と交通銀行が1919年に共同で設立しました。
本店は北京で、最大時には国内13都市に支店を置きました。

このビルを設計したのも沈理源という中国人建築家とされています。

銀行の発足当時は新華貯蓄銀行という名前だったようです。
その名のとおり、預金と貯蓄を主要業務として信託金の受け取り、有価証券の売買、不動産、保険、小口ローン販売などの業務を行ったとされています。

銀行は1952年にその役目を終え、解散しました。
現在は和平金融創新服務大厦というビル名になっています。

保存状態は非常によさそうです。
天津市文物保護単位と重点保護建築に登録されています。
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旧天津税関 - 中国最初の通商窓口「津海関」

2022-08-07 | 天津を歩く
旧天津税関は1869年築という天津屈指の歴史を持つ近代歴史建築です。



旧フランス租界の一番東側、海河沿いに建っています。







今は海関総署の天津特派員事務所、中国税関学会天津分会と天津海関協会の共同事務所として利用されているようです。

1860年、英仏連合軍は第二次アヘン戦争に乗じて天津を攻略し、北京条約を経て清国政府は天津を対外通商の港湾に指定します。
1861年に天津に初めてとなる税関、「津海関」を設立しました。

1869年、天津税関は現在地に移転してきました。

その後、この建物は3回にわたって大規模に拡張されたようです。
古写真で確認すると、建築当初の正面玄関は海河に面していたようです。

直近の改修が相当大掛かりな工事だったらしく、築160年も経過している割に古さを感じません。



エントランスの上に「津海関」の3文字が彫られたコンクリートのレリーフが掛かっていますが、この文字は李鴻章の揮毫です。
1869年に掲げられた李鴻章直筆の看板は、今は天津博物館に所蔵されているそうです。

中国の古い税関建築といえば上海税関や武漢税関が有名ですが、歴史は天津の方が先輩に当たります。

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天津日本租界 田村洋行旧址

2022-08-01 | 天津を歩く
天津の旧日本租界の須磨街(現在の陝西道)から少し北側に奥まったところで見かけた老建築です。



当時の住居表示では、須磨街25番地3です。

1939年の北支蒙疆商工名簿によると、この建物は田村洋行という会社が使っていました。製油原料の輸出と穀物・食料品の輸入を生業とした会社だったそうです。

もうちょっと掘りたいところですが、これ以上は情報が見当たりません。



旧須磨街です。両側とも当時の建物が残っています。
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旧裕中ホテル / 帝国ホテル

2022-07-22 | 天津を歩く
天津の旧フランス租界・解放路の最北端のブロックのこの長方形の建物は、裕中ホテルまたは帝国ホテルとよばれたフランス資本のホテルでした。





1930年代に日本で発行された天津市街地図には、「裕中ホテル(イムペリアルホテル)」と表記されています。

文献によると竣工は1922年築で、英国のアイデッカーセン・ダラス建築事務所による設計とされています。
ホテルの敷地面積は1,924㎡、建築面積は5,026㎡で、150の客室があるそうです。

地上三階、地下一階の構造です。



何度か修繕が行われてきたようですが、古写真と比較すると基本的にほぼ原型のまま保存されています。



右側の建物がそれです。解放橋(1927年築)は当時のままです。



天津市級重点保護風貌建築に指定されています。



現在も全季酒店というホテルとして現役で活躍しています。
次回天津を訪問したら、ここに宿泊しようと思います。
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旧シティバンク天津支店

2022-07-16 | 天津を歩く
戦前に存在した旧シティバンク天津支店は、解放北路の金融街にありました。
現在の中国農業銀行天津支店ビルです。



天津租界のシティバンクは1916年に支店を設立し、1921年に今のビルを建設しました。
シティバンクは預金や為替業務のほかに、紙幣も発行しました。

第二次世界大戦勃発後は、一時期日本が接収しました。

戦後は香港上海銀行(HSBC)にとなり、一時は天津の外資銀行の雄となりました。HSBCは天津が解放された1948年12月に営業を終了しました。
シティバンクは、2003年に再び天津に支店を開設しています。

いかにも金融建築らしい古典様式の門は4本のイオニア式柱に支えられ、開放式の柱廊を構成しています。



北京の東交民巷にも旧シティバンク北京支店がありますが(2020年12月25日の日記)、とてもよく似ています。似ているというか、ほとんど同じです。

調べてみると、これら2つの建築物は同一人物(米国人建築家のヘンリー・マーフィー)が設計したいう説があるそうです。それなら納得です。



こういう発見は面白いものです。マーフィーは南京国民政府の建築顧問も務めた人物です。



天津市重点保護建築に指定されています。
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天津日本租界 啓昌洋行旧址

2022-07-10 | 天津を歩く
天津の旧日本租界で見かけた豪華なバルコニーを持つ洋館です。



ここは伏見街(今の万全道)と須磨街(今の陝西道)の交差点です。
当時の住居表示は須磨街27番地1です。

1941年の商工名簿で調べてみると、この番地には啓昌洋行、平野公司、三和組という3つの日本企業が入っていたことが分かりました。

啓昌洋行と平野公司は、いずれもレーヨンや絹織物を扱った貿易会社でした。
両社の代表者はいずれも平野辰三という人物でした。
事業内容が同じ会社ですので、同じ経営者だったか、関連会社だったのかもしれません。

三和組とは土木建築会社でした。
当時、北京にも三和組という名前の企業があったようですが、同じ会社でしょうか。
小西多兵衛という人が代表をしていたとされています。
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天津 旧豊業大楼

2022-06-19 | 天津を歩く
天津市和平区の営口道を歩いていたときに見かけたレンガ造りのカッコいいいビルです。



4階建てで、半地下部分があるようです。

住居表示をみると、営口道10号と12号とあります。
今は天津市交通集団のビルになっているようですが、当時は何だったのでしょうか。



調べてみたところ、これは旧豊業大楼と紹介されていました。
1920年の竣工だそうです。

ネットにはこの老建築に関する文献がないのですが、ビル名から辿っていくと1920年に北洋政府農商省によって承認、設立された豊業銀行の事務所だったと思しきヒントがありました。

豊業銀行は天津の実業家や地元役人が共同出資して内モンゴルに設立した商業銀行です。
天津には銀行の店舗はありませんでしたが、事務所はあったようです。

豊業銀行の営業期間は短く、1937年には日本に接収されています。
わずか17年の命だったと。

一応天津市の歴史建築のプレートは架かっていましたが、それほど注目度は高くないようです。なぜでしょうか。

海河の近くで税関の隣ですから、てとても便利な場所だったと思います。
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旧天津大清郵政局 - 中国近代郵便発祥の地

2022-06-13 | 天津を歩く
天津の旧フランス租界の旧天津大清郵政局は1878年に建てられた歴史建築です。



文献によると、この建物は中国に現存する唯一の大清郵政局の建物だそうです。

前身は天津税関書信館でした。
1878年3月、津海新関(2021年 月 日の日記)に中国初の郵便局となる天津税関書信館が設立されました。当時は税関と郵便は同じ組織が担っていたのですね。
書信館は中国初の切手となる大龍切手を販売したそうです。

郵便局は1880年に天津税関充当達局と改称し、1884年、このビルに転入して事業を始めました。







1897年に天津大清郵便局と改称しました。

その後清国が解体し、中華民国になっても郵便事業を継続しました。

中国近代郵便のルーツと呼べる場所です。
国内初の郵便規則もここで作られたそうです。

2000年、天津市郵便局が財産権を買い取り、天津郵政博物館になりました。その後大掛かりな改修工事が行われました。

レンガ構造の2階建てで、半地下室があるようです。
欧州の古典主義様式と中国の伝統的なレンガ彫刻の技術を結合した作りです。



この壁面の植物の葉のレリーフや当初からあったものでしょうか。

今は天津郵政博物館として開放されています。

天津市文物保護単に指定されています。
2019年には中国工業遺産保護リストにも登録されたそうです。
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旧天津公学 / 耀華学校

2022-06-01 | 天津を歩く
天津公学(後に耀華学校)は、天津の旧英国租界、南京路に面する天津で最も長い歴史を持つ近代教育施設の一つです。



1927年に実業家の庄楽峰が創立した英国式の中国人向け私立学校です。
英国租界に住んでいた中国人のための学校なので英国式なのだと思いますが、英国に建ててもらったわけではなく、中国人資本なのですからそんなに英国にすり寄る必要もないのに、という気もしますが、租界地内に置く以上はそうせざるを得なかったのでしょう。

庄楽峰は当時、天津英国租界華人納税会取締役だったそうです。
1927年当時はここではなく、今の湖北路付近にあったそうです。





この校舎は1929年から建設が始まり、1935年に竣工しました。折中主義的なデザインです。

学校の名称は設立当初は天津公学で、1934年に耀華学校に改名しました。

1952年、私立耀華学校は天津市が接収し、天津市第十六中学校と名前を変えました。しかし、1988年、再び耀華学校と呼称を戻して現在に至ります。

一度変更した看板を元に戻したのはなぜでしょうか。

この辺りは文献がないので分かりませんが、想像するに、中国人が立ち上げた学校であることに加えて、なんといっても「耀華」という言葉の響きだったのではないでしょうか。
なにしろ「華人」が「耀く」わけです。
中華民族のアイデンティティを刺激するする最高のネーミングです。放っておくのはもったいなかったのではないでしょうか。

地下室があるコンクリートの2階建て(一部3階部分あり)です。
校舎の裏側には校庭があるようです。

さしずめ天津の学問の殿堂と呼ぶべき場所なのだと思います。
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天津 南京路98号建築

2022-05-29 | 天津を歩く
天津の旧英国租界、南京路を歩いていたときに見かけた3階建ての老建築です。
南京路、河北路、煙台路が交わる場所です。



左右対称で、正面玄関に3連の尖頭アーチのポーチが気品のあるゴシックの雰囲気をたたえています。

窓とアーチの間の壁面に施されたひし形の装飾がアクセントになっています。

歴史建築の指定は受けているようですが、これは何の建物だったのでしょうか。

調べてみると、1927年の竣工ということは分かりましたが、何だったのかは情報が出てきませんでした。
こんなに大型で目立つ場所にあるのに、不思議なことです。



現在は、天津市の衛生医学関係の学会や協会がたくさん入居しているようです。

医師協会、看護学会、輸血協会、薬学会、医薬学協会、中西医結合学会、予防医学会、健康管理学会、鍼灸学会、社区衛生協会、衛生経済学会...これらが全部ここに入っています。

ということは、英国租界時代も同じような衛生医療関係の用途だったのかもしれません。
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天津 北洋保商銀行跡地

2022-05-02 | 天津を歩く
かつて天津にあった北洋保商銀行の跡地は旧フランス租界の解放北路と赤峰道の交差点にあります。





文献によると、この建物の前身は1908年に建てられ、日本人が経営する武斎洋行やフィリピン人経営の華比銀行などが共同で使っていたそうです。

その後1910年に北洋保商銀行として再建されました。

北洋保商銀行は中国とドイツの合弁銀行でした。
「保商」とはどういう意味でしょうか。

清代末期、天津の商人は海外から大量の布と綿織物を輸入しましたが、綿の国際価格の高騰に遭い、大きな損失を受け、借金を抱えてしまいました。1908年時点で徳商瑞記洋行、礼合洋行、日本の大倉洋行などに対して数百万両の代金を滞納していました。

そこで、1909年ドイツ商人パボットが債権代表の1人としてこれら借金の弁済問題に名乗りを上げます。租借地に進出した列強の企業が利益を上げるためには、天津の地元企業のビジネスも維持させる必要がありました。

ドイツ側の提案を経て、清国政府、中国商人と外国債権者の3者が共同で出資して北洋保商銀行を立ち上げました。銀行は預金業務のほか、単独で貨幣を発行しました。
債権者は銀行の利益から代金を回収しました。

「保商」という名前は文字通り、ビジネスを維持するという意味でした。

1920年になると、事業範囲を拡大した北洋保商銀行は北京の西交民巷に移転しました。この頃になると、第一次世界大戦で敗戦したドイツは手を引き、中国独資になっていました。

ここにあった保商銀行は一般の商業銀行に業態を変更しました。



北洋保商銀行は、日中戦争の本格化を受け、1939年に廃業しました。

文献によると、1910年に建築された元の建築は道路拡張のために撤去され、今の建物は1927年に天津万国工事会社が設計して建築したものだそうです。すなわち、この建物は北洋保商銀行だったわけではなく、跡地ということになります。

それはそのはずで、解放北路と赤峰道の交差点は旧租界地では最も交通量の多い場所のひとつです。

では、1927年に建てられたこの建物は何だったのでしょうか。
それが紹介されている文献が見当たりません。

今は利用されていないようです。
こんな一等地ですし、保存状態も悪くなさそうですので、いくらでも用途がありそうに思います。

天津市文物保護部門に指定されています。
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中南銀行天津支店旧址

2022-04-23 | 天津を歩く
かつて中南銀行天津支店だった3階建ての歴史建築です。

場所は解放北路の金融街の中心付近です。



中南銀行とはどんな銀行だったのでしょうか。
銀行名の「中」は中国、「南」と南シナ海のことです。
英語にするとCHINA AND SOUTH SEA BANKです。

北四行(民国時代の北方の4大大型商業銀行の総称。金城銀行、塩業銀行、大陸銀行、中南銀行)の一つでした。

1921年に中国とインドネシア華僑が共同で上海に設立した商業銀行で、初の支店となった天津支店は1922年に置かれました。

その後、北京、アモイ、漢口、広州、南京、杭州、蘇州、無錫、重慶、香港と、次々に支店を開設しました。

当時は数少ない中国資本の銀行で、同行が発行した紙幣は上海や香港で広く流通していたそうです。



銀行ビルは鉄筋コンクリートの3階建てで、地下1階があります。
1938年に増築が行われたという記録がありますが、増築したのは3階部分でしょうか。

当時、この一帯は租界地であり、欧州の古典建築様式の金融機関が続々と建てられていた時期ですので、こうした流行の影響が感じられます。

天津で幅を利かせていた英仏租界地のど真中に拠点を置いて気を吐いた中華民族魂の商業銀行、という感じでしょうか。

現在は中国建設銀行天津支店が使っています。
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