goo blog サービス終了のお知らせ 

HBD in Liaodong Peninsula

中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信しています

旧天津日報社ビル

2023-07-05 | 天津を歩く
日本租界時代の天津にはいくつか邦字新聞が発行されていましたが、そのうちの一つである天津日報の社屋が今もそのままの姿で残っています。



旧日本租界の福島街です。今の多倫路です。

1932年発行の「外国に於ける新聞 昭和7年版 上巻 (満洲及支那の部)」(外務省情報部発行)によると、天津日報はこのように紹介されています。

明治43年創刊、朝刊4ページ、夕刊4ページ、発行部数800、天津最古の邦字紙たりし北新時報と北支那毎日新聞とを合併改題せるものにして国家主義、国粋主義を高調し、大阪毎日新聞系なり、総領事館及び民団の公告登載指定紙なり、発行所日本租界福島街

1937年発行の「満洲国及支那に於ける新聞」には、このように書かれています。

明治43年創刊、発行所日本租界福島街、日刊10ページ、発行部数1700、資本金7万元、本紙は元天津最古の邦字紙たりし北新時報と北支那毎日新聞とを合併改題せるものにして総領事館及び民団公告登載指定紙なり

いかがでしょうか。
この紹介ぶりから、天津日報は租借地政権寄りの保守系メディアであったことが伝わってきます。

場所も総領事館や居留民団に近いですので、なにかと便利がよかったと思います。



いつまで新聞の発行を続けたのかは定かではありませんが、おそらく、戦時色が濃くなった30年代後半からは軍部の圧力を受けて掲載記事を規制されたり、検閲を受けるようになったのではないでしょうか。

会社は眞藤棄生、金田一良生、武田守信の合名会社で、眞藤棄生が主筆を務めたとあります。1937年には編集長として樋口義麿という名前があります。



この4階建てのビルの中で日々の紙面印刷も行っていたのでしょうか。

天津日報は天津居留民団の議員会社でもあったようですから、当時の日本コミュニティでは一定の影響力を持っていたのだと思います。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天津日本租界 日本警察宿舎旧址

2023-07-02 | 天津を歩く
天津の旧日本租借地の橘街(今の蒙古路)を歩いていると、こんな曲線を生かしたユニークな近代モダニズム建築が目に入ってきました。







蒙古路と河南路を結ぶ新佳里です。
通用路を挟んで左右対称の3階建ての住宅が建っています。

日本租借時代の集合住宅だったと見立てましたが、調べたところ、日本の警察署員用の宿舎だったようです。

設計者の情報はありません。おそらく、当時としてはかなり尖がった建築士が設計したのだと思います。

なんとなく、かのスペインのアントニ・ガウディの作風を彷彿とさせます。

中国語の動画で1926年の竣工と紹介する情報がありましたが、本当でしょうか。





お固い仕事の警察向けの宿舎としては、ずいぶん大胆な、遊び心のあるビルを作ったものです。

今も市民の住宅として使われているらしく、中庭を兼ねる通用路では子どもたちが遊んでいました。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天津旧日本租界 大福ビル旧址

2023-06-29 | 天津を歩く
天津の旧日本租界に、当時「大福ビル」とよばれていた3階建ての建物があります。



シンプルながらも洗練されたかっこいい外観が目を引きます。
設計者の情報がありませんが、いかにも当時の日本人が建築家っぽいデザインです。

一見したところ集合住宅のようですが、当時このビルはなんだったのでしょうか。



中国語のネット記事によると、1936年頃の竣工で、租借時代は天津に駐留していた日本の官憲の世帯用宿舎だったと紹介されています。

憲兵司令部の幹部将校用の宿舎だったとか、駐留軍の将校用の世帯宿舎だったとか、さまざまな情報があります。

ここは当時の在天津日本領事館や警察署のすぐ近くです。天津神社や居留民団事務所、海光寺からも徒歩数分圏内です。この辺りに官憲用の宿舎があっても不思議はありません。

しかし、僕はこの情報は間違いだとみます。

大福というのは、当時天津にあった株式会社大福公司と関係があるのではないでしょうか。伊藤忠系の会社です。

昭和14年(1939年)の天津商工案内などの文献で大福ビルに入居していた会社を探してみました。

中島工務所という機械卸業、水道暖房衛生工、工場各種配管工者がこの3階に入っていたと記されています。
最上洋行天津支店という写真機材料の卸小売の会社もそうです。
久華洋行という電気材料、電球、金物の店もここです。



旧日本租界の橘街(現在の蒙古路)、春日街(現在の河南路)、伏見街(現在の万全道)という3方向を道で囲まれています。

おそらく、当時はかなり立派で近代的なビルだったのだと思います。仮に官憲の宿舎だったとすれば、当時の在留邦人から、官憲の暮らしぶりがうらやましがられていたのではないでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本租界常盤街14番地 鈴木商店 / 根木洋行 / 西尾愼一商行

2023-06-14 | 天津を歩く
天津の旧日本租界を再訪して、通りを隅々まで歩いてみました。

遼寧路の小道を歩いていると、こんな2階建ての長屋を見かけました。



屋根の切妻部分が階段状のステップド・ゲーブルになっています。



これはドイツや英国、ロシアなど欧州によくみられる様式です。日本租界で見かけるのは意外な感じがしますが、租借時代の建築家の遊び心でしょうか。



古地図で照合すると、ここは当時の常盤街14番地です。
何があったのでしょうか。これだけ横長ですので、複数の会社や店舗が入っていたと思います。



1941年版の中国工商年鑑で調べてみると、この番地には根木洋行と西尾愼一商工という会社がありました。

根木洋行は、織物、陶器、雑貨を扱うと紹介されています。
西尾愼一商工は雑穀、雑貨を扱ったとされています。

北支在留邦人芳名録(1936年発行)によると、根木洋行は大正9年(1920年)創業とあります。為替仲介と味の素の輸入が生業だったそうです。味の素は100年前から日本料理に使われていたのですね。

経営者の根木鐵次氏は明治28年生まれで浜松出身、早稲田大学卒業と紹介されています。

一方、1939年版の天津商工案内によると、この番地には株式会社鈴木商店天津支店が記載されています。

鈴木商店は食料品、味の素を販売していたようです。つまり、根木洋行が輸入していた味の素を鈴木商店が売っていたのでしょうか。



当時の空中写真に写っています。

赤丸が14番地長屋、左側の広場が大正広場と天津神社、その左側が日本領事館です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天津 イタリア駐屯軍司令部跡地

2023-06-11 | 天津を歩く
天津のイタリア駐屯軍司令部の跡地とよばれる場所です。



ありふれた2階建てで特に目を引くような特徴はありません。



軍司令部ならもっと威厳のありそうな門構えでもよさそうですが、これだと観光客は通り過ぎてしまいまそうです。

質素なデザインのエントランスを入ると中庭に出ます。この中庭を囲んでロの字型に建物が囲んでいます。





これが司令部のあった建物のようですが、いたって質素です。

当時、この司令部の北側には、天津イタリア租界の行機関だったイタリア工務省があったそうです。今はありません。

いずれにしても、この辺りはイタリア租界の防衛や行政の中心だったということだと思います。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天津イタリア兵営旧址

2023-06-08 | 天津を歩く
天津の租界地には日本を含む8か国連合軍が租界地を置いて軍に駐留させたわけですが、このうち旧イタリア租界に残る兵営は、現存する兵営の中でもっとも大型で壮大です。





レンガづくり4階建て(一部3階建て)、コの字型のイタリア兵営は1916年から1925年にかけて建てられました。



横長で、4000㎡あまりの広さがあります。ここに駐留した混成軍陸軍兵士は約1000名いたそうです。

1階から3階にかけてアーチが連なる回廊があって、イタリアやスペインでよくみかける修道院のようです。

ラストエンペラーの溥儀は天津滞在中、イタリア租界当局やイタリア政府関係者と多くの交流があったそうです。

1920年代末頃、イタリア側が溥儀を司令部に招き、軍事パレードを行い、溥儀のために盛大なレセプションを開いたこともあったのだとか。











それがここだったのでしょうか。

戦後、兵営は人民解放軍の居住エリアになりました。その後、解放軍天津警察区独立師団の本部に、さらにその後も武装警察軍が利用を続けていたようです。



たまたま訪問した際は全面的な改修工事が行われていたためか、自由に出入りすることができました。
軍の管理地であれば、工事中であろうと立ち入り禁止のはずですので、軍は所有権を手放したのではないでしょうか。







コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧イタリア租界 曹錕中華民国大統領旧居

2023-05-25 | 天津を歩く
天津の旧イタリア租界を歩いていると、由緒ありげな格調のある洋館が目に入ってきました。



歴史保護建築を示すプレートが掲げられています。



これは中華民国の大統領だった曹錕(1862-1938)の旧居だそうです。





曹錕は天津出身の北洋軍閥直隷派で、袁世凱の下で軍人として頭角を現した軍人でした。
日清戦争では鴨緑江方面で従軍しました。

曹錕は奉天派を率いる張作霖と姻戚関係がありました。
しかし、曹は第一次奉直戦争で直隷派が勝利すると、張を天津から放逐します。

曹は1923年に6代目の中華民国大統領に就任し、第二次奉直戦争で敗れる24年までの1年あまり、その任にありました。





曹は天津市内に4か所の住居を持っていたそうです。
これはそのひとつです。
ほかの3つはイギリス租界にあって、大統領を退き、国民党による北伐で直隷派が壊滅すると、イギリス租界の住居で暮らしました。

この建物は1919年から20年にかけて建てられたようですが、実は曹はここには住んでいなかったという文献もあります。

とにかく、天津市内に4か所も立派な邸宅を構えることができたわけですから、相当な財を成した人物だったということは言えると思います。





1929年からは天津市立病院として使われたそうです。

今は空き家になってるようでした。
見たところ保存状態はとても良好です。ロケーションも良好ですので、使い道はいくらでもありそうです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天津旧イタリア租界 ダンテ広場と順直水利委員会旧址

2023-05-19 | 天津を歩く
天津の旧イタリア租界のダンテ広場に来ました。



ラウンドアバウトの真ん中に、かのフィレンツェ出身の詩人・ダンテの彫像が建っています。

ダンテの彫像は租界時代からあったわけではなく、おそらく今世紀に入ってから作られたのだと思いますが、なぜダンテだったのでしょうか。

ラウンドアバウトの北西角には、天津記憶博物館という施設があります。





このレンガ造りの洋館は、1918年に北洋政府のイニシアチブで建てられた順直水利委員会とよばれる施設でした。

順直という単語は聞き慣れませんが、水がスムーズに流れるとか堤防がまっすぐであることを指す中国語だそうです。

主に海河と黄河流域の水利行政、河川管理を掌った機関だったようです。1928年には華北水資源管理委員会と名前を変えました。



なぜこの場所だったのでしょうか。
天津はかつて、しばしば大規模な水害に見舞われたとで知られますが、そのことと関係しているでしょうか。

2006年に修復が行われて、博物館として市民に無料で開放されています。

入場してみたところ、1階と2階が展示スペースになっていて、天津の近代の都市形成の成り立ちを説明する説明や写真、骨董品が展示してありました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フランシスコ会聖心教会旧址

2023-05-04 | 天津を歩く
天津の旧イタリア租界の旧イタリア病院(聖心医院)の東隣に、いかにもイタリアっぽいレンガ造りのルネサンス様式の教会建築が残っています。







この教会は、フランシスコ会聖心教会(あるいはイエスの聖心教会とも)とよばれていました。

この教会の竣工は、イタリア病院と同じ1922年です。
イタリア人建築家による設計です。中国大陸にここまでまるっきりイタリアテイストの教会建築はここ以外にあるでしょうか。

アーチ型の窓を持つ三角形の壁が三方向を向いていますが、このうち北側の壁の上には十字架が立っていたそうです。





建物の中央ある八角形のドーム状の屋根にはそれぞれの面に丸窓が嵌められています。それぞれの角は付柱で装飾されていて、細かいところまで手が込んでいます。



イタリアカトリック教会援助団のフランシスコ会の援助により、同家の修道女たちの宗教的奉仕のために建てられた、という記録があります。

フランシスコ会といえば、アッシジのフランチェスコがはじめた修道会です。



今は使われておらず、手入れも行われておらず、廃墟のようになっています。

屋根からは雑草が生えています。

保護建築指定を受けているので取り壊すことはないと思いますが、適切なメンテナンスが待たれるところです。



レンガの積み方はフランス積みです。イタリアはこのタイプなのでしょうか。

旧イタリア病院は西隣です。



病院と2階部分で繋がっています。いつ頃繋げたのでしょうか。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖心医院 / イタリア病院旧址

2023-05-01 | 天津を歩く
天津の旧イタリア租界にある建国路は、租界時代にはヴィットーリオ・エマヌエーレ3世道路とよばれていました。

ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(1869 - 1947)は当時のイタリア国王です。

国王の名前を街路名にするぐらいですから、重要施設が集まる通りだったということだと思います。

歩いてみました。

当時の建物で最初に目に入ってきたのは3階建ての堅剛そうな大型建築です。





歴史建築を示すプレートには聖心医院旧址と紹介されています。



調べたところ、この医院は1922年にイタリア人居留民によって開設された「イタリア病院」とよばれた総合病院だったそうです。
天津で初めての大型総合病院だったのだとか。

イタリアの慈善家たちが資金を出し、イタリア・トリノ出身の建築家ダニエレ・ルフィノーニ(Daniele Ruffinoni)、軍医ルドヴィコ・ニコラ・ディ・ジューラ(Ludovico Nicola di Giura)、司祭レアネッティ(Leanetti)によって設計・建設され、フランシスコ会宣教師の管理によって運営されたとされています。

着工は1914年に始まり、8年をかけて1922年末に完成したそうです。

玄関に設えた大理石の付柱装飾には「OSPEDALE ITALIANO」というイタリア語の文字が刻まれています。



「イタリア病院」です。竣工した1922年末に設置したのだとすれば、ちょうど100年です。

当時、病院には40床のベッドと8つの専門科があったといいます。
聖心医院と名前を変えたのは1937年だそうです。





新中国成立後、イタリア人居留民が国外に去った後は、天津第一病院として長く病院の役割を維持しました。

2008年から2009年にかけて改修が行われたそうです。
現在は病院ではなく。民間会社が利用しているようでした。



ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世道路に面した玄関前にはこんな門柱らしきものが1本だけポツンと残っています。
これも病院に付属する門柱だったのだと思いますが、なんだったのでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧イタリア租界 マルコポーロ広場

2023-04-25 | 天津を歩く
天津駅の西側に広がる旧イタリア租界は、近代中国で唯一、イタリアが置いた租界地でした。

広さは英仏租界ほど大きくありませんが、今も租界時代の建物が密集するようにたくさん残っていて、コロニアルな雰囲気を感じさせてくれます。

なんでも築100年を越える老建築が200棟ほどあるのだとか。

マルコポーロ広場はそんな旧イタリア租界の中心付近にあります。

広場は1902年から造成が始まったそうです。



広場の中央に建っている塔は、「平和の女神の彫刻」とよばれています。

租界時代は欧州大戦記念塔とよばれていました。1923年に第一次世界大戦の勝利を記念して建てられたものです。
コリント式の柱の上に載っている羽を広げた聖母像は、イタリアの彫刻家ジュゼッペ・ボニがデザインして、完成後にイタリアから上海を経由して天津に運ばれたそうです。





古写真にも出てきます。

しかし、実はこの塔は1950年代に取り壊されています。

現在の塔は、2002年に古写真など当時のデータを使って忠実に再建したものだそうです。

比較したところ、見分けがつかないぐらい同じデザインのように見えますが、近づいて台座の花崗岩の質感を観察してみると真新しい印象を受けます。

このマルコポーロ広場付近は租界時代の洋館をリノベーションした洒落た感じのレストランやショップが軒を連ねていて、ちょっとしたテーマパークのような感じがあります。



コロナが落ち着き、自由が戻ってきたこともあるのだと思いますが、とても賑やかで活気を感じる一角です。



一歩小道に入るとこんなイタリアの古い街に足を踏み入れたかのような趣ある空間に出くわします。

行政主導でしっかりと保護活動が行われているのだろうと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧万国橋

2023-04-16 | 天津を歩く
海河に架かる解放橋は天津のランドマークのひとつです。

1927年築ですので、もうすぐ100年になります。





租界時代は万国橋という名前でした。フランス租界に繋がっていたので、フランス橋ともよばれていたそうです。





川の両側に列強の租界地がありましたので、万国橋とはいかにも相応しいネーミングだったと思います。

天津駅前広場と旧フランス租界の解放北路を結んでいます。





橋から旧フランス租界に入ると近代歴史建築が連なります。

かつては橋の中央部が開閉する跳開橋だったそうです。大型船が通行しない今は閉じたままになっています。勝鬨橋と同じです。





天津といえば貿易で栄えましたので、船舶の往来はかなり盛んだったようです。古写真でもその様子が残っています。

設計者については正確な情報がないようです。

鉄骨で作られたデザインがパリのエッフェル塔に似ているので、エッフェル塔と同じギュスターヴ・エッフェルが設計者だという説があるようですが、百度百科によると、設計を請け負ったのは米国の会社であるとしてエッフェル説を否定しています。

もしエッフェルの設計だったらロマンがありますし、さらに橋の価値が上がりそうです。

橋の両側に設置されている歩道は最初からあったのでしょうか。



多くの観光客が往来しています。

昔も今も、川に架かる美しい鉄橋の姿は天津を代表する景色です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国大戯院 - 歴史を誇る天津の京劇の殿堂

2022-11-17 | 天津を歩く
天津の中国大戯院は1936年に竣工した伝統のある劇場です。



和平区のハルビン道と濱江道に挟まれた場所です。

1934年、地元の起業家だった孟少臣が天津に最高水準と現代レベルの劇場を建設することを提案。これに応じた篤志家や俳優らから資金を調達し、建設が始まりました。

1936年に完成した劇場は、5階建ての建物の中に吹き抜け3階構造の観客席があり、2380席の座席が作られたそうです。



また、当時の天津では非常に珍しかった米国オーティス社の第一世代のエレベーターを設置したそうです。そのエレベーターは今も現役で活躍しているのだとか。
ファサードは、フランスとスイス、英国のエンジニアが共同で設計しました。

民族魂で外国の技術を導入して作った殿堂ということでしょうか。
修復を繰り返しながら、今も現役の劇場として活躍しています。



僕が訪問した時には感染対策で閉鎖されていましたが、いつか入場してみたいものです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天津 旧スワイヤー商会ビル

2022-11-11 | 天津を歩く
和平区の解放北路165号にあるこの格調高い2階建ての古い洋館は、かつてかのスワイヤー商会の社屋でした。



キャセイパシフィック航空やコカ・コーラの、あのコングロマリットのスワイヤー・パシフィックです。

この建物は古いです。なんと1886年の竣工と伝わります。
半円形のアーチ状になった窓がロマネスク風で、イオニア式の小さな柱を窓と窓の間に置いたり、遊び心を感じる作りです。のびのび自由に設計したのかな、という印象を受けます。

全体的に灰色ですが、これは後に塗装されたもので、元々は赤レンガづくりのようです。

ただ、本当に自由に遊んで作ったのかといえば、違うかもしれません。
なにしろ1880年代です。
この一帯の周りの近代洋風建築の中では最長老の存在です。

設計者は、このアジアの港町に西洋建築を持ち込むにあたって、どういう建築が相応しいのか試行錯誤の中のデザインだったのではないでしょうか。

スワイヤー商会はは天津にかなり早くから進出していた外資系企業の一つで、英国のジャーディン・マセソン社(2022年2月10日の日記)に次ぐ規模を誇りました。

1816年、リバプールで誕生したスワイヤー商会は羊毛や製糖、海運業など生業にして成長しました。天津支店は上海、香港などに続いて1881年に設立し、ジャーディン・マセソンとともに中国での海運業の市場を独占しました。

その後、製糖、塗装、保険、輸送船事業などを手掛けました。

天津支店は当初、別の場所で営業していましたが、急成長で集めた資金で1886年にこの場所にこのレンガ造りの自社ビルを建設しました。

1930年代初めには79隻、総トン数150万トン以上の船を保有していたといいます。
会社のすぐ西側が海河なので、船着き場として活用したのだと思います。

日本にも支店がありました。横浜の山下公園の向かいには、当時の横浜支店の建物が現存しています。旧英国七番館(戸田平和記念館)です。

19世紀からほぼそのままの形で残る、貴重な老建築です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天津 王劭廉旧居

2022-10-30 | 天津を歩く
天津の旧フランス租界・赤峰道を歩いていると、こんなレンガとコンクリートの2階建ての洋館をみかけました。



和平区が指定した文物であることを示すプレートが掲げられています。

王劭廉なる人物の旧居だと。どんな人だったのでしょうか。

調べたところ、王劭廉(1866-1936)は清代末期から民国時代にかけて活躍した教育者でした。中国に近代の大学制度を導入した先駆者のひとりなのだそうです。



英国の海軍士官学校で造船工学のほか法律や政治を学び、帰国後、北洋海軍兵学校をはじめ様々な教育機関で英語などを指導し、多くの優秀な人材を世に送り出したそうです。

晩年は順天学堂や北洋大学堂(現天津大学の前身)では総教師(事実上の学長)として教育制度の改革に力を尽くしたとされています。

そして、ここで70歳の生涯を閉じたと。

中国は日本に比べて、教育者をより敬い、功績をより称える習慣がありますが、この人もそういう偉人の一人なのだと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする