日本租界時代の天津にはいくつか邦字新聞が発行されていましたが、そのうちの一つである天津日報の社屋が今もそのままの姿で残っています。

旧日本租界の福島街です。今の多倫路です。
1932年発行の「外国に於ける新聞 昭和7年版 上巻 (満洲及支那の部)」(外務省情報部発行)によると、天津日報はこのように紹介されています。
明治43年創刊、朝刊4ページ、夕刊4ページ、発行部数800、天津最古の邦字紙たりし北新時報と北支那毎日新聞とを合併改題せるものにして国家主義、国粋主義を高調し、大阪毎日新聞系なり、総領事館及び民団の公告登載指定紙なり、発行所日本租界福島街
1937年発行の「満洲国及支那に於ける新聞」には、このように書かれています。
明治43年創刊、発行所日本租界福島街、日刊10ページ、発行部数1700、資本金7万元、本紙は元天津最古の邦字紙たりし北新時報と北支那毎日新聞とを合併改題せるものにして総領事館及び民団公告登載指定紙なり
いかがでしょうか。
この紹介ぶりから、天津日報は租借地政権寄りの保守系メディアであったことが伝わってきます。
場所も総領事館や居留民団に近いですので、なにかと便利がよかったと思います。

いつまで新聞の発行を続けたのかは定かではありませんが、おそらく、戦時色が濃くなった30年代後半からは軍部の圧力を受けて掲載記事を規制されたり、検閲を受けるようになったのではないでしょうか。
会社は眞藤棄生、金田一良生、武田守信の合名会社で、眞藤棄生が主筆を務めたとあります。1937年には編集長として樋口義麿という名前があります。

この4階建てのビルの中で日々の紙面印刷も行っていたのでしょうか。
天津日報は天津居留民団の議員会社でもあったようですから、当時の日本コミュニティでは一定の影響力を持っていたのだと思います。

旧日本租界の福島街です。今の多倫路です。
1932年発行の「外国に於ける新聞 昭和7年版 上巻 (満洲及支那の部)」(外務省情報部発行)によると、天津日報はこのように紹介されています。
明治43年創刊、朝刊4ページ、夕刊4ページ、発行部数800、天津最古の邦字紙たりし北新時報と北支那毎日新聞とを合併改題せるものにして国家主義、国粋主義を高調し、大阪毎日新聞系なり、総領事館及び民団の公告登載指定紙なり、発行所日本租界福島街
1937年発行の「満洲国及支那に於ける新聞」には、このように書かれています。
明治43年創刊、発行所日本租界福島街、日刊10ページ、発行部数1700、資本金7万元、本紙は元天津最古の邦字紙たりし北新時報と北支那毎日新聞とを合併改題せるものにして総領事館及び民団公告登載指定紙なり
いかがでしょうか。
この紹介ぶりから、天津日報は租借地政権寄りの保守系メディアであったことが伝わってきます。
場所も総領事館や居留民団に近いですので、なにかと便利がよかったと思います。

いつまで新聞の発行を続けたのかは定かではありませんが、おそらく、戦時色が濃くなった30年代後半からは軍部の圧力を受けて掲載記事を規制されたり、検閲を受けるようになったのではないでしょうか。
会社は眞藤棄生、金田一良生、武田守信の合名会社で、眞藤棄生が主筆を務めたとあります。1937年には編集長として樋口義麿という名前があります。

この4階建てのビルの中で日々の紙面印刷も行っていたのでしょうか。
天津日報は天津居留民団の議員会社でもあったようですから、当時の日本コミュニティでは一定の影響力を持っていたのだと思います。