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HBD in Liaodong Peninsula

中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信しています

長春 旧満州国国務院

2015-11-04 | 東北を歩く
旧満州国国務院は、長春・文化広場の南側に位置しています。
満州国時代の官庁街であった新民大街の入口です。


(高さ45メートル、約5万平米の広さです)

1936年竣工の大型建築です。
日本の国会議事堂がモデルとされています。

帽子の部分は和風と中国風を折衷したような屋根が配されているところが国会議事堂と大きく違います。

この屋根部分が独特の威圧感を醸し出しています。

手のひらなどでこの屋根部分を隠して見ると、たしかに国会議事堂のように見えます。


(当時の絵葉書です)

当時は満州国の政治の中心として機能しました。
日本人の幹部職員も数多く登用され、ここで勤務したそうです。


(正面には立派な4本のオーダーが配されています)

国家級重点保護建築に指定されています。

今は吉林大学基礎医学院として利用されています。
僕が訪問したときも、白衣を着た若い医者の卵が出入りしていました。

1937年、溥儀が満州国軍の閲兵を行った場所とされています。

「地球の歩き方」によると、溥儀が植樹した松の木があるとされています。「歩き方」で紹介されている写真を片手に敷地内を探してみましたが、よくわかりませんでした。


(樹形や背景から推測すると、この木でしょうか? ちょっと自信がありませんが・・・)


(これも当時の絵葉書です。この絵には松の木は描かれていません)

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長春 旧関東軍司令部

2015-09-29 | 東北を歩く
長春の旧関東軍司令部です。


(中国の風景とは思えません)

もともと、関東軍司令部は旅順に設置されました(2013年7月19日の日記)。1919年のことです。

満州事変が起こり、旧満州国が設立した後、旧満州国の首都だった長春(当時の新京)に移設されました。
1934年のことです。

写真を見てわかると思いますが、まるっきり日本のお城そのものです。
長春の中心部である人民大街と清発路沿いに建っていますが、この異様な建物が見えてくると驚きのあまり言葉を失います。

中国の都市景観としてはミスマッチです。

20世紀前半に日本人が中国大陸で手掛けた建築物というのは、ほとんどがレンガを使った洋風建築がベースになっていて、ところどころに中国や日本のテイストが織り交ぜられ、調和の取れたデザインがなっていると思うのですが、これは決定的に違います。
日本をそのまま持ち込んでしまった感じです。ど真ん中ストレートです。
示威的で圧迫感たっぷりです。


(人民大街側から見るとこんな感じ)


(お城そのものです)


(当時の絵葉書です。「お城の如く」と紹介されています)

当時の満州国における関東軍の影響力の強さや狂気じみた雰囲気が伝わってくるようです。
いくらなんでも、やりすぎです。

旧関東軍司令部は、現在、共産党吉林省委員会として利用されています。

つまり、吉林省の最高権力機関というわけです。

え? い、いいのでしょうか?
こんな超日本的デザインの建築物をそんな機関に利用してしまって・・・。

このお城の中で勤務している地元の方々は、日々どんな気持ちなのでしょうか。
まあ、僕が心配する筋合いの話でもないのですが・・・。

侵略の事実を伝える負の遺産として残していることは確かだと思いますが、吉林省の人々は寛容というか何というか・・・。考えさせられます。

正直に言えば、恥ずかしいというか申し訳ないとうか、目を覆いたくなるような気分に襲われます。
しかし、こうした建築物は確実に旧満州時代の雰囲気を伝えてくれる遺構です。実際に見て初めて感じることは多いものです。

「百聞は一見に如かず」です。
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長春

2015-09-23 | 東北を歩く
ハルビンのあと、長春にも立ち寄ってみました。

ここも初訪問です。


(ハルビンからは在来線に乗って移動してみました)


(硬座の車両内は満席です。2時間半で長春に到着です)


(長春に到着しました)

長春は近代的な都市計画が行われたことを感じさせる街でした。

幹線道路の道幅が広く、地下配管になっているのか電線などの架空線がほとんどなく、街並みはすっきり整然としていました。


(長春駅です)

市街地の地図をみると、大連やハルビンなど他の東北の都市に比べて市街地面積がやや広いように感じられましたが、なるべくタクシーやバスは使わず、自分の足で歩いてみることにしました。


(駅前の勝利大街のアールデコ建築。日本人の設計と思われます)

一昨日の日記で、ハルビンを「とてもロシアを感じさせる街」とご紹介しました。ハルビンはそれほど個性的な街でした。

これに対して長春は「とても旧満州国を感じさせる街」でした。
ここが新京と呼ばれた旧満州国(偽満州国)時代の行政機構だった大型建築物が思いのほかたくさん残っており、異彩を放っていました。


(日本人が住んでいたと思われる老建築)


(ここもそうだと思われます)


(このアールヌーボー建築は、豊楽劇場と呼ばれた映画館だったそうです)

大連は日本の租借地、瀋陽は満鉄の鉄道附属地、ハルビンは東清鉄道の鉄道附属地、長春は旧満州の首都・・・。

これら東北の主要4都市は、どれも近代の歴史を経た個性と特徴があります。
実際に訪れると、色々と考えさせられることがあります。

「百聞は一見にしかず」という言葉をかみしめた1日でした。

長春の旧満州国時代の老建築とストーリーは、後日ご紹介します。
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ハルビン

2015-09-21 | 東北を歩く
ハルビンに行ってみました。

大連から高速鉄道で4時間です。

大連もハルビンも同じ中国の東北地方ですが、実は東京-札幌間と同じぐらいの距離があります。福岡-大連間も同じぐらいです。

やっぱり中国は広いですね。

初めて行ってみたハルビンは、思った以上にロシアの雰囲気を残した街でした。


(ハルビン駅です)

ほぼ丸1日をかけてハルビン市内を歩いてみましたが、ときどき、自分がどこかのテーマパークか映画のセットの中にいるかのような錯覚に襲われました。

それほどまでに他の中国の他都市とは違った独特の都市景観が広がります。
僕は常々、住み慣れた大連を「中国で一番コスモポリタンな街」だと思ってきましたが、ハルビンの印象はそれ以上でした。


(こんな建物がたくさん残っています)


(1920年前後の建築と思われます)

雰囲気のよい素敵な街でした。

ハルビンは、19世紀末以降、ロシア東清鉄道の鉄道附属地として街づくりが行われました。
もちろん、日本の企業や1932年以降の旧満州時代の名残りも多少はあるのですが、存在感は大きくありません。
日本の租借地だった大連や、満鉄の鉄道附属地だった瀋陽とは違うのですね。


(映画のセットの中にいるようです)


(ハルビン市街の南側を流れる松花江です。川に面するスターリン公園は市民憩いの場です)


(尚徳大街はメインストリートのひとつです)


(市の中心を少し離れても、ロシア建築がゴロゴロと)

好天にも恵まれ、いい旅になりました。

名所旧跡や老建築もたくさん見てきましたので、今後少しずつ、この日記でご紹介しようと思います。


(ケンタッキーフライドチキンまで改装されたロシア老建築に入っていました)
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瀋陽 旧奉天警察署

2015-08-02 | 東北を歩く
旧奉天警察署は、瀋陽の中山広場ロータリーの一角にあります。


(満鉄租借地だった1929年に建築されました)

関東庁土木課による設計とされています。いかにも当時の日本の役所っぽい造りですね。

今は瀋陽市公安局として利用されています。
昔も今も、同じ用途です。
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八角形のドーム内部 - 東京駅と瀋陽駅

2015-07-25 | 東北を歩く
以前、東京駅と瀋陽駅の駅舎が同じ辰野式で類似していて、建設時期もほぼ同じ、というお話をご紹介しました(2014年9月22日の日記)。

今年一時帰国したとき、東京駅に立ち寄り、改めてゆっくり眺めてみました。

駅の規模は東京駅の方が幾分大きいのですが、やはり造りは似ていました。
ドーム内の写真を比較してみましょう。


(こちらは東京駅。干支のレリーフで有名ですね)


(こちらは瀋陽駅)

瀋陽駅は、立派に化粧直しされた東京駅に比べるとかなり質素ですが、同じ八角形で柱の構造も同じです。
辰野金吾と太田毅という建築士の師弟関係を偲ばせます。
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瀋陽 旧藤田洋行本社

2015-04-30 | 東北を歩く
瀋陽市中山路にある旧藤田洋行本社です。


(竣工は1923年とされています)

玄関付近に設置されている記念碑には1906と書かれていますが、これは会社の設立年次を指しているようです。


(この表示は少し誤解があるかもしれませんね)

それほど凝った造りではありませんが、ドーム型の屋根が配されていて、少しバロックの雰囲気ですね。

藤田洋行はその名前からして貿易商社だったと思われます。
瀋陽のメインストリート沿いにこれだけ立派なビルを構えていたのですから、大企業であったことは想像に難くありませんが、今も日本のどこかで経営を続けているのでしょうか?
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瀋陽 旧満州赤十字社奉天支部

2015-04-20 | 東北を歩く
瀋陽の旧満州赤十字社支部は、瀋陽市中山路118号です。


(瀋陽市文物保護単位です)

1920年築のネオクラシック様式建築です。
均整の取れたデザインです。

今は瀋陽市公安局老幹部処として利用されています。
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旧横浜正金銀行奉天支店

2015-04-08 | 東北を歩く
旧横浜正金銀行奉天支店は、今は中国工商銀行瀋陽分行中山広場支行として利用されています。

瀋陽市の中山広場の一角です。


(玄関に小ぶりながらも立派なオーダーが配されています)


(近づいてみます)

1925年竣工とされています。
横浜正金銀行はかつての日本の特殊銀行で、貿易金融と外国為替を行っていました。
本店は現在、神奈川県立歴史博物館になっています。

設計を担当したのは、宗像主一という人物だったそうです。
この宗像さんという人を調べてみたところ、かの中村與資平の弟子に当たるそうで、大連の東洋拓殖株式会社や連鎖街商店街の設計にも関わった人物だそうです。
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九・一八歴史博物館

2015-01-15 | 東北を歩く
九・一八歴史博物館は、満州事変の発端となった柳条湖事件の現場付近に建てられています。


(このモニュメントの裏が博物館です)

瀋陽市内の北東部で、今も柳条湖と呼ばれる場所です。
今もすぐ隣を鉄道が走っています。

柳条湖事件が起きたのが1931年9月18日なので、このような施設名となっています。
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南関天主教堂

2015-01-11 | 東北を歩く
南関天主教堂は、瀋陽市にあるカトリックの教会です。


(高さ66メートルと、大型のゴシック建築です)

1912年に完成しました。

清の時代に宣教師によって建築が始まり、一旦は完成したのですが、1900年の義和団事件(西洋排斥運動)で破壊され、その後再建されたそうです。


(横から見るとこんな感じです)

教会に入ってみると、信者とおぼしき人たちが熱心に祈りを捧げていました。
中国でも結構キリスト教を信仰する人がいるのですね。

大連にもいくつか古い教会が残っていますが、こんなに大きな教会はありません。
今でこそ高層ビルに囲まれていていますが、建築当時はかなり目立っていたと思われます。

遼寧省文物保護単位に指定されています。
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旧奉天日本総領事館

2014-12-01 | 東北を歩く
旧奉天日本総領事館は、現在の瀋陽迎賓館の一部になっています。
瀋陽迎賓館には北苑と南苑があるのですが、北苑がそれです。


(1912年竣工、日本人建築家・三橋三郎の設計とされています)

1925年から28年にかけて在奉天総領事だった吉田茂は、ここで執務を行っていました。
戦後は、一時ソ連領事館として利用され、その後ホテルとなります。


(当時の写真です)

吉田茂総領事時代の奉天といえば激動の時期でした。
何人の職員がいたのかわかりませんが、仕事が相当忙しかったことは想像に難くありません。

瀋陽市重点文物保護単位です。
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張氏帥府

2014-11-09 | 東北を歩く
張氏帥府は中国東北部の英雄であった張作霖・張学良親子の官邸兼私邸跡です。

東北地方独特の様式なのでしょうか、伝統的な中国建築と西洋建築が入り混じった、独特の雰囲気を醸し出しています。


(執務室のあった大青楼です)


(内部も中国と西洋が折衷したアンティーク調です)


(2階テラスから庭園をのぞみます)

1914年から建設が始まりました。
その後増築を繰り返し、現在の状態になったのは1933年だそうです。

美しい庭園と風格ある建築に目を奪われますが、ここでは20世紀前半、日本人を含む様々な抗争や歴史のドラマが繰り広げられました。


(小青楼は1918年築。張作霖は爆殺事件の後、ここに運び込まれたとされています)


(四合院は純粋な中国風様式です)

全国重点文物保護単位です。
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瀋陽で見かけた満鉄のマンホールふた

2014-11-07 | 東北を歩く
先日、瀋陽でこんな満鉄のマンホールふたを見かけました。


(大型です。大きさが判りやすいように、隣に「地球の歩き方」を置いてみました)

Mの文字と線路の断面のデザインの組み合わせが満鉄の社標です。

大連では見かけないタイプです。初見です。
大連では、満鉄のマンホールふたは極めて限られた場所にしか残っていないのですが、瀋陽のような旧満鉄付属地にはこのようにまだ結構残っているのでしょうか?

ところで、僕は大連市内で満鉄のマンホールふたのスポットを6か所知っています。
(博物館の展示物は除きます。一定エリアに複数個ある場合は、1か所とカウントします)


(大連ではこのタイプしか見かけたことがありません)

これらは、大連生活の中で、自分の足で稼いだ「お宝」です。

大連を訪問したお客さんを案内するときにも、ときどき紹介しています。

しかし、です。
多くのお客さんは、こうしたマンホールのふたを見ても、

「へー」とか、「ふーん」とか、「ああ、そうですか」

という素っ気ない反応をとります。写真さえ撮ろうとしない人も珍しくありません。

「あれっ、もっと喜んでくれるはずでは・・・?」

という僕の勝手な期待感は空振りし、何とも形容しがたい全身脱力感に襲われます。

なにしろ、かの巨大国策会社だった満鉄が製作したマンホールふたが、時を経た今も現役で立派に活躍しているのです。
レプリカではなく本物なのです。

感激しないものでしょうか?

僕の説明力が足りないのも大きな原因なのだと思いますが・・・。

まあ、価値観の押しつけはいけませんね。

今後もマンホールふた探しは地道に続けていこうと思います。

新発見があれば、随時ご報告します。
コメント (6)
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瀋陽 旧奉天自動電話交換局

2014-10-06 | 東北を歩く
旧奉天自動電話交換局は、瀋陽市の中山路と太原北街の交差点付近にあります。

1928年の竣工で、設計者は関東庁内務局土木課です。


(アール・デコ調のユニークな外観なので、とても目立っています)

今は中国聯通(携帯電話会社)が入っています。

瀋陽市不可移動文物単位に指定されています。
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