我が家に希望がやってきた!

写真好き夫婦の子育て日記

勘当された妹

2023年07月14日 | 日記

妹は私と兄が東京に行ってしまったら、急に開放されたのか私生活が乱れたようである。

付き合っているグループがそれに追い打ちをかけた。

ちょっと信じられない素行で、両親は頭を痛めたはずだが歯止めは効かなくなった。

私にはなんの相談もなく、いや両親が詳細を知らせたくなかったのが真相のようだ。

ついに親から勘当され兄二人にもヘルプを出すでもなく家を出て、結婚相手の家に転がり込んで子供が生まれたのであった。

普通ならおめでたいことなのでお祝いしたいが相手がどのような人なのか聞かされていないので見守るしかない。

勘当した親には悪いが、お忍びで連絡を取って話をすればよかったと今になって思う。

形はどうあれ幸せに暮らしていけばいいのであって、何も引け目を感じる事はないと。

 

 

 

 


妹の存在

2023年07月11日 | 日常

3歳下に妹がいた。

末娘なので母親はかわいがっただろうが、べったりの母娘ではなかった。

兄弟の力関係で私と兄は対立関係なので妹を自軍に引き入れるのは重要なミッションだったかもしれない。

それはともかく私は妹を大事にした記憶がある。

兄と遊ぶより妹と遊ぶほうが多かった。

3人兄弟は小学校から中学高校と同じところに行ったので当時は何かと比較されて育った。

それがいい方向に動くこともあれば逆の場合もあって難しい。

中学生になると兄と私は別々のスポーツ部に入ってのめり込んだので、妹との距離ができてしまった。

高校時代は私はバスケ部を続けて、卒業する頃妹が入ってきて吹奏楽部でクラリネットを吹いていた。

勉強はそれほど好きではなかったようで、兄二人が大学にっても全く関心がなく、それで就職をするのかと思っていたら、高校卒業と同時に結婚して子供を授かったのだった。

両親はそれを知る由もなく、いわゆるできちゃった婚だ。(続く)


私の小学校時代

2023年07月09日 | 写真

三人兄弟の私は結構兄と比較された時代があった。

2学年上の兄は小学校時代からとても優秀?で、親から親戚筋からも期待の長男であった。

兄はそのプレッシャーに負けずに演じきったのか優等生の階段を登っていったのだ。

それに引き換え私は小学校時代は少し問題児で、落ち着きはないし、よくキレていて気にくわない事があると同級生をいじめていた。

今で言う発達障害ではなかったか。

「自分勝手」「わがまま」「困った子」

ということに当てはまっていたかもしれない。

親は、これは手に負えないと思ったのかある日突然私を警察署の剣道場につれていき、

「ここで剣道を習いなさい」

と突き放されたのだった。

この剣道場の師範はもちろん警察の人であったがとても優しい人で、イチから剣道を教えてくれた。

礼儀は重要で、挨拶を怠ると思い切り叱られた。

私は世間の礼儀を全く知らなかったので驚きの連続だった。

そして剣道は面白いと気づいた私はのめり込んでいき初段手前まで到達した。

スポーツの力は大きく、性格が温厚になり、親も安心しただろう。

ただ学業の方はお世辞にもよくなくて、5段階評価で5はひとつもなくオール3だったような・・・

しかし兄は相変わらず成績優秀、運動能力も素晴らしく、これはかなわないけれど自分なりに努力しなければ評価されないと思ったのが中学にはいってからである。

 

 

久しぶりの泡が美味しい。


兄弟を比べない

2023年07月08日 | 家族

二人の娘を育てる上でなるべく二人を比較しないでいこうと思ってはいるが、なかなかそうはいかないシーンが多い。

例えばここにミカンが3つあったとする。

二人同時に3個取ろうとする。

そこで二人の火花が散る。

3個を平等に分配する方法を知らないのでしかたがない。

そこで親である私は、

「Kちゃんはおねえちゃんなんだから、妹に多くあげたら」

と、つい言ってしまうのだった。

この「おねえちゃんなんだから・・・・」というのがあまりよろしくない。

おねえちゃんらしく・・・

おねえちゃんだからがまんして・・・

とか、そのような役割を押し付けるのは良くないはずだ。

その場をおさめるために言ってしまう自分を反省したくなることしばしばだ。

そこでミカンの話だが、1個を半分にして計6個ずつに分けて二人に渡すと、

1,2,3,と数えて、

「6個ずつ平等だ!」

と納得してくれる。

やれやれ~~

こんなことがたびたびなのだ。

 


父と母

2023年07月04日 | 日常

私は農家の生まれである。

父は農家の長男であり、日本橋蛎殻町生まれの母がどういう馴れ初めでF市のど田舎の農家に嫁いだのか今となってはわからない。

こういうことは両親が存命のうちに聞いておくべきだったが、そういうことは聞かないのが家の雰囲気だったのでしかたがない。いずれにせよ兄と私、そして妹を産んで育ててくれたので感謝の念しかない。

父には兄弟が3人いて、父は長兄、次男と三男は養子に出た。妹は隣村に嫁いでいった。

父と兄弟の関係はいいのか悪いのか今でもわからないままだ。

ただ今も存命の妹(叔母さん)は父を慕っていたようで、父がなくなってからもたびたび母の元を訪ねてくれて、母もいい話し相手ができてよい関係かできていた。

私が市内の幼稚園に入る頃に父は農業に見切りをつけ街で仕事を見つけた。

それが市内の映画館の映写技師だった、母も技術を覚え同じ職業についていた。

昭和30年代は映画全盛期で、娯楽の中心に映画鑑賞があった。まだテレビが普及し始めた頃なので両親はその時流に乗ったのだが、その栄華も長く続かなかった。

映画館が潰れて両親は新たな仕事を見つけて家族を養った。