新型コロナウイルス感染症がパンデミック(世界的流行)となった。世界中がパニックに陥っている。
3月17日に開催された自民党両院議員総会で、安倍晋三首相は「世界において恐怖が拡大している大きな原因は決定的なワクチンや治療薬がないこと」と語った。正鵠を射た発言だ。
新型コロナウイルス感染症の克服は治療薬とワクチンの開発にかかっていると言っていい。世界は激しい開発競争の真っ只中だ。
本稿では注目すべき2つの薬剤の開発動向を紹介したい。
まずは、抗HIV(ヒト免疫不全ウイルス)治療薬だ。HIV治療薬のような既存薬を新型コロナウイルスの治療に応用することを「ドラッグリポジショニング」という。他の疾患に対して臨床研究が終了し、既に承認されているため、安全性の評価が不要になる。パンデミック対策のように迅速な対応が求められるときに有用な医薬品開発の方法だ。
■抗HIV薬が新型コロナに効く可能性
日本政府もこの方法を用いて、新型コロナウイルス治療薬の開発に着手している。2月13日に首相官邸の健康・医療戦略室などが提示した臨時研究開発予算の第1弾には「既存の抗HIV薬の治療効果及び安全性検討」として3億5000万円が国立国際医療研究センターに措置されている。
さらに3月10日には第2弾として「既存の抗HIV薬の治療効果及び安全性検討」という名目で3億5000万円が追加措置された。合計7億円だ。政府の力の入れようがご理解いただけるだろう。
なぜ、抗HIV薬が注目されるかと言えば、新型コロナウイルスが有する3CLproと呼ばれるタンパク分解酵素(プロテアーゼ)を阻害することがドッキング・シミュレーションというコンピューター・シミュレーションで示されているからだ。
新型コロナウイルスの治療薬の開発は、この酵素を効率よく阻害する薬剤の開発にかかっている。
抗HIV薬ロピナビルは、新型コロナウイルスに対して中程度の活性を有することがわかっている。同じくリトナビルという抗HIV薬を併用することで、消化管からの吸収を促進することもわかっており、「カレトラ」という名前でアッヴィから販売されている。1錠の薬価は322円だ。
この薬の有効性については、最近、決着がついた。中国の医師たちが3月18日にアメリカの医学誌『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン(NEJM)』にカレトラと標準的な支持療法だけを比較したランダム化試験の結果を発表したのだ。
『NEJM』は世界でもっとも権威がある臨床医学誌で、その影響力は絶大だ。この研究では症状の改善までに要した時間も致死率も両群に有意な差はなかった。つまり、カレトラは新型コロナウイルスには効かないことが明らかとなった。
特記すべきは、この臨床研究が新型コロナウイルスの遺伝子配列が明らかとなってから1週間後の1月18日に最初の患者が登録されていることだ。資金は中国政府が助成した。圧倒的なスピード感だ。
しかも、この試験はランダム化比較試験の形で実施されている。カレトラの有用性を評価するために、対照群を置くことだ。患者はくじ引きなどによりランダムに割り振られる。ランダム化比較試験は、臨床研究の中でもっとも信頼度が高いとされている。
ただ、実施は難しい。2014年に西アフリカでエボラ出血熱が流行した際にはいかにして信頼できる臨床試験を実施するか、特にランダム化の是非が議論された。人権意識が希薄な中国では、このことは問題とならなかった。
■研究で示されたカレトラの有用性
カレトラの有用性については、中国の広州市第八人民病院の医師たちが実施した別の臨床研究でも再確認されている。この研究では軽度~中等度の新型コロナウイルス感染患者44人をカレトラ投与群と対照群に分けて、カレトラの有効性を評価したが、臨床的な転帰(病気が進行してほかの状態になること)は両群で差がなかった。
複数のランダム化比較試験で共通する結果が出た。カレトラは新型コロナウイルスの治療で効果は期待できそうにない。この事実は重要だ。新型コロナウイルスの治療薬を待望する患者に伝えると同時に、現在進行中の臨床試験は続行の是非を議論しなければならない。
もう1つの結果は期待の持てるものだった。
武漢大学中南病院で実施されたファビピラビルの臨床研究だ。3月18日に中国政府が発表した。ファビピラビルは「アビガン」の商品名で富士フイルム富山化学が開発した日本発の抗インフルエンザ治療薬だ。
(※本来複数の製薬企業から同一成分の薬が発売されている際の表記では、成分名のファビピラビルを使うのが一般的である。しかし、日本ではアビガンの商品名でその名前が取りざたされているので、以後は「ファビピラビル(アビガン)」と表記することをあらかじめお断りしておく)
中国政府が発表した研究では、ファビピラビル(アビガン)を新型コロナウイルスの感染患者に投与し、別の抗ウイルス薬アビドールを投与した群と比較した。これもランダム化比較試験だ。
この研究では、ファビピラビル(アビガン)群の71%の患者が回復し、対照群の56%より統計的に有意に優れていた。解熱時間は2.5日と4.2日、咳が治まるまでの時間は4.6日と6.0日で、いずれもファビピラビル(アビガン)投与群のほうが良好だった。
また、同日には、深圳第三人民病院で新型コロナウイルスによる肺炎患者を対象とした臨床試験の結果も報告された。ファビピラビル(アビガン)とαインターフェロンを併用したところ、αインターフェロン単独、αインターフェロンとカレトラの併用より有効であったという内容だった。
医薬品の開発では、規制当局は独立した2つの臨床試験で結果が再現されることを求めるのが通常だ。ファビピラビル(アビガン)の有効性は確立したと言っていい。
■「中国のデータは信頼できない」の誤解
中国の臨床試験の結果が発表されると、「中国のデータは信頼できない」と主張する人もいる。彼らはあまりにも世界の現実を知らない。
創薬の主薬はメガファーマだ。彼らは世界中で激しい競争を繰り返している。規制が緩く、人権意識が希薄な中国は治験の格好の場である。優秀な人材を、アメリカの製薬企業の中心地であるボストンの半分から3分の1程度の給料で雇用できることも大きい。
また、中国の医薬品市場は急成長している。2018年の医薬品の市場規模が1323億ドル(約14兆3000億円)で、アメリカの4849億(約52兆3500億円)ドルに次いで世界第2位だ。年間成長率は7.6%で世界1位だ。
世界中の製薬企業が中国での臨床開発に力を入れている。2018年に世界で始まった治験は全7607件だが、中国は1969件で、アメリカ(2945件)についで2位だ。前年比57%増の急成長ぶりだ。今回、中国でハイレベルの臨床試験が迅速に遂行されたのは、このような背景がある。
話をファビピラビル(アビガン)に戻そう。
この薬剤の問題は動物実験で「催奇形性」が認められたことだ。催奇形性とは妊娠中のある時期に使用すると胎児に奇形が生じるおそれがあるということだ。日本での適応は「他の抗インフルエンザ薬が無効又は効果不十分なもの」となり、日本市場では流通していない。政府が新型インフルエンザの流行に備え、200万人分を備蓄している。
今回の2つの臨床試験では、催奇形性の問題を除いては懸念された副作用はなく、厳しい条件付きにはなるかもしれないが今後、世界中でファビピラビル(アビガン)が処方される可能性が出てきている。
この結果が発表された3月18日には、東証1部における富士フイルムの株価は前日の4538円から5238円に上昇し、ストップ高となった。
ところが、翌日には4794円に戻った。これは2019年にファビピラビル(アビガン)の物質特許が失効し、中国国内でファビピラビル(アビガン)を販売する浙江海正薬業股分とのライセンス契約も終了しているからだ。ファビピラビル(アビガン)はすでに中国国内で承認されているが、富士フイルムには一時金やロイヤルティは入らない。
では、日本の状況はどうなっているだろう。ファビピラビル(アビガン)はすでに国内で承認されていることは前述した。厚生労働省が新型コロナウイルス感染に対して緊急で適応を拡大すれば処方は可能になる。
ところが、厚労省にはその気はなさそうだ。安倍首相は3月28日の記者会見で、薬事承認の取得を目的とした治験を開始した方針を明らかにした。安倍総理は「今後、希望する国々と協力しながら臨床研究を拡大するとともに、薬の増産をスタートする」と語った。
これは藤田医科大学が中心となって進めている臨床研究を念頭においたものだろう。同大学は軽症から中等症の患者を対象とした観察研究を3月2日から開始したところだ。8月に終了予定で、3億5000万円の予算がついている。
■厚労省は慎重、急がれる対応と決断
この研究はコントロール群を伴わない観察研究だ。完遂したとしても臨床研究としての意義は低い。日本はPCR検査を絞ってきたと指摘されている。3月29日現在、国内で確認されたのはクルーズ船などを除き1846人だ。これでは症例不足で数百人規模の臨床試験の遂行は難しい。3月29日現在の中国の感染者数は8万2356人となっている。
日本で中国レベルの臨床試験を遂行するのは、おそらく無理だろう。中国で複数の臨床試験を終え、結果が公開されている点をどのように考えるか。橋本岳・厚生労働副大臣は、中国での結果について「(日本での)研究の結果がどうなるのか、予断を与えることを言うことも、我々は控えるべきだ」(3月19日・衆院農林水産委員会での答弁)と慎重な姿勢だ。
とはいえ、日本はこの新型ウイルスに対抗できる可能性のあるアビガンを200万人分も備蓄している。有効性や安全性についての懸念は当然わかり、クリアする材料は欲しいだろうが、日本には可及的速やかな一連の対応と決断が迫られている。
上 昌広 :医療ガバナンス研究所理事長