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ヒロちゃんの独り言

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子どもにもっと植物に親しませるには

2025-08-15 06:11:25 | 日記

しばしば植物に親しむ方法は何かと問われたら名前を知ることだという答えが返ってくる。
それはわかる。
その名前の由来から納得のいくことが多い。
では、子どもたちにとってはどうだろうか。
たくさんの植物の名前を知っていたら驚かれるだろう。
「植物博士」と呼ばれるかもしれない。
だが、それだけで良いのか。
下手をすれば「頭でっかち」な「植物博士」に終わることもある。
それよりだったらむしろ植物を育てていった方がより愛情が育まれていくに違いない。
私は、普段から親子や子どもを対象にした自然観察会を行っている。
この場では、私が解説しうる範囲で名前を覚えてもらうことを大切にしているが、それ以上に大事にしていることがある。
それは、五感で親しむということだ。
「五感で親しむ」とは、「視覚」「聴覚」「触覚」「嗅覚」「味覚」で親しむことだ。
では、具体的にどんな方法か。
例えば「ママコノシリヌグイ」という植物がある。
「ママコノシリヌグイ」は、「継子尻拭」と書く。
これは、三角状の葉の裏に主葉脈に沿ってトゲがある。
「継子」をいじめるため、厠の落とし紙としてこの葉を置いたからだという。
なんともおぞましい話だが、実際この植物の葉裏に触れてみてトゲの痛さを実感してもらうのだ。
もっとも今の時代。「継子」という概念も説明する必要がありそうだが。
「ヘクソカズラ」という植物がある。
こちらは、「屁糞葛」と書く。
これもまた忘れそうもない名前だが、それ以上に印象に残るのは、そのにおいである。
葉や茎など傷つける事によって悪臭を放つ。
「サンカクイ」という植物がある。
こちらは「三角藺」と書く。
こちらは、茎を実際手で触れてみることによって、茎が三角形であることがわかる。
池や沼それに川岸などに見られる。
「クロモジ」という低木がある。
こちらは、枝を少しだけ折って香りをかいでもらう。
この香りを実際嗅いでもらうことによって、和菓子用のつまようじにしたりクロモジ茶につかわれた意味が実感できるだろう。
ちなみに私が住んでいる日本海側の多雪地帯には変種の「オオバクロモジ」である。
こちらもまた良い香りをするが、いつもやっていることは、葉全体を唇に当てて草笛に挑戦してもらうことだ。
けっこう大きな音を出せるので、いつも子どもたちには人気だ。
嗅覚だけでなく聴覚でも植物に親しめる一つの方法だろう。
草笛に関していえば、笹笛やタンポポ笛も楽しめる。
他に楽しくできる植物実験がある。
エゴノキの実を使った実験だ。
エゴノキの若い実数個に少しだけ傷を付け、水を入れたペットボトルをシェイクしてもらう。
たちまちシャボン玉の如く泡立つことに驚かれるだろう。
エゴノキの実には、実際、石鹸成分でもあるサポニンが含まれているから昔は、洗濯にもつかわれていたという。
他にも植物を使った実験といえば、カタバミの葉を使って10円玉をピカピカにするというものがある。
これは、カタバミの葉にシュウ酸が含まれていることによってできる実験だ。
さらに春先の実験になると思うが、アオダモの枝先を水に浸してブラックライトを当てるというものがある。
背景を黒くしたりしながら観察すると枝先からまるで小さな煙のように青い液体が流れているように見えるから楽しい。
このように植物の名前だけ伝えても伝わりにくいことでも実験や遊びを通して親しむことができる。

そもそも子どもは自然に対して親和性があると考える。
それは、歩く際にも目線が地上に近いし、地上を這う小さな虫でも小さな自然物でも発見できるからということがある。
それも偏見のないまっすぐな眼で見ることができるからだ。
また、母胎という自然から生まれて間もないからこともある。

かのレイチェル・カーソンは「センス・オブ・ワンダー」で次のように述べている。

「知ることは感じることの半分も重要ではない」

そのためには、レイチェル・カーソンの言葉を借りるまでもなく一緒に共感できる大人が一人近くにいたら良い。

きっとそばにいたはずの大人も子どもの発見やつぶやきに驚くに違いない。
その積み上げは、きっと子どもの植物好きもっと広く言えば自然好きにつながるに違いない。


国の史跡で植物解説をする~払田の柵跡の歩き方より~

2025-07-31 04:49:31 | 日記

今年の「払田の柵跡の歩き方」のイベントが終了した。
参加者数はキャンセルもあって13名と必ずしも多くはなかったが、おそらく参加された方々は満足して帰られたのではないかと勝手に考えている。
それだけ他にはできそうもない企画だからだ。
そもそもフィールドは、秋田県で最初に認定された国の史跡である。
およそ1200年も前の史跡、しかもまだ解明されていないところがあり、現在も発掘され続けているというものだ。
ロマンの多いフィールドだ。
このフィールドで、実際現場で今も発掘作業に当たられている専門の方々が解説してくれるのだから歴史好きにはたまらない企画だ。
そのような楽しい企画に私も解説者の一人として参加させてもらっている。
年に1度の企画で、コロナ禍で1回は中止となったが、すでに6年目を迎えた。
当初は、払田の柵跡のことを知らない上、私の自然に対する知識が足りないことから、下見をしても解説できるだろうかという不安だらけであった。
ただ、フィールドには、エゴノキがあり、企画実施の頃には、実がなり、シャボン玉のような泡を創り出すことはできそうだということがわかった。
また、カタバミの葉があり、その葉で汚れた10円玉を磨くとピカピカになることも知っていた。
少なくともこの2つの実験を行うことにより、参加する子どもたちは喜んでくれるだろうと考えた。
ただ、毎年この2つの実験を重ねただけで、あとはフィールドにある植物名を知らせるだけでは限界がありそうだ。
そこで考えた。
思いついたことは、タイトルが「払田の柵跡の歩き方」に変わった3年前のことだ。
払田の柵跡はおよそ1200年前の政庁跡だ。
しかもそれは、広い平地にぽつんと残る標高数十メートルの長森という場所にある。
おそらく1200年前も政庁を囲む長森には、多くの樹木があったに違いない。
となれば、その当時から日本国内そしてこの地にもあって今も見られる樹木について話すことができるのではないかと考えた。
ただ、1200年も前にあっただろう植物はどうやってわかるのか?
ふと思いついたのは、万葉集だ。
1300年ほど前の奈良時代から作られている歌集だ
万葉集は現存する我が国最古の歌集で全20巻から成り約4500首の歌が詠まれている。
その内3分の1の1500首が何らかの植物を詠み、花名が判明しているものは166種ほど。人気植物は重複して詠まれている。
例えば、木の花で取り上げられていて、多いのは次の順だ。
 1位.ハギ141首、2位.ウメ118首、3位.マツ79首、4位.タチバナ68首、5位.サクラ50首。
また、草の花は次の通りだ。
 1位.ナデシコ26首、2位.オミナエシ14首、3位.ユリ10首、4位.カキツバタ7首、

どうやら、払田の柵跡には、これらのほとんどの植物がありそうだ。
これなら、払田の柵があった当時から存在していた樹木や草花など自然解説につなげるのではないかと考えた。
万葉集を通して払田の柵当時の植物を解説するなどとはなんてロマンのある話ではないかと自分に酔ってみたりもした。
では、実際どのようにうたわれていたのか?
例えば、クズを取り上げた歌がある。

水茎(みずくき)の、岡の葛葉(くずは)を、吹きかへし、面(おも)知る子らが、見えぬころかも

これは、岡の葛の葉を吹き返したように、はっきりと顔を知っている娘が、この頃は姿を見せてくれないという意味の歌である。
「水茎(みずくき)の」は「岡」を導く枕詞だという。
確かに、葛の葉の裏は、表よりは比較的白く見える。
これは、葛の葉を風が吹いて裏返す様子を詠み込んでいる。
愛しい娘の顔とクズの裏の葉を結び付けているという発想もさることながら、当時の人々の観察眼には驚いてしまう。

他にこんな歌がある。

我が背子が 捧(ささ)げて持てる ほほがしは あたかも似るか 青き蓋(きぬがさ)

意味は、あなたさまが持っていらっしゃるほほがしは、まるで青い蓋(きぬがさ)のようですねということだ。
天平勝宝5年(西暦751年)4月12日に詠まれた歌という。
この歌で「我が背子(せこ)」と詠んでいるのは大伴家持(おおとものやかもち)のことだという。
「蓋(きぬがさ)」は織物の傘で、高貴な人に使われたようだ。
ホオの葉をこのように傘代わりにつかわれていたとは驚きだが、それだけ生活に密着したものだったのだろう。

もう一首紹介したい。

高円(たかまと)の 野辺(のへ)の容花(かほばな) 面影(おもかげ)に 見えつつ妹(いも)は 忘れかねつも

これは、大伴家持がうたったもので、容花(かほばな) とはヒルガオのことである。
意味は、高円(たかまと)の野辺の容花(かほばな)のような、あなたの面影が忘れられないという恋の歌である。
これもまたヒルガオの姿を見ては、恋する人の顔を浮かべるというものだ。

三首だけ紹介したが、いかに万葉時代の人々は自然と近い距離にあったか自然と共にあったのかがよくわかる。

かくして、今年の「払田の柵跡の歩き方」が終了した。
手前みその話かもしれないが、本当に誇れる歴史と自然のコラボした企画が今年もできたと思う。
主催者である秋田県埋蔵文化財センターによると来年も継続してくれる予定だという。
来年もまた、今度はさらに企画の魅力を増すことができるように精進していきたい。    


今の時代、子どもが川遊びするという体験は・・・・

2025-07-18 05:46:25 | 日記

川で泳ぐことを学校で禁止されるようになってから久しい(一部地域をのぞく)。
確かに、今の子どもたちにとっては危険が多すぎる。
川の改修工事に加え、川の流れに対応できない、川底のガラスや鋭利なものに対応できない、深みがどこにあるのか見通すことができないなど。
まして、普段はプールで泳いでいる子どもたちだ(最近はプールで泳ぐことも制限されているとか)。
ただ、このままでは、川で遊ぶという体験をせずに大人になってしまう、これはかえって危険なことではないのか。
そこで、今年5年目となる「釣りキチ三平の里自然体験塾」では、4年前から川に入るという体験をさせてもらうことにした。
ただ、川はどの場所が良いのか?
流れの速さ、深さ、川幅など検討した。
その結果、体験学習館近くなら適当なフィールドではないかと試行してみることにした。
試行には、まず大の大人が入ってみることだ。
4年前、試しに大人数名が入った。
驚いたことに思ったより水深が小さいし、流れがゆるやかだ。
それに冷たく透明度が高い。
これなら川に慣れていない子どもたちも入れそうだ。
体験学習館には、救命胴衣もある。
子どもたちにしっかり装着してもらうことで安心感が増す。
試行段階で気づいたことは、上流域らしく水生昆虫の種類が多いことだ。
水質が良好な川に住むヘビトンボ、フタスジモンカゲロウ、ニンギョウトビケラなど見つけることができた。
また、カジカやヤマメなどの魚類も泳いでいた。
フィールドのさらなる上流域に棲むサワガニやキタオウシュウサンショウウオも確認できた。
さらに、石場には、カジカガエルがあの独特な鳴き声を出しながら止まっていた。
これなら、親子で十分楽しめるのではないかと考えた。
そして、この4年間毎年7月のプログラムに乗せてきた。
一昨年の大雨の際には、あまりの水量の多さに実施することはできなかったが、この4年間で3回実施てきている。
そして、驚くほどに毎回申込者が多いのだ。
毎年、50名近い申し込みがあるのだが、今年は70名近い申し込みがあった。
結局、当日のキャンセルもあり、61名となったが、それでもこの数には驚きだ。
まして、秋田市や由利本荘市からも参加者があった。
それだけ、川の体験活動に期待されているのだろうと思えば、もっと指導者の立場としては勉強せねばと思う。
フィールドとなる狙半内(さるはんない)川は、両岸はコンクリートで覆われている。
だが、中は自然の姿のままである。
当然ながら、水が流れていない場所には、雑草が生い茂る。
水辺に接しているだけに背丈も高い。
これもまた体験学習館の方が事前に草刈りをしてくれた。
61名も川に入れば、子どもたちは様々な生き物を見つける。
先述した生き物の他、貝類やトンボのヤゴも見つけた。
それをパットやバケツに入れてもらう。
初めて見る川の生き物たちに皆驚いていた。
ざっと20種は超えていただろう。
これだけの生態系が川には成立しているのだ。
終わりごろ、どこらともなくカジカガエルの棲んだ鳴き声が聞こえてきた。
「清流の歌姫」という愛称があるのだそうだが、鳴くのはすべて雄である。
今年もまた今やスタッフ同様あるいはスタッフ以上に解説できる今年、高校1年生になった鈴木蒼志くんも参加してくれた。
彼もまた小さな子たちに採集した生き物たちを見せるし、川から皆あがろうとしたときにヘビを捕まえた。
アオダイショウである。
気性は比較的おとなしいし、無毒とはいえ、簡単に素手でも捕まえられる鈴木君にはただ驚くばかりである。
早速、小学生だけでなく未就学の小さな子たちが彼のまわりに集まってきた。
彼は、そのアオダイショウの首根っこを押さえながら子どもたちには身体に触らせてあげていた。
生まれて初めて触るヘビにどんな感想を持っただろうか。
川に入るという体験もそうだが、今やヘビに触れるという体験を子ども時代にしていなければただ単に異質な生き物として避けようとするか毛嫌いするだけではないだろうか。
これもまた、子ども時代には体験してみたい事柄である。

こうして、4年目(3回目)の川遊び体験が終了した。
里山同様、住宅地のすぐ近くを流れている身近な存在であるはずの川が視界に入りにくくなっている。
ひところの川にゴミを投げるとか生活排水を垂れ流しになるということは、以前より少なくなったと思うが、まだ身近な存在であるはずの川は身近になっていない。
そのためにも子ども時代から川の中で遊ぶという体験は大切なのではないか。
ホタル観察会の時も参加してくれた秋田市の親子は3人とも初めての体験のようであった。
3人の満足した笑顔で帰っていったのが印象的だった。
親子で川に入って感動を共有する。
もう、これだけ立派な子育てだ。
事後のアンケート結果を読んだ。
一人の子どもは
「私は初めて川に入って一番おたまじゃくしをつかまえるのが楽しかったです。川には、多くの生き物がいると知りました。」
と書いていた。
また、親御さんの一人は
「子どもが楽しんでいたし、こういうイベントがないと親だけで川に連れていくのはむずかしいので貴重な体験になりました。」
とつくづく実施して良かったと感じられる感想が多かった。
帰り際、何人もの親子から「今日もありがとうございました。また、来ます」と声をかけられた。
それだけでこの日の疲れもふっとんだ。


23年目のホタル観察会

2025-07-11 05:42:35 | 日記

先日、23年目となるホタル観察会(横手市増田地区交流センター主催)が行われた。
今年も増田町内をはじめ、秋田市や羽後町などから40名余りのたくさんの親子が参加してくれた。
毎回思うのだが、生まれて初めてホタルを見るという方は、今や子どもだけでなく親御さんもそうである。
それだけ、自然に接する機会がないというか私が子ども時代に経験した夜ともなれば自宅にホタルが飛び込んでくるとか夜ホタル狩りに行くといった機会がないのだろう。
だからこそこのようなホタル観察会という機会を作るというのは今の時代、本当に貴重なことなのかもしれない。
その思いは、年々強くなっていく。
今年の観察会当日は、早朝から激しい雨であった。
天気予報によると午後からは雨が収まる予定であるということは知っていた。
だから、湿度が高い状態なのでホタルの頭数も増えてくれるのではないかと期待した。
昨年ほどの参加者数ではないが、今年もまた1台のマイクロバスに収まり切れず、2台のバスを準備してもらった。
開会セレモニーでは、いつものようにホタルの生態について話をした。
この地域で見られるゲンジボタルとヘイケボタルの違い、オスとメスの違いなどである。
強調したかったことは、彼らの食料であるカワニナの棲める水環境のことまたメスが産む卵の数が500~1000個であることさらには成虫の寿命が1週間程度であることである。
以前なら6月のおわりから7月にかけてはゲンジボタルが見られ、7月の終わりごろから8月のお盆過ぎまではゲンジボタルが見られた。
ヘイケボタルに関しては自宅前の田んぼの水路でも見ることができ、その自然度の高さに喜んだ。
また、かつては、フィールドは違うが、その場所でまるで川から沸いてくるようなホタルの数に驚いたものである。
残念ながら観察会本番では、それだけの数を見ることができなかったが、田んぼの水路から現れるゲンジボタルの光に驚きの声を挙げていた。
数が思ったより少なかっただけにかえって細々と光るその姿に感激もひとしおであったというべきだろうか。
卵の数の多さには驚きだが、成虫になるには少ないのは、それはこれだけの数を産んでも大半は流されるか天敵に食べられるからだろう。
カワニナは、今年も観察地の所有主の方からバケツに提供してもらった。
初めて見るカワニナの姿にこんな貝から少なくともホタルの幼虫の体より一回り大きな姿にどのようにして栄養をとるのかそれもまた驚いていたようだ。
ちなみに、幼虫はカワニナをどのようにして食するのか?
実際は、食べるというよりも、消化液を出して口外で肉片を溶かしてすするという方法のようである。
また、開会セレモニーでも現場でも話したのだが、ゲンジボタルの幼虫はカワニナを食料資源とし、ヘイケボタルのそれはタニシやツブなどを食料資源としていることから、すみわけができていることまたカワニナに関していえば、それだけ水質が良好でなければ生きていけない。
観察会では、虫かごにホタルを入れて持ち帰ることは遠慮してもらっている。
それは、成虫時代の彼らが何も食べずに少なくとも水を取るだけで、1週間足らずしか生きていけないそれも結婚相手を探すためと話をすれば納得してもらえる。
しかしながら、目の前にホタルが現れ、手のひらに乗せてみたり軽く手のひらで包む体験はしてもらう。
先日も子どもの何人かはそれを体験していた。
その時は、まるで手の中がミニ灯篭のように輝く。
その光景は体験したものでわからない喜びである。
ほどなく手のひらを離れるホタルに向かって子どもたちは口々に
「元気でいろよ~」
「またな~」
と声をかける。
自然に小さな生き物に対する接し方を身に付けているようだ。
こんな体験もできるからホタル観察会は楽しい。
確かに23年前からするとホタルの数は少なくなった。
それは寂しいことだ。
ただ、まだ田んぼに浮かぶホタルたちの小さな光があることのようにまだまだ地球上には小さな生き物たちが存在することに神秘を感じざるを得ない。
それを今後、将来生きていく子どもたちに伝えていくことも今生きている大人たちの役目であるだろう。
23年間は長いようであっという間だった。
私自身の目標をいえば、子ども時代に参加された方が親となって自身の子どもを連れてくることである。
先日、それを聞いてみたが今回もその願いはかなわなかった。
そのためには、もう少し続けていく必要があるようだ。
願わくば次は25年目そして30年目の実施回数を目指していくことだろうか。
ただ、私自身も年を重ねていく。
先日は体調万全ではなかった。
他にもやらねばならないことはある。
それでもこの願いを達成するためにはもうひとふんばりしたいと強く思う。
それまでは、ホタル観察会は終了というわけにはいかぬ。
新たな感動を求めて次年度へホタル観察会は続く・・・・


「花びらの白色は恋人の色」-野草はいかにして昆虫たちを引き寄せる?

2025-06-29 05:54:14 | 日記

かつて「白い色は恋人の色」という歌があった。
1969年にリリースされたというから、年配の方しかわからないかもしれない。
「花びらの白色は恋人の色」で始まるこの歌。
以前、早春は。黄色の花が多いとこちらのブログで書いたが、梅雨の今はどうだろうか?
近くの里山を見るとノリウツギ、ミズキ、ツルアジサイ、イワガラミといった白色の花が目立つようだ。
さらには、多くの緑色の葉に混じって白色のマタタビの葉も目立つ。
早春の花に集まる虫たちは、アブやハエなど小さな虫たちであった。
では、白い花たちに集まる恋人たち(虫)たちは?
オオハナウドのような大型の花にでもちょこんと飛んでくる虫たちを見るとチョウたちの吸蜜もそうだが、花に乗っても花がつぶれないカミキリムシなどの甲虫が多いのではないだろうか?
もともとは花の色で一番多いのは、白色だし、これからの季節は気温が高くなるにつれて様々な昆虫たちが現れる。
また、マタタビの葉の白色に関しても本当はマタタビにしてみれば花にダイレクトに来てほしいのだろうが、花は下向きで小さくしかも多くの葉に囲まれているので目立ちにくい。
そのため、あえて葉を白くさせることで、この場合はハチの仲間であるようだが、受粉の時期に白色の葉で呼び寄せているようだ。
ちなみに、この白色は葉の表面側に空気が入った状態で水の中でこの白のふくらみを指でつぶすとわずかながら空気の泡が出てくる。
決して葉緑素がなくなったわけではない。
あえて葉に空気を含むことで、乱反射により白く虫たちに目立たせるのだ。

今の時期、ツユクサも見られるようになってきた。、
あでやかな青色は、小さな花だが遠くからでも良く目立つ。
ところでおしべは鮮やかな黄色だ。
これは誰を呼び寄せたいのか?
黄色といえば早春の花ーそう、アブたちであった。
ただ、ツユクサのまわりは夏の花だらけ。
これでは、アブたちにも気づかれないのではないか。
ところが、ツユクサもなかなかのものだ。
あの鮮やかな青色の花びらと黄色のおしべは、補色関係だったのだ。
それでアブたちを呼び寄せる。
ところがツユクサの深謀遠慮はこれで終わらない。
実は、この黄色のおしべがダミーというから驚きだ。
つまりたっぷりの花粉があるように見えるダミーには花粉がない。
そして、アブたちが本当の花粉を探している間にダミーおしべの手前にあるおしべに花粉が付けられていく。
これで、一件落着と行きたいところだが、話はまだ終わらない。
本当のおしべにありつけたというところだが、このおしべも花粉が少ない。
ツユクサの花には、さらに花粉をたっぷりつけたおしべがある。
これこそ目立たないが花粉をたっぷり含んだおしべである。
なぜ、ツユクサはこれほどまで手の込んだアブたちを呼び寄せるのか?
私にはわからないが、いずれこの時期少なくなったアブたちに花粉を運んでもらいたいという一心なのかもしれない(擬人化させてはいけないでしょうがあえて)。
ちなみに、このツユクサ、一日花、厳密には朝早く開花し、昼過ぎには閉じてしまうようなので受粉も急いで行わなければいけない。
それがゆえに、受粉されなかった場合の保険代わりに花を閉じることによって自殖をしているというからこれもまた驚きだ。
自分の花粉を自分のめしべにつけることつまり自殖は、遺伝的に弱い子孫ができてしまう(自殖弱勢)。
それでもツユクサはこの方法を取り入れている。
それだけ、子孫を残すことが難しくもありこれまで生き続けてきた理由にもなるだろう。

ツルアジサイと同じ仲間(アジサイ科)にエゾアジサイといものがある。
ヤマアジサイの変種とされ、主に日本海側の多雪地帯に生息する。
これからの時期、私たち雪国の里山ではおなじみの花だ。
何しろ、見た目が青く良く目立つ。
しかし、近づいてよく見ると青く目立つのは花の周辺部いわゆる飾り花(装飾花)の花弁がそうであって、中心部の両性花は必ずしも目立たない。
これもまた飾り花の鮮やかな青色によって虫たちを呼び寄せているようだ。
あくまでも花粉を作るのは、この青色の飾り花ではなく中心にある両性花なのだ。
おまけにこのアジサイの仲間のすごいところは、受粉が終われば飾り花は裏返ってしまう。
まるで店じまいをしているかのようだ。

ツバキの花の色は赤色だ。
私の住む地域では、里山にユキツバキという多雪地帯に特化した背丈が低くしなり強い種が多く生息している。
もちろん、この花の色も赤色で春先に目立つ。
マンサク(マルバマンサク)ほど早くはないが、近年は雪が消えて間もない4月には開花が見られる。
では、この赤色は誰を引き寄せるため?
虫たちといきたいところだが、早春はアブやハエなどの小さな虫たちである。
どう考えても彼らが訪れるには花が大きすぎるし、花粉を運んでくれそうもない。
そんな時、頼りになるのは野鳥たちだ。
早春でも留鳥であるヒヨドリやメジロたちの出番である。
彼らは、花に嘴を突っ込んで蜜を吸う。
嘴が花粉まみれになってもかまわない。
まさに花の赤色は彼らを呼び寄せるための色なのだ。
そういえば秋の木の実も赤色が多い。
これもまた野鳥たちに食べてもらい、種子を糞と共に遠くに運んでもらうための色なのだろう。

まさに野草たちは、様々な色で花粉を運んでくれる生き物たちを様々な色仕掛けで呼び寄せる。
ただし、色仕掛けは色仕掛けでも野草の色仕掛けは、子孫を残していくために野草の必死な生きざまなのだ。