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ヒロちゃんの独り言

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冬の自然観察の楽しみといえば

2025-01-17 16:44:02 | 日記

秋田県内で暮らす山大好き自然大好きな方と話をしていてしばしば話題になることがある。
冬になるので、山はお休み!
冬は何もないし、花も咲かないし・・・・
もったいない話だと思うようになった。
まして、私の住む地域の里山は、12月から3月までおよそ1年の3分の1は雪に覆われる。
これでは、1年の3分の1は全く山に行かないことになる(雪が多い地域では、1年の半分かもしれない)。
確かに、普通に考えたらたとえ近くの里山でも冬は行こうとは思わないかもしれない。
かくいう私も以前はそうだった。
冬は、室内で水泳やジョギングなどでトレーニング、野外ではせいぜいスキーだった。
それがどうだろう。
100パーセント安全だという保証はないが、安全や装備に気を付ける、無理な所にはいかないという点を守るなら、冬は冬での楽しみがあることを知るようになった。

では楽しみとは何か?
あえて3つを挙げる。
①冬ならではの景観
②冬芽観察
③アニマルトラッキング
である。
冬ならではの景観の楽しみには理由がある。
それは、広葉樹の葉がすっかり落ち、その間から見える風景である。
例えば、葉が生い茂る季節は、遠くの景色にしろ近くの植物にしろ見えにくい。
それが葉を落とせば別の景色が広がる。
驚くほどの変化である。
冬芽については、樹木が大好きな知り合いとこんな話をしたことがある。
「冬になれば葉を落とすし、花も咲かない。何もないな。」
私はすぐに反応した。
「冬芽の観察がありますよ。」
知り合いは一瞬驚いた表情を見せた。
確かに冬芽は難しいし、花と比べたら地味な姿だ。
それでもわかってくれば多様な世界に見える。
例えば、コブシやタムシバなどのモクレン科。
花芽は大きく毛に覆われている。
触ってみるとふさふさで触り心地がよい。
まるでコートのようだ。
実際、春が近づくにつれてまるでコートを脱ぐように毛が見えなくなり中からは葉や花が現れる。
さらに、葉痕といって葉が枯れ落ちた後の姿がおもしろい。
種の違いによっては、まるで動物か人の顔に見えてくるから不思議だ。
葉痕をモチーフとした絵本も出ているので小さな子どもがいる場合は、併せて観察するときっと興味を持つに違いない。
例えば、オニグルミの葉痕は、猿か羊の顔のように見えてくるのでおもしろい。
また、エゴノキやハクウンボクのように冬芽が主芽だけでなく予備芽を持っているものがある。
これは、主芽に何かあった場合、例えば動物などに食べられた場合に予備芽が生きる。
まるで、保険でもかけているかのごとく用意周到なので感心してしまう。
さらに、しばしば子どもたちにも触れてもらうトチノキの冬芽。
べたつくというほどのねばねば感がある。
詳しいことは、わかっていないようだが、昆虫たちの食害から守るためのねばねばの樹脂であるとか寒さから守るためだと考えられている。
葉をたっぷり付けているときにはわかりにくいのだが、冬場は1年間で枝がどれだけ伸びたかがわかる時期でもある。
すなわち、枝の年度の境目となる芽鱗が落ちた痕、芽鱗痕を境目にして枝先側がこの1年間で伸びた枝、また、幹側が前の1年間で伸びた部分と判断できる。

哺乳類や野鳥などのフィールドでのサインを探し、動物の行動を探ろうとするアニマルトラッキングができるのも冬の自然観察の楽しみだ。
雪上では、足跡や糞が残る。
また、足跡の動きからどちらの方向に向かったのか急いでいたのかなどの行動も読み取れる。
最近は、イノシシが秋田にも入り、雪上を歩く姿も見られるようになった。
イノシシかどうかの足跡は、蹄という点では同じだが、副蹄というものが発達しておりそれは雪上の足跡にも残る。
枝や幹を見れば、食痕やこすり痕がわかる。
ノウサギは、鋭利な刃物で切ったような食痕を残すし、ニホンリスは松ぼっくりをまるでエビフライのような形で残す。
ニホンジカやニホンカモシカは、上あごに前歯がない。
そのため、草や小枝を食いちぎった跡は、植物の一部に繊維が残る。
ウサギ類と比べて雑な食べ方という印象を受ける。
こすり痕は、ニホンジカやニホンカモシカの角研ぎ跡はわかりやすい。
ニホンカモシカは角が高い位置にないので、比較的低い位置に見られる。
糞に至っては、枝先などでかたまりを寄せていくとどんな食べ物を食べていたかが予想できる。
これは、まさに便学ならぬ勉学だ。

最後は、おまけの話だ。
やはり低山とはいえ、冬山を歩けばたっぷり汗をかく。
その後の温泉は格別だ。
できればアルコールもといきたいところだが、こちらは自宅に帰ってからにしよう。


初夢から今年の活動スタイルを考えた

2025-01-06 17:06:52 | 日記

初夢は、元日また2日に見る夢と言われている。
私は、眠りが浅くしばしば夢を見る。
時に苦しい夢だったり叶わないようなうれしい夢であったりと夢でもしばしばスリルを味わっている。
そして、今年見た初夢はまさに私にとって教訓めいた夢であった。
詳しくは述べることはできないが、私がある中学校教師として勤務する学校の教室で起こったことの夢である。
教室内で生徒に渡す資料だが、通常、教師側からつまり前から一方的に渡す。
それから、教師側から資料について説明する。
ところが、今回の夢は、縦一列に並んでいた生徒たちから横に渡していくというものであった。
要するに、こちらが教卓から一方的に伝えようとしたのではなく縦一列の生徒が横に順に伝えていくというものであった。
渡しながら生徒が横の生徒に説明していくスタイルである。
要するに生徒に任せたのだ。
しかもこれを考え出したのは私ではなく生徒の方だ。
なるほど自分一人でやろうとするのではなく他の方に任せろということか!と妙に自分の夢にしろ納得がいった。
同時に夢の続きには、こんなことがあった。
生徒から信頼されているある先輩の教師がいた。
どうしてこれほどまで信頼されているの?
と思うほどだ。
生徒たちは心も寄せていた。
その方の動きを見てわかった。
あるテスト時間の教室での場面だった。
教室内を回りながら難儀している生徒を自身のシートにチェックしている。
するとその生徒に近づき無言でペンを使って指示している。
解答を教えているわけではないのだが、明らかに考え違いの個所を指摘しているようだ。
確かに現実にはテスト中はこんなやり方は通用しない。
ただ、大切なことは、生徒自身が気づけるようにしていたということだ。
だから杓子定規に不正なことは不正と考えてはならない。
教師は、どの生徒がどの場面で難儀してたのかよく見ていたということでもある。
つまり生徒の中に入り一人一人の生徒の実態に即し、ペンで無言のまま指摘し、生徒自身が気づけるようにしていたということだ。
主体はあくまで生徒自身だということである。
これもまた、単純な私は考えてしまった。
教室内を見渡すとかただ形式的に周回していてはだめだ。
生徒の中に入り柔軟な対応をすること、それが生徒の気づきにつなげることができるということだ。
なるほど短気な私にとっては、どちらの場面もうなずけることであった。

現職時代に全校児童のみならず地域を巻き込むほどの大きなプロジェクトを立ちあげたことがあった。
立場上は、総責任者であったが、一歩間違えば、教育課程上でも問題、1年かけて準備した企画に人も集まらないこともお金も無駄づかいというほどの失敗につながるものだった。
そんな不安をかき消してくれたのが、一人のキーマンの存在であり、キーマンやまわりにいた職員が盛り上げてくれていたことだ。
決して、私一人の力ではなかった。
もし、私一人で音頭を取ろうとしても失敗したに違いない。
そこには優れたキーマンやそれを支えてくれた職員がいたから大成功に導けたのだ。

さらに、翌日も夢の続きがあった。
今度は小学校の教室だ。
そこには、低学年児童が待っていた。
たかが6,7歳の低学年児童と馬鹿にしてはいけない。
対等に私に意見表明をしてきた。
例えば、メダカや金魚のいる水槽は、適切な衛生管理がなされているか、水温は生き物が生きていく上で適切かどうかなどである。
私に訴えてくるだけに私も底の深い水槽に身体を入れてみなければならなかった。
そうしてこそ低学年児童と対等に渡り合えるのだとばかりに。
どんな立場の方であれ、真剣にそれこそリスペクトしながら向き合わなければいけない。
二夜に渡って様々な教訓を突き付けられた夢であった。
教職を退いて8年目になる今年、それが二夜に渡って学校現場での夢をみるとは!
ある意味、笑えてしまうのだが、教訓めいたものを感じた。
まるで、今の私の心境に突き刺さるほどの納得ができる夢であったからだ。
おまけもあった。
さらに、翌日の夢は、職員会議の席。
ある職員がちょっとした問題それも大勢に影響のない失敗を起こしたのだが、本人は知らんぷり。
私もあえて知らないふりをした。
ただ、こちらの提案説明をしているとき、大きな声で明らかに邪魔をしている職員がいた。
こちらの方には、注意した。
全く三夜にわたる学校現場での夢は疲れるものだ。
改めて自分の活動を続けていく際に気を付けなければならないことを振り返った。
「(人に対して)怒るな」→怒りのエネルギーを自分の活動のエネルギーに変換せよ
「くよくよするな」→くよくよする時間があったら本を読め、勉強しろ
「妬むな」→妬む時間があったら自分自身の内面を磨け
である。

今年、私はあるプロジェクトを考えていて、実行委員会も立ち上げようとしている。
これもまたここでは詳しく述べないが、実行委員会を立ち上げられるか、そしてどれだけ動かせるかが大きな成功の鍵を握っている。
同時にキーマンが生まれるかどうかも大切だ。
過去の教訓からもそのことは重々承知しているつもりだ。
第2の人生に転じてから8年目を迎える。
自分が率先して引っ張るのではなく自分が黒子に徹して組織が動いていかなければ成功できないのではないかという思いにかられる。
どちらかというとこれまでは自分が常に先頭に立ち、リードする立場だったからなおさら強く感じる。
今年はこれまでの私とは違う大きな転機の年になりそうだ。
それができなければ「夢」は「夢」でも「夢物語」に終わるだろう。
ただし、これもまた自分自身の人生だ。
うまくいかない時には、あきらめるしかない。
さあ、いつまでも夢の続きは見ておられない。
今日から新年の活動のスタートだ。