真人山から北方向の倉刈沢を通り、男亀森方面へ向かったところに「義経三貫桜」という一本の桜の木がある。
今からおよそ1000年も前のこと、兄の頼朝に終われ、義経一行が立ち寄ったという伝説の桜である。
当時は、まだソメイヨシノという桜の品種は生まれておらず、いわゆる山桜の一種だが、オオヤマザクラである。
あくまでも伝説の桜なのだが、江戸時代後期の旅行家であり、本草学者であった菅江真澄が実際、この地を訪れた際、氏の著作「雪の出羽路」で次のように記している。
以下、概略である。
義経一行が兄の頼朝に追われ、平泉へ逃げていく途中、この場所に立ち寄った。
そこには見事な山桜が咲いていたので、弁慶が大きめの枝をもぎ取ってきた。
そこに、よぼよぼの老人が現れ、
「この桜は私が自分の身と同じように大事にしているもの。なんと心のない人がいるのだろう。」
と杖を振りながら悲しんだ。
義経は、何回も謝った末、三貫文を差し出し、許してもらった。
この後、老人が去った崖に登ってみると、三貫文は桜の枝に、折った木も桜の木の股にかかっていた。
驚いて、義経に話したところ、それは神霊だったろうということになり、一行は身の毛の立つ思いをしながら平泉へ向かった。
それから、この桜が三貫桜とも銭掛桜ととも言われるようになったということである。
※詳しくは、桜の木のわきの標柱に記されている。
いかにも伝説らしいが、ありそうな話でもある。
神霊はともかく義経が逃げていくコースは、この周辺だったろうし、このコースに続く東成瀬から平泉方面に向かう「仙北道」は、坂上田村麻呂以来の都から通じる古道だからだ。
こんなことを想像するのも歴史のロマンが感じられ、楽しい。
なお、現在あるこの桜は、1988年(昭和63年)に、旧増田町が植栽したものである。
ところが、これほどロマンある話を秘めながら、「義経三貫桜」は、あまり知られていない。
そのうえ、それがどこにあるのかさえ、わからないのではないだろうか。
そこで、なんとか地元住民を含め、「義経三貫桜」をめぐるツアーを行いたいと考えた。
できれば、桜が満開の頃が良いのではと思い、昨年4月の終わりに計画を立てた。
主催者は、秋田市のプラザクリプトンと秋田県森林インストラクター会である。
参加は、広く県民に募集してもらったし、案内は県内の森林インストラクターに呼び掛けた。。
残念なことに、昨年は、すでに花が散っており、再度今年挑戦することに。
当日は、満開の桜を参加者、森林インストラクターとサポーター含め、50人近い方と共に愛でることができた。
ただ、問題点があった。
この場所に行くには、リンゴ畑の私有地を通るか笹薮やつる植物が絡む道を通らなければならないことだ。
今年の春は、3回ほど一人で鎌を持ち、笹薮を払ってみた。
私のやることだ、大した刈払いにはならなかったが、それでもこの道を通って案内することができた。
一方、今年、秋田県より「守りたい秋田の里地里山50」に男亀森含む真人山地域が認定され、里山の整備や地域住民との交流など活性化事業に助成金もいただけることになった。
早速、仲間にも相談し、まずは里山整備からということで目を付けたのはこちらの「義経三貫桜」への道である。
作業当日は、貴重な休日であるにも関わらず、事業主体者である増田ネイチャークラブの仲間4人が集まった。
手に刈り払い機や鎌を持ちながら、作業を進めた。
道は、笹薮やクズなどのつる植物それに低木がふさいでいる。
それを人一人は楽に通れるように道を作っていくのだ。
幸い、この日は予想を覆し、途中お日様も見られる良好な天気となった。
緩い斜面を上りながらの作業のため、汗も落ちる。
それでも作業を続けること3時間弱。
やはり4人の力は大きい。
ゴールとなるオオヤマザクラの前では、標柱がある菅江真澄の記載に見入った。
それから記念となる写真を撮った。
作業が終わり町内の食堂で4人遅い昼食を取る。
稲庭うどんとその後に食したソフトクリームは格別な味となった。
お互い、来年の桜の時期を想像しながらのひと時であった。

