🍙🍙おむすび🍙🍙
チェルノブイリ🇷🇺と、イラク🌍の子供たちに、薬代💊を稼ぐため、
僕はレコード会社🏢を立ち上げ、5つのCD💿を作りました。
その中の1つが、『おむすび🍙』です。
スキルス胃がん💢で、余命3ヶ月と宣告された42歳のお母さん🌸とのご縁でできたものです。😊🎵
ある日彼女🌸が、
「先生、私の命💓はあと3ヶ月って言われたけど、もう少し生きしたい。
春🌸まで生きたい✊」
と言ったんです。
余命宣告⚡️されたのは9月でしたから、
「3ヶ月」だと春🌸まで生きられない計算です。
でも彼女🌸は
「春🌸まで生きて、高校🏫3年の娘👧の卒業式🎌に出たい」
と願って🙏いました。
僕たちは全力✊で看護🌸しました。
そして、彼女🌸は娘さんの卒業式🎌に出ることができたのです。😊☀️
彼女🌸はとても喜んで💕いました。
僕たちは彼女から人間🍀の命💓の不思議さ☁️を教えられました。
実は、彼女🌸にはもう1人、年子の娘がいて、
「その子の卒業式🎌まで生きたい」
と言っていたのです。😊🎵
それから彼女🌸は、1年以上生き続けました。
「子供のために生きたい✊」
という思いが、何かを変えた🔄のだと思います。😊
僕たちの体の中には「ナチュラルキラー細胞」というがん💢と戦ってくれる細胞🍀がいます。
この細胞🍀は、希望🎵を持ったり
笑ったり😊することで活性化✨するんです。
娘さんの卒業式🎌の後、僕は彼女の病室に行くと
「上の子の時は大丈夫🍀だったんですけど、
今回は、体力がなくて式には出られませんでした😊」
と話してくれました。🎵
その2週間後、彼女🌸は亡くなり😇ました。
私はその時のことを本📖に書きました。
「4月16日、家族全員🌸が声🎵をかけても彼女🌸に伝わらなくなりだしていた。
春🎵爛漫の夕暮れ🌅時だった。
最後の一呼吸☁️をして彼女は息を止めた。
おだやかな最期🌸だった。
余命3ヶ月と言われた命💓が、
1年8ヶ月生きた🍀」
「おばあちゃん👵が泣きながら😭話しかける。
『お嫁入りの時も、こんなふうに美しかったよ。💕
よくやったよ。🎵
ご苦労様🌸』
よくがんばったと思う。😊
よくあきらめなかったと思う。🎵
あきらめない、生きたいという思いが、
想像を超えた結果🌸を作り出したように思う。… 」
その後、娘さん🌸から、こんな話を聞きました。
お母さん🌸は病院🏥から家に帰ってくると、必ずお弁当🍱を作ってくれたそうです。
卒業式🎌の少し前、私は
「家の空気☁️だけ吸ってすぐ戻って↩️おいで」と言って、
彼女🌸を一時退院🏥💨させたことがありました。
その時も、彼女🌸はお弁当🍱を作りました。
台所に立てる体力✊なんか残っていなかったはずなのに。
彼女🌸が作った最後のお弁当🍱は、
おむすび🍙、でした。
「嬉しく💕て嬉しく💕て、そのお弁当🍙を持って学校🏫に行きました。
昼休み🆓に、お弁当🍙広げたら、
もう、切なくて😭、切なくて😭、
なかなか、おむすび🍙が食べられなかった」
と娘さん🌸は言っていました。😭
42歳、ほんとに短い⚡️命💓でした。
でも彼女は「あと3ヶ月の命」と宣告⚡️されてから、
1年8ヶ月もの間、決して諦めず✊、丁寧🌸に生きた🍀のです。
そして、きちんと命💓の大切さ✨を娘さん🌸たちにバトンタッチ👏して亡くなり😇ました。
生きる🍀ことは有限⚡️です。
私たちは限り⚡️ある生命💓を生きています。
大切🍀なことは、その命💓を次の世代にバトンタッチ👏していくことなのだと思います。😊🎵
(「みやざき中央新聞」H29.9.18 諏訪中央病院 鎌田實さんより)
チェルノブイリ🇷🇺と、イラク🌍の子供たちに、薬代💊を稼ぐため、
僕はレコード会社🏢を立ち上げ、5つのCD💿を作りました。
その中の1つが、『おむすび🍙』です。
スキルス胃がん💢で、余命3ヶ月と宣告された42歳のお母さん🌸とのご縁でできたものです。😊🎵
ある日彼女🌸が、
「先生、私の命💓はあと3ヶ月って言われたけど、もう少し生きしたい。
春🌸まで生きたい✊」
と言ったんです。
余命宣告⚡️されたのは9月でしたから、
「3ヶ月」だと春🌸まで生きられない計算です。
でも彼女🌸は
「春🌸まで生きて、高校🏫3年の娘👧の卒業式🎌に出たい」
と願って🙏いました。
僕たちは全力✊で看護🌸しました。
そして、彼女🌸は娘さんの卒業式🎌に出ることができたのです。😊☀️
彼女🌸はとても喜んで💕いました。
僕たちは彼女から人間🍀の命💓の不思議さ☁️を教えられました。
実は、彼女🌸にはもう1人、年子の娘がいて、
「その子の卒業式🎌まで生きたい」
と言っていたのです。😊🎵
それから彼女🌸は、1年以上生き続けました。
「子供のために生きたい✊」
という思いが、何かを変えた🔄のだと思います。😊
僕たちの体の中には「ナチュラルキラー細胞」というがん💢と戦ってくれる細胞🍀がいます。
この細胞🍀は、希望🎵を持ったり
笑ったり😊することで活性化✨するんです。
娘さんの卒業式🎌の後、僕は彼女の病室に行くと
「上の子の時は大丈夫🍀だったんですけど、
今回は、体力がなくて式には出られませんでした😊」
と話してくれました。🎵
その2週間後、彼女🌸は亡くなり😇ました。
私はその時のことを本📖に書きました。
「4月16日、家族全員🌸が声🎵をかけても彼女🌸に伝わらなくなりだしていた。
春🎵爛漫の夕暮れ🌅時だった。
最後の一呼吸☁️をして彼女は息を止めた。
おだやかな最期🌸だった。
余命3ヶ月と言われた命💓が、
1年8ヶ月生きた🍀」
「おばあちゃん👵が泣きながら😭話しかける。
『お嫁入りの時も、こんなふうに美しかったよ。💕
よくやったよ。🎵
ご苦労様🌸』
よくがんばったと思う。😊
よくあきらめなかったと思う。🎵
あきらめない、生きたいという思いが、
想像を超えた結果🌸を作り出したように思う。… 」
その後、娘さん🌸から、こんな話を聞きました。
お母さん🌸は病院🏥から家に帰ってくると、必ずお弁当🍱を作ってくれたそうです。
卒業式🎌の少し前、私は
「家の空気☁️だけ吸ってすぐ戻って↩️おいで」と言って、
彼女🌸を一時退院🏥💨させたことがありました。
その時も、彼女🌸はお弁当🍱を作りました。
台所に立てる体力✊なんか残っていなかったはずなのに。
彼女🌸が作った最後のお弁当🍱は、
おむすび🍙、でした。
「嬉しく💕て嬉しく💕て、そのお弁当🍙を持って学校🏫に行きました。
昼休み🆓に、お弁当🍙広げたら、
もう、切なくて😭、切なくて😭、
なかなか、おむすび🍙が食べられなかった」
と娘さん🌸は言っていました。😭
42歳、ほんとに短い⚡️命💓でした。
でも彼女は「あと3ヶ月の命」と宣告⚡️されてから、
1年8ヶ月もの間、決して諦めず✊、丁寧🌸に生きた🍀のです。
そして、きちんと命💓の大切さ✨を娘さん🌸たちにバトンタッチ👏して亡くなり😇ました。
生きる🍀ことは有限⚡️です。
私たちは限り⚡️ある生命💓を生きています。
大切🍀なことは、その命💓を次の世代にバトンタッチ👏していくことなのだと思います。😊🎵
(「みやざき中央新聞」H29.9.18 諏訪中央病院 鎌田實さんより)