hideyukiさんの、令和もみんなガンバってますね!笑み字も!Webにも愛と光を!

日々の楽しい話、成長の糧などを綴ります。
楽しさ、感動、知恵が学べる。
(^_^)私はとっても普通の人です。

千年語られる言葉

2020-01-31 22:17:00 | お話

🌸🌸千年語られる言葉🌸🌸


歌詠み🎵として、世界各地に言葉🍀探しの旅✈️に出かけるようになり30年近くが経ちます。

現在は国学院大学🏫で短歌の授業🌸を持っていますが、

そこで私が学生🍀に伝えているのは

「言葉🍀は一人の人間🌸より遥かに長生きである」

という言わずもがなの事実🌟です。

近年頻繁に「人生🍀100年時代」が話題に上がります。

しかし、言葉🍀の世界は100年、200年単位🌸ではなく、

1000年☀️生きて初めて "一人前の言葉🍀" として認められるようになる。

世界を回る中でそう実感💓しています。

インターネット🌐が発達した昨今、言葉🍀が生まれては消えてゆくスピード⚡️が一段と速くなりました。

その代表例が毎年年末に公表🌸される「流行語大賞👑」でしょう。

もちろん、それを否定🚫するつもりはありませんが、
1000年、2000年と生き続けている言葉🍀には、

脈々と受け継がれる人類🌸の叡智☀️やダイナミズム⚡️があることをお伝えしたいのです。

ユネスコは自然や歴史的建造物に対して、 "世界遺産認定🌟" を行っていますが、

長年語り継がれている言葉🍀についても、 "言葉の世界遺産" というニュージャンルがあっても良いのではないか。😆

それほど1000年語り継がれている言葉🍀には国境や時代を超えて共通🌟する価値👑があると思うのです。

日本最古の歌集🌸と言われる『万葉集』が編纂された八世紀以降、

日本🇯🇵には文字✏️を書き残す文化🌸が根づいています。

私が教えることができただけでも、『万葉集』には40種類の「緑色🍀」に関する表現🌸がありました。

例えば、葉っぱ🍃の表と裏の色の違いを見分けて
「裏葉色」という渋くくすんだ色を生み出しました。

その一点🌟だけを見ても、昔の日本人が持っていた言葉🍀や自然🌲に対する情緒🌸を感じずにはいられません。

一方世界を旅していると、今なお口伝(くでん)で1000年近くも前の言葉🍀が語り継がれている地域が数多く残っています。

一世代一世代、親👨🏻‍🦱👩🏻‍🦱から子👦🏻🧒🏻へと思いを込めて語り継がれてきた言葉🍀に出逢う度に、深い感動💓を覚えます。


私が "言葉🍀" の魅力🌸に引き込まれたのは高校生🏫の頃でした。

当時一大ブームを起こした『サラダ日記』を読み、
国語の教科書📖で習う短歌🌸とは異なる俵万智さんの感性🌸に影響☁️を受けたのです。

そこから短歌の世界を探求し、大学1年で第36回角川短歌賞👑を受賞。

まだ若かった私は、
「短歌1400年の歴史の中で、まだ誰もやったことのないことをやりたい✊」

と情熱🔥を燃やして日本🇯🇵を飛び出し、

世界の「歌枕(うたまくら)」を巡りながら言葉🍀を探す旅🌸に出たのでした。

歌枕とは「富士を見るなら田子の浦」に代表🌸されるように、

多くの人が和歌🎵に詠み込んだ名所を指した言葉🍀です。

松尾芭蕉は『奥の細道』を編纂するにあたり、

歌枕を求めて日本各地を歩き回り🔄ました。

それから三百数十年の時を経て、

今度は私が世界版『奥の細道』をつくるべく、

世界各国の名所🌸に赴いて短歌🎵を詠もうと思い立ったのでした。

ところが、世界に飛び出してまず出遭ったのは、

美しい言葉🍀ではなく各地で起きている悲惨😵な現実🌸でした。

かつて肥沃な大地と呼ばれていた地域は川が干上り、周辺住民は貧困にあえいでいる。😵

政治的紛争💢が絶えず起こり、多くの一般人が命を落とす。

こうした事実🌟を目の当たりにしたのです。

そこから地球環境🍀と貧困問題🌸に強い関心💓を抱くようになり、

途上国がさらされている危機⚠️を短歌の三十一文字でありのままに伝えるようになりました。😊🌟

その活動が国際機関🏛の関係者の目👀に留まり、

世界各地から8名のみが選出🌸された国連WAFUNIF親善大使のアジア代表🍀に就任したり、

ワールドユースピースサミットの平和大使を仰せつかるなど、

任務を通じて各国を訪れる機会🌸に恵まれました。

それからの活動🍀を通じて、世界には1000年以上も前から語り継がれている言葉🍀が今なお残っている事実🌟に出会い、

その言葉🍀が持つエネルギー⚡️に感動💓しました。

そこで、その国のトップリーダー🌟や学校🏫の校長先生、

そして村の子供たちまで、出逢った人々に、

その土地で長年語り継がれている言葉🍀を聞いて👂回るようになったのでした。


まずご紹介🌸したいのが、ドイツ🇩🇪に伝わる言葉🍀です。


「一つの平和☀️は、十の勝利✊にも優る」(ドイツ)

ヨーロッパの中心💓に位置するドイツ🇩🇪は、帝政🏛だった時代もあれば、南北に分かれて争って💢いた時もあり、

その肥沃な土壌🍀は常に戦禍に見舞われました。

そんな土地で、1000年以上も前から十回戦いに勝つ✊よりも一度平和☀️になる方が尊い👑、

と語り継がれていることに衝撃😵を受けました。

この言葉🍀は現代に暮らす我々こそが尊び、世界で大事に共有しなければならないと思っています。😊🎵

同じヨーロッパ🌍のスペイン🇪🇸にはこんな言葉🍀があります。

「多く持っていない人が貧しいのではなく、

多く欲しがる人が貧しい」(スペイン)

大航海時代🚢に突入した16世紀以降、スペイン🇪🇸は着実に領土を拡大し、

一時は南アメリカ大陸🌎の大半を支配🌸していました。

多くの富💰や土地🍀を所有していた歴史を持つスペインに、

それとは正反対の意味を持つ言葉🍀が古くから存在🌸し使用されていたことに驚き😵ました。

これも忘れてはならない言葉🍀の一つです。☀️


アジア🌏に視点を移してみます。

「知り合いがいるのは、そこに草原🍀があるのと同じだ」(モンゴル国)

モンゴルの遊牧民🌸はゲルと呼ばれる円形の移動式住居に住み、

広大な砂漠に点在🌟する草原🍀を移動しながら暮らしています。

草原とはそこに生態系がある証で、人々の暮らしを象徴した言葉🍀です。

モンゴルで一人知り合いがいることは、生命💓の源である草原があるのと同じ。

それほど仲間🍀は貴重👑な存在✨であると表現🌸しているのです。

友人のありがたさを草原に譬えたのは、広漠な土地を持つモンゴル人ならではの発想で、

こうした地域ごとの言葉🍀に出会えるたびに感動💓を覚えます。

感動といえば、

エジプトのナイル川💧を下っていた時に見上げた夜空🌌の星🌟の美しさも忘れられません。

日本の川とは異なり、広大で深くゆったりした流れに身を任せながら、

大自然🍀の恵みを存分🌸に味わいました。

ナイル川はアフリカ大陸🌍最長の川として全世界に知られていますが、

果たして源流がどこにあるか知っている人は、どの程度🌸いるでしょうか?

ナイル川はそんなことを一切気に留めず、
自身がもたらしている富💰を誇らず、何千年もの歴史の中で悠然と流れ続けています。🍀

そんなナイル川💧にまつわる言葉🍀があります。

「成し遂げた善🌸は隠せ。源を隠すナイル川のように」(エジプト)

ナイル川💧が自らの美徳を誇らないように、
我々も善行を誇るべきではないと諌めた至言です。

この言葉🍀は1000年、2000年といったスパンではなく、

古代エジプトが栄えた5000年☀️以上も前から、この地で先祖🌸代々語り継がれてきました。☁️


日本🇯🇵で1000年生きる言葉🍀も紹介したいと思います。

「天から役目なしに降ろされたものは、世界に一つもない」(北海道、アイヌ)

「十の指が、同じ長さではないのと同じように、
人にはそれぞれ持って生まれた個性🌸や特徴がある」(沖縄)

北と南で遠く離れてはいるものの、共に人間🍀一人ひとりが尊い存在✨であることを語っています。

1000年語り継がれる言葉🍀の根底には、民族性🌸や地域性🍀を越えて、

人類🌸に共通した「根」があるように思います。

他にも興味深いのは同じ言葉🍀に関する表現🌸です。

塩や水💧など人間🍀に欠かすことのできないものにまつわる名言🌸は時代や国境を越えて多数見つかっています。

ここではサラリー(給料)の語源にもらった塩についての言葉🍀を集めてみました。

「塩を入れるなら溶けるまで、仕事🍀をするなら終わりまで」(モンゴル国)

「自身🌸の善良さを守れ、塩が辛さを守るように」(タイ王国)

「どんな味つけも塩にまさるものはなく、
天下広しといえども母親🌸にまさるものはない」(中国)

「どんなに小さな鍋にも塩は入ることができる」(セネガル)

「人の料理に塩を入れるな(人のことにあれこれ口出しをするな)」(マケドニア)

塩というのは、いつの時代🌸でもどんなふうに調理されても、

常に自らの辛さをしっかり守り続けています。✊

ここで注目🌟すべきは、それぞれ土地や民族性に根ざした表現🌸という特徴があるものの、

等しく物事の本質☀️を突いているという点です。

誕生してから100年、200年程度しか経っていない言葉🍀の場合、

目先のことに注目した鋭敏な表現🌸が目立ちますが、

1000年という長い年月を経ると、
皆自然と同化し、角がとれて丸みを帯びた曲線的な表現🌸になってなっています。

それは角が立つ人間🍀が、社会の荒波🌊にもまれる中で、

いつしか性格が丸くなっていく様と似ているでしょう。

冒頭でもお話ししたように、言葉🍀の世界では1000年生きて初めて一人前🌸と言える所以(ゆえん)がここにあります。

たくさんの栄養🌸を与えられて咲いた高級な花々ではなく、

風雨に屈せず野に咲く一輪の花🌸のように、

自らを主張🌸することなく、しかし長年謙虚に人々の役に立っている。✊

そういう言葉🍀が千年☀️生き続けると感じています。

この長寿の言葉🍀が教えてくれる真理🌟に、我われは学ばなければなりません。✊


平成25年に「和食」がユネスコ無形文化遺産に登録🌸されました。

これについて「和歌🎵」も文化遺産に登録しようとする流れ☁️があります。

和歌🎵というと、教科書で習う国文学という堅いイメージをお持ちの方々も多いようですが、

実際には歴史上の錚々(そうそう)たる人物らがライフワーク🍀として和歌🎵を嗜み、読んできました。

例えば、和歌🎵を熱心に勉強した歴史上の人物の一人として毛利元就が挙げられます。

彼は大和言葉🍀を使用した五七調のものをしっかり勉強しなければならないと語っています。

戦国武将や幕末の志士たちの中には、人生🍀の最期に三十一字を遺して亡くなった😇人が大勢🌸いました。

伊達政宗の「辞世の歌」で有名なのが

「曇りなき心の月を先だてて 浮世の闇を照らしてぞゆく」

です。

もし空に月🌛が見えなくとも、心💓の中に月を掲げてこの世を照らして🌟ゆこうと詠んだ歌ですが、

戦国時代という世の動乱期🌀を懸命に生きてきた伊達政宗🍀の気概が溢れています。

もう一首、紹介したいのが西郷隆盛🌸の歌🎵です。

「上衣(うらぎぬ)は さもあらばあれ 敷島の やまと錦は心💓にぞ着る」。

錦は上衣として着るものではなく、
心💓の中にこそ着るものだ、と語った西郷隆盛🌸。

その大和魂💓に学ぶものは多くあります。😊🍀

歴史的事実🌟だけを追っていては見ることのできない一面が、和歌🎵を読み解くことで見えてきます。


和歌🎵や世界各地の言葉🍀を勉強するにつれ、
長寿の言葉🍀には、 "漢方薬" のような効果🌸があると感じる💓ようになりました。

朝鮮人参など滋養に満ちた植物🍀は深く根を張り、栄養🌸を含んでいます。

同様に、長年人々の間で口ずさまれ、受け継がれてきた言葉🍀には
人々の生活🌸の中に深く根を張り、滋養に満ち溢れています。

近代の世界紛争💢の約9割は土地🍀や宗教⛪️🕋がらみだと言われています。

先述のように数百年単位の言葉🍀に注目すると、

宗派⛪️や民族性🌸を重視した表現🌸が目立ちますが、

1000年、2000年スパンになると、

お釈迦様もイエス・キリスト様も、言葉🍀や表現🌸こそ違えど、

同じ真理🌟を説いているのが分かります。

発酵食品🌸が月日を経て風味☁️を増すように、

言葉🍀も1000年の時を経る中で、

人類の叡智🌸が凝縮⚡️されています。

言葉🍀の流行り廃りのタームが速くなっている現代🌸だからこそ、

古くから語り継がれた言葉🍀に学び、

その叡智☀️を日々の暮らしに取り入れていきたいと思っています。😊🎵


(「致知」2月号 田中章義さんより)

告白

2020-01-31 13:32:00 | お話

🌸🌸告白🌸🌸


翌日の6月10日には、以前から母と会う約束をしていた。

さおりちゃんの宿題が僕の脳裏に引っかかっていた。

本当は父と話なんてしたくなかった。

父に本当のことなんて言いたくなかった。

でも、入院したらそのまま退院できないかもしれない。

入院したらどうなるかわからない。

ゆっくり話なんてする機会は、もうないかもしれない。

言うしかない。

やるしかない。

やるなら明日しかない。

父にも来てもらおう。

僕は覚悟を決めた。

中野から帰った晩、僕は実家に電話を入れた。

「明日、お父さんにも来てほしいんだけど」

「ちょっと待ってね」

パタパタと足音が遠ざかり、しばらくすると足音が戻ってきた。

「うん、お父さんも行くって言ってる」

「ありがとう」

僕は長男も同行させることにした。

おそらく父親としての時間は少ないだろう。

ならば僕がボロボロになる姿を、僕の情けない姿を、ありのままの姿を見せることが、今の僕にできる最後のことだった。

6月10日、僕は長男と2人で、待ち合わせた喫茶店に向かった。

しばらくすると両親がやってきた。

「大丈夫?」母は心配のあまり白髪が多くなっていた。

「痩せたな」父も心配そうに僕を見ていた。

「今日は来てくれてありがと。今日はね、入院前にぜひ話しておきたいことがあるんだ。父さんに」

父は緊張気味にうなずいた。

「実はね、この前カウンセリングを受けて、自分の感情を外に出すことが必要だってアドバイスされたんだ。

僕の話を聞いていろいろ反応したり、それは違う、とか言いたくなることもあると思うけど、

最後まで黙って聞いてほしいんだ」

「わかった」

「実はね、僕は、父さんからずーっと認められてないって感じていたんだ。褒められてもらった記憶がない」

「……」

「いつもああしなさいとか、こうしなさいとか、ここがダメだ、これが足りない、

まだまだ、まだまだって言われ続けて、すごく苦しかったんだよ」

「そうなのか」

「でもね、父さんはそれがあなたにとっていいと思って…」

横にいた母さんが父を気遣うように言った。

「うん、それはわかっている。でも今日は僕の気持ちを外に出すことが大事なんだ。

だから最後まで黙って聞いてほしいんだ」

僕は話を続けた。

「僕は、いろいろ強制されて、本当にイヤだったんだ。

あれしろ、これしろ、あれするな、これするなって」

子どもの頃の記憶が鮮明に蘇ってきた。

「小学生のとき、父さんに通知表を見せるとは本当にイヤだった。

なんだこれは、ちゃんと勉強してんのかって言われることがわかってた。

こんな成績じゃぁちゃんとした職業につけないって言われたし、

これがダメ、あれがダメって…。

ま、確かに体育以外は3ばっかだったから仕方なかったかもしれないけど、

でも死刑台に向かう囚人の気分だった」

父は、無言で話を聞いている。横にいる母が、心配そうにうなずく。

「今でも覚えているけど、小学1年生の夏休み、宿題ができていないからって、『マジンガーZ』の最終回を見せてもらえなかった。

宿題を終わらせてからにしなさい、って。

説明したのに聞き入れてもらえなかった。

たった30分だよ、30分。

宿題、必死で頑張ったけど間に合わなかった。

ほんとに毎週楽しみにしていたのに、結局、最終回が見られなかった。

本当に悲しかった。

あの時は再放送なんてなかったから、見ることができなかった。

あれから40年以上経ってるけど、結局見てない。

これは一生忘れられない。絶対に忘れない」

「それは、すまなかった」

父は小さくつぶやいた。

「他にも小学6年生のとき、持っていたマンガを手塚治虫以外全部捨てられたこと。

小遣いを貯めて買い集めたマンガも全部捨てられた。

ある日家に帰ったらマンガがなくて、本棚がスッカラカンになっていた。

あの空っぽの本棚は一生忘れられない。

他にもテレビを押し入れに隠されたこと。

あの日学校から帰ってみたら、テレビ台しかなかった。

テレビが消えていた。ショックだった。

何が起こったんだと思った。おかげで見ていた番組の続きが全部見れなかった。

学校の成績でも、習った剣道でも、褒めてもらった記憶が1つも、一回もない」

僕の心の奥底に住んでいる小さな子どもが声をあげていた。


お父さんはどうして僕を愛してくれないの?

僕はそんなにダメな子なの?

テストの点が悪いから?

落ち着きがないから?

学校で叱られてばかりだから?

忘れ物が多いかな?


父はうつむきながら言った。

「そんなに褒めて欲しかったのか。でも、私も父親から褒めてもらった記憶はないけどな…」

父は言った。確かに祖父も厳しい人だった。

「まぁ、時代的なものもあるかもしれないけど、これは僕の気持ちの話。

まぁ、僕もカウンセリング受けて初めて気づいたんだけどね。僕はね… 」


熱いものが胸の奥からせり上がってきて、

言葉に詰まった。

「『大好きだよ』って言って欲しかったんだ」

口にしたとたん、涙があふれた。

父が驚いて顔を上げ、僕を見た。

「ひと言でいいから、お前は俺の自慢の息子だ、って言ってほしかったんだ。

それだけ、それだけだったんだよ」

もう声にならなかった。

頭をよしよしってほめてほしかったんだよ。

ぎゅっと抱きしめて欲しかったんだよ。

褒めてほしかったんだよ。

認めてほしかったんだよ。

なんでかって?

…そう、僕は、…。

父が…、お父さんが、大好きだったんだよ!

父を大好きだった無邪気なときの気持ちがよみがえってきた。

そう、小さな僕は、お父さんが大好きだったんだよ!

だから、だから、父さんに褒めてもらえなくて、認めてもらえなくて、悲しかったんだよ!


深い心の中に隠されていた気持ちが、渦を巻いて吹き出していた。

僕はぐちゃぐちゃになった。

嗚咽で肺が苦しくなった。

涙で父の顔が見えなくなった。

涙が喉に入り、むせて咳が止まらなくなった。

横から長男がティッシュを渡してくれた。

「ただ、ただ、愛してるよ、そのままでいいよって、ひと言でいいから、言って欲しかっただけなんだよ」

言葉に詰まりながら、やっとのことで僕は言った。

父は僕の目を見て言った。

「健のことはもちろん、愛してるに決まってるじゃないか。そんなこと聞かれるまでもない。今回だって…」

そこで父は、言葉を詰まらせた。

「私が身代わりになりたいって、何度思ったことか… 」

父の目が赤く染まった。

初めて見た父の涙だった。

母も横で泣いていた。

そっか、僕は、愛されていたんだ…。

暖かいものが胸に流れ込んできた。

父は目を赤く染めながら言った。

「認めていたんだよ。仕事だってなんだって、ほんとに認めていたんだ。

たいしたもんだ、っていつもお母さんと話してたんだよ」

「そうなんだ…、今日は話を聞いてくれてありがとう、本当にありがとう」

最後に僕は言った。

「僕は父さんを許します。僕が前に進むために」


父だって反論したこともあっただろう。

それは勘違いだよ、と言いたいこともあっただろう。

しかし、父は何も言わなかった。

最後までひと言も反論しなかった。

僕は全て受け止めてくれた。

帰っていく2人とも背中を見ながら感じた。

出ていた…。何かとてつもなく重く、苦しく、痛いものが体から出ていった。

そしてその空っぽになった空間に、暖かいものが流れ込んできた。

胸が、身体が、信じられないくらい軽かった。


(「僕は、死なない」(ソフトバンククリエイティブ)刀根健さんより)

白いマフラー

2020-01-30 17:49:00 | お話

🏳️🏳️白いマフラー🏳️🏳️

 
2005年に『白きマフラー』(鉱脈社)という本を出しました。

戦時中、特攻兵だけが首に白いマフラーを着けることが許されていました。

私にとって忘れることのできない思い出がそのマフラーにあり、それで本のタイトルにしました。

私は特攻基地のあった宮崎の赤江海軍基地に勤務していました。

そこから385人の若者が飛び立っていきました。 

彼らが首に着けていた白いマフラーは軍から支給されたものではありません。

着けなくてもいいんです。

ただ、特攻兵は17歳から23歳くらいの若い方ですから、

死を飾るような想いからか、皆さん自然と着けるようになっていったのです。

~~~~

氏本成文さんという18歳の青年の方のお話です。

氏本さんは出撃の数日前、四国のお母様に「白いふんどし一枚と絹の白いマフラーを一本、送ってください」と手紙を書きました。  

その手紙を読んだお母様は思うところがあって、ふんどしとマフラーを持って宮崎の基地まで来られました。

当時は白い布なんて店にはありませんから、お母様はご自分が結婚した時に実家から持ってきた長襦袢(ながじゅばん)の糸をとき、

空襲警報下ですから、真っ黒な網をかぶせた電灯の下で、一晩中ふんどしとマフラーを縫ったそうです。

そして翌朝、あちこち空襲で鉄道が不通の中、乗り換え乗り換えしながら宮崎までやって来られたのです。


宮崎の基地に到着すると、基地の人が「今、練習中です。すぐ降りてきます」と言われました。

お母様は息子さんと会ってどれほど嬉しかったことでしょう。

そして、縫い上げた白いマフラーと白いふんどしを息子さんに渡しました。

でもその時、特攻機の飛行練習をしていたとは考えられない状況でした。

燃料もなく、空はもうアメリカ軍が支配していて、飛び立つとすぐに撃ち落とされてしまうほどの戦況になっていたからです。

きっとその時は天候が悪くて、出撃したけれども視界が悪くて何も見えず、
「無駄死にになるから引き返せ」と上官が命令したのだと思います。


マフラーとふんどしを受け取った氏本さんは、

「今日はもう練習はないので宿に帰って休んでいてください。今夜行きますから」

と言いました。

お母様は旅館に戻られました。

2時頃だったそうです。

これが親子で交わした最後の会話になりました。

氏本さんは、視界が晴れたその1時間後、

特攻機に乗って基地を飛び立って行かれたのでした。

氏本さんは、きっと飛び立つ姿をお母様に見せて悲しませたくなかったのだと思います。

だから「旅館で待っていてください。今夜行きますから」と言ったのだと思います。

そして氏本さんは、魂になって、その夜お母様のところに行かれたのだろうと私は思っています。

その後、お母様は95歳まで長生きされましたが、

「あの日のことが人生で一番つらかった」

とおっしゃっていたそうです。

私はお母様の気持ちが痛いほど分かります。

宮崎の基地で実際にあったお話です。


(「日本講演新聞(旧みやざき中央新聞)1/17 2821号 語り部 安田郁子さんより)


承認することの大切さ

2020-01-25 21:34:00 | お話

🌸🌸承認することの大切さ🌸🌸


一昨年、漫才日本一を競うM-1 グランプリに、かつてない芸風のコンビが登場した。

ボケ役のシュウヘイとツッコミ役の松陰寺太勇(たいゆう)のコンビ「ぺこぱ」である。

成績は3位に終わったが、

審査員から「新しい漫才」「平和的で気持ちよかった」とか高く評価されていた。

何が新しくて平和的なのかと言うと、

従来の漫才では、ボケ役のセリフに対して、ツッコミ役は

「何言うてんねん」とか「いい加減にせい」

など否定的に返していたが、

松陰寺は相方から何を言われても、何をされても、

肯定的に返していくのだ。

タクシー運転手役のシュウヘイが「ブーン」と言いながらやってくる。

松陰寺が「ヘイ、タクシー」と言うと、

タクシーは「ドーン」と松陰寺にぶつかる。

松陰寺は「どこ見て運転してんだよ」と言った後、

「そう言ってる俺は無事でよかった。無事が何より」

と喜ぶ。

二度目のシーン。

再びシュウヘイが「ブーン」と言いながらやってくる。

「ヘイ、タクシー」と手を挙げている松陰寺に「ドーン」とぶつかる。

松陰寺は言う。

「2度もぶつかったってことは、俺が車道側に立っていたのかもしれない。

誰かを責めるのはやめよう」

言ったことが否定されずに受け止めてもらえると気持ちがいい。

審査員が言った「平和的な漫才」とはこういうことなのだろう。

その逆はどうだろうか。

作家の寮美千子さんは、その日、明治時代に建てられたレンガ造りの施設で開催された展示会に出かけた。

そこで1枚の美しい水彩画に見せられた。

一つひとつの色が微妙に違う。

寮さんは思った。

「几帳面すぎる。こんなに細かい神経の持ち主だったら、世間にいた時、さぞかし苦しかったのではないか」

それは、奈良少年刑務所で開催されていた矯正展でのことだった。

「振り返りまた振り返る遠花火」

という俳句にも寮さんは胸が締めつけられた。

「なんと端正な、抒情的な句なんだろう。

この子は鉄格子の窓から花火を見たのだろうか」

と寮さんは思った。

教官が声をかけてきた。

「ここにいる子たちは、おとなしかったり、引っ込み思案な子たちがほとんどです」

寮さんは、自分は作家であり、詩を作ったり朗読をする教室をやってきたことを話し、

「お手伝いできることがあればやります」

と言って教官に名刺を渡した。

この出会いが寮さんの人生を変えた。

翌年の2007年7月、「絵本や詩を使った教室を開きたい。ぜひ講師に」

と、奈良少年刑務所から電話があったのだ。

実はその年の6月、100年ぶりに監獄法が改正された。

それはそれまでは社会復帰後のために実習でいろいろな技術を教えてきたが、

法改正により職業訓練が困難な軽度知的障害者や精神疾患がある受刑者のために情緒的な教育を施すことができるようになった。

その講師を依頼されたのだった。

少年刑務所は、保護施設の少年院と違い、殺人や性犯罪など、刑事事件で実刑判決を受けた未成年の子どもたちが収監されている。

詳細は寮さんの著書『あふれでたのはやさしさだった』(西日本出版社)に譲るとして、

寮さんは最初の授業でアイヌ民族の親子を題材にした絵本『おおかみのこがはしってきて』(ロクリン社)を使った。

受講生の片方が父親役、片方が子ども役になって朗読劇をする。

子どもは父親に質問する。

父親はどんなことを聞かれてもちゃんと優しく答えてくれる。

全員これをやった。

全員が最後まで読めた喜びを味わった。

「たったこれだけのこと」で、少年たちは自信を獲得したようだった。

寮さんは「かすかな自己肯定感が芽生えた」と確信した。

彼らは幼少期から、何を言っても受け止めてもらえない家庭で育った。

常に大人から否定され、叱責され、攻撃されてきたという。

だから教官たちは、「否定しない」「注意しない」「指導しない」「ひたすら待つ」など、全承認の場を作っていた。

否定されない環境の中で初めて心を開き、少年たちは自ら成長していくというのだ。

「マスコミで目にする凶悪な少年犯罪は社会に表出した最悪の結果だけ」

と寮さんは言う。

かつては被害者だった少年たち。

今日も壁の向こう側で彼らの心に寄り添っている大人がいることに敬意を表したい。


(「日本講演新聞」(みやざき中央新聞)1/20 2820号 水谷もりひとさんより)

親だって泣いていい

2020-01-24 19:15:00 | ひとりさん

🌸🌸親だって泣いていい🌸🌸


小さい子どもを抱えていると、思い通りにならないことばかりで親は大変です。

子育ては嫌になってもやめられるものではないから、

心の折り合いをどうつけたらいいか悩む親御さんがいるのかもわかるんだよね。

で、そういう親御さんに俺が言えることはただひとつ。

「そんなにがんばらなくていいんだよ」

子どものことで悩んでいる親御さんって、やっぱり我慢しすぎなの。

自分を我慢させてまで頑張りすぎるから、悩みが深くなっちゃうんです。

みんな、子育ては我慢と忍耐だと思っているけど、そんなことわない。

もっと簡単に考えてごらん。

あなたは、子どもの世話を完璧にこなそうとしていないかい?

完璧ないい子を育てようとしていないかい?

その真面目すぎる思いが、あなたをつらくさせているの。

子育てだって、非常口はあるんだよ。

例えば、泣きたいときは我慢しないで泣いちゃうとか。

子どもって、何をしても泣きやまないとか、

ミルクを飲んでくれないとか、

ご飯を食べてくれないとか、言うことを聞いてくれないとか…

いろいろあるよね。

それでどうしようもなく混乱したときは、

我慢しないで、あなたもワーッと大声で泣いちゃえばいいんだ。

親はどんな状況でも完璧に子どもの世話をしなきゃいけないとか、

大人だから泣いちゃいけないとか、

そんなふうに思うから、ストレスがたまるんです。

育児放棄や虐待って、親が我慢しすぎるのが原因なんだよね。

決してあなたが冷たい人間だからじゃない。

あなたはよくやっているよ。

ただ、子どもが可愛いから、必死になりすぎているだけ。

我慢しすぎているだけなんです。

まずは自分の中にある「親だから」「大人だから」っていう枕詞を捨ててみな。

「親だからって我慢しなくていい」

「大人だって泣きたいときは泣いていい」

そうやって感情を押し殺すことをやめるだけでも、

子育てはうんと楽になるんじゃないかな。


(『嫌ならやめてもいいんだよ』
ナチュラルスピリット、斎藤一人さんより)