hideyukiさんの、令和もみんなガンバってますね!笑み字も!Webにも愛と光を!

日々の楽しい話、成長の糧などを綴ります。
楽しさ、感動、知恵が学べる。
(^_^)私はとっても普通の人です。

遠藤隊ラジオ局・開局

2019-12-27 12:05:00 | ラジオ局
絶好調!遠藤隊のラジオ局・開局

絶好調のみなさん
感謝してます。

令和元年12月25日
クリスマス

本日、
遠藤隊のラジオ番組

ただおちゃんと、おさむちゃんの
RADIOトーク

がスタートしました。

不定期ですが、楽しい話をジャンジャンバリバリ配信していきますので、ぜひ聴いてくださいね。、

アプリなしでも聴けますよ~。

そして、楽しかったら、どんどんシェアしてくださいね。

https://radiotalk.jp/talk/208768

マイ・ストーリー⑨

2019-12-26 18:26:00 | お話
マイストーリー9

政権移行ではその名のとおり、すべてが新しいものに移り変わる。

聖書に手が置かれ、宣誓が繰り返される。

前大統領の家具が運び出され、次の大統領の家具が運び入れられる。

クローゼットは空にされ、また服で満たされる。

そして、寝室の新しい枕では新しい住人が新しい夢を見る。

任期が終わって最後にホワイトハウスを去る日には、また1から自分探しをするための道が目の前にいくつも広がる。

私は再び人生の新たなステージに、新たな始まりに立つのだ。

政治家の妻としての義務からついに解き放たれ、周囲の期待という重荷も降ろした。

2人の娘はもう大きくなって、以前ほど私の手を必要としなくなった。

夫は、もう国家をその両肩に背負ってはいない。

サーシャとマリアに、バラクに、そして自分の仕事とこの国に対する私の責任は変化し、

将来について今までと違った考え方ができるようになるだろう。

じっくり考える時間、シンプルな自分に戻る時間も増えるに違いない。

54歳の私はまだ発展途上で、これからもずっとそうありたいと思う。

私にとって "何かになる" ということは、どこかにたどり着くことでも、目標を達成することでもない。

それは前進する行為であり、

進化の手段であり、よりよい自分になろうと歩みつづけることだ。

その旅に終わりはない。

私は母親になったけれど、子どもから学ぶこと、彼女たちにしてあげることはまだたくさんある。

妻になったからといって、1人の人を心から愛してともに人生を歩むことを完璧にできるようになったわけではなく、

その意味の重さに改めて圧倒されることもある。

影響力を持つ人間とみなされるようになった今でも、

気持ちが不安定になったり自分の意見が聞き入れられないと感じたりする瞬間はある。

何かになることはすべてプロセスの一部であって、

長い道のりの中の一歩にすぎない。

そこには断固たる姿勢と忍耐が求められる。

成長しつづけることを決して諦めてはいけないのだ。


これまで何度も訊かれてきたので、ここではっきりと言っておきたい。

私は政治家になるつもりは、まったくない。

もともと政治を好きになったことは一度もなく、

この10年を経てもその気持ちはほとんど変わっていない。

政治の嫌な部分には今でもうんざりしている。

赤と青で思想を区別して国民をどちらかの側につかせ、

その立場を固持するためには相手の意見に耳をかさなくていい、

譲り合うこともしなくていい、ときには常識さえも見失っていいとするこの国の政治の在り方には嫌気がさす。

もちろん、政治が前向きな変化をもたらすこともできるとは思うが、政治は私の戦いの場ではない。

とはいえ、私がこの国の未来を真剣に考えていないわけではない。

バラクが大統領職を退いて以来、気分が悪くなるようなニュースをいくつも目にしてきた。

ひどい出来事に憤るあまり眠れない夜もあった。

現在の大統領の振る舞いと政策が多くのアメリカ国民を疑心暗鬼に陥らせ、

互いへの不信感お恐怖心を抱かせるのを見ていると心が痛む。

社会のためになるよう入念に練られた政策が次々と覆され、

アメリカが大切な同盟諸国から孤立し、社会的立場の弱い人々が保護されずに人権がないがしろにされるのを見るのは辛い。

いったいどこまで落ちれば底にたどりつくのだろう。

それでも決して悲観的にはならないようにしている。

不安で胸がいっぱいになったときは深呼吸をして、

これまでの人生で目撃してきた人々の尊厳と良識、

この国が乗り越えてきた多くの困難を思い出す。

不安を感じたら、私と同じことをしてほしい。

この民主主義国家では私たち全員に役割がある。

一票一票が持つ力を忘れてはならない。

また私は、一回の選挙や1人のリーダー、1つのニュースにとらわれることなく、

もっと大きくて強力なものとのつながりを絶やさないようにしている、、

それは、前向きな心だ。

私にとってこれはいわば信念であり、恐怖心に打ち勝つ手段だ。

前向きな考え方はユークリッド通りに立つ小さな私の実家に満ちあふれていた。

まるで自分の体には何の問題もないかのように、

いずれは自分の命を奪うことになる病など存在しないかのように家の中を動き回る父の中にそれは息づいていた。

私たちが暮らしている地域を深く信頼し、

近所の人たちが将来への不安から荷物をまとめて引っ越していく中でもその内にとどまることを決めた母親の中にもそういう姿勢が見られた。

そして、希望に満ちた笑みをたたえてシドリーの私のオフィスにやってきたバラクに惹かれたきっかけも、彼の前向きな考え方だった。

のちに私は、こうした考え方のおかげで不安と自分の弱さを乗り越え、

常に国民の注目を浴びることになっても家族は安全で幸せに生きていけると信じることができた。

そして、今でも前向きな心に支えられている。

ファーストレディー時代には、意外なところでも人々の中にその心を見つけた。

戦場で負傷し、ウォルター・リード陸軍医療センターに入院しながらも落ち込む気持ちに抗うため部屋の扉にメモを貼り、

自分は希望を忘れていないと周りに知らせる兵士。

娘を亡くした悲しみを銃規制強化を求める戦いへのエネルギーに変えたクレオパトラ・カウリー・ペンドルトン。

廊下で生徒とすれ違うたびに愛と感謝の気持ちを大きな声で語りかけるハーパー高校のソーシャルワーカー。

また、子どもたちの心にはいつだって前向きな気持ちが根付いている。

子供は毎朝、目を覚ましたとたんに、
今日もいいことがあるかもしれない、

ワクワクすることが起こるかもしれないという気持ちになる。

ひねくれた考えを持たず、心の底から物事を信じられる。

そんな子どもたちのために、私たち大人は強くあり続け、

もっと平等で人道的な世界を作っていかなければならない。

子どもたちのためにも、たくましさと希望を失うことなく、成長には終わりがないのだと考えなければならない。


今やワシントンの国立肖像画美術館にはバラクと私の肖像画が飾られていて、

2人ともそのことをとても光栄に思っている。

私たちの子ども時代や育った環境を見てきた人たちのいったい誰が、私たちがここまで行き着くなどと予想できただろう。

肖像画そのものも素敵だけれど、何よりも大事なのは、

そこに飾られた私たちの姿を若い人たちが見ることだ。

そこに私たちの顔があることで、

歴史に名を刻むには決められた外見をしていなくてはならないという考えを

少しでも取り除くことができるかもしれない。

私たち2人がそこにいるのだから、他の多くの人たちにもその可能性があると考えるだろう。

私は、いつの間にか普通ではない旅に出ることになった、いたって普通の人間だ。

そんな私が自らの経験を語ることで、

他の人も自分の経験を語って意見を発信し、

誰がどんな理由でそこにいるのかが伝わっていく可能性が広がればいいと思う。

石造りの城に、都会に立つ学校の教室に、

アイオワのキッチンに足を踏み入れる機会を持てた私は、

いつでも自分らしく、そこにいる人々とつながりを築こうとした。

自分に向けてドアが開かれれば、私も相手に向けて自分のドアを開いた。


最後にこう伝えたい、、、

みんなでお互いを迎え入れよう。

そうすればきっと、私たちは恐怖心をなくし、

誤解を減らし、

互いを不必要に隔てる偏見や先入観を手放せるはずだから。

そうすればきっと、私たちは皆同じなのだという考えをうまく受け入れられるようになるだろう。

完璧などを目指さなくていい。

最後にどこに辿り着けるかが問題ではない。

自分自身と自分の意見を知ってもらい、
自分にしかない経験を本音で語ることには大きな力がある。


他者を知ろうとし、他者の意見に耳を傾けることは美しい。

人はそうやって前に進んでいくはずだから。


(おわり)

(「マイ・ストーリー」(集英社)ミッシェル・オバマ著 長尾莉紗 柴田さとみ訳)


マイ・ストーリー⑧

2019-12-25 15:08:00 | お話
マイストーリー8

まだ終わりに至ってはいないものの、私はこれまでの総決算をはじめていた。

といおりふと過去を振り返り、

得たものと失ったものを数え上げている自分に気づく。

この国のために、そして家族のために、犠牲にしたものは何か。

進歩と呼べる成果は何か。

自分たちにできることをすべてやり尽くしただろうか?

本当に、この任務を無事終えられるのか?

私は自分の人生の岐路について思い出そうとした。

それまでずっと思い描いてきた、予測可能で、すべてをコントロールできる夢のような人生。

安定した給料に、ずっと住める家に、毎日変わらない日々。

いったいどの時点で、予定の道をはずれてしまったのだろう?

自分の内に混沌が入り込むのを許してしまったのは、いつだったのだろう?

アイスクリームのコーンを持った手を下ろし、身を寄せて、

バラクとファースト・キスをしたあの夏の日だったのだろうか?

それとも、きちんと積み上げられた書類の山と法律事務所でのキャリアに別れを告げ、

もっと充実した何かがあると信じて歩み出したときだろうか?

思いは、シカゴのファー・サウス・サイド地区、ローズランドの教会の地下室に戻っていく。

25年前のことだ。

私はあの時バラクに呼ばれ、そこで彼の地区住民に向けた演説を聞いた。

希望のない生活や周囲の無関心に苦しみながら、

それでも立ち上がろうとする人々がそこには集まっていた。

その夜交わされた会話を聞いて、私は自分にとってなじみ深いものが新たな言葉で語られているのを感じた。

2つの次元で同時に生きていくことは可能なのだ。

現実という地面にしっかり足をつけ、同時に進むべき方向に目を向ける。

それは、私がユークリッド通りで子供時代に身につけてきたことであり、

私の家族が、そして、より広くは、社会から取り残された人たちが、常にやってきたことだった。

そしてよりよい現実を、たとえ最初は頭の中だけでも築き上げることができれば、人はきっとどこかにたどり着ける。

そう、あの夜バラクの語った言葉を借りれば、

今ある世界に生きながら、「あるべき世界」を築くために努力することは可能なのだ。

あの時は彼と知り合ってまだ数ヶ月しか経っていなかった。

けれど今思うと、あれが私の人生の分岐点だった。

あの瞬間、私は言葉ひとつ交わすことなく、契約を結んだ。

私たち2人の人生を、今に続くこの人生を選んだのだ。


それから長い月日を経た今、私はこれまでに実現された進歩に感謝していた。

私は2015年も引き続きウォルター・リード陸軍医療センターへの慰問を続けていたのだが、

訪れるたびに負傷兵の数が減っていった。

海外で危険にさらされるアメリカ兵の数が減っているのだ。

負傷して収容される兵士の数も、悲しみに心が張り裂ける思いをする母親の数も。

私にとって、それは進歩だった。

進歩は他にもある。

アメリカ疾病予防管理センターの報告によれば、

子どもの肥満率は、特に2歳から5歳の間で、上昇から横ばいに転じたという。

それに「リーチ・ハイアー」プロジェクトの一環として推し進めてきた「大学入学デー」には、

デトロイトの高校生2000人が駆けつけてくれた。

「大学入学デー」は、若者が入学する大学を決め、同意書を交わすことを祝う日だ。

進歩はまだある。

最高裁判所は国の新たな医療保険制度の根幹部分に対する異議申し立てを却下した。

その結果、アメリカ国民すべてに医療保険加入を保障するというバラクの内政における象徴的な成果は、

彼が大統領職を退いた後もほぼ確実に効力を持ち続けることになる。

バラクの就任当時にはひと月に80万人の雇用が失われていた経済も、

今では5年連続で雇用の拡大が続いていた。

これらはすべて、この国によりよい現実を築くだけの力があることを示す証拠だ。

それでもなお、私たちは「今ある世界」に留まり続けている。

ニュータウンの小学校乱射事件から数年が過ぎても、

議会は銃規制の法案を1つたりとも通さなかった。

オサマ・ビンラディンは去ったが、代わりにイスラム過激派組織イスラム国ISが現れた。

シカゴの殺人事件発生率は下がるどころかむしろ上がっている。

ミズリー州フィーファガソンではマイケル・ブラウンという名の10代の黒人青年が警察官に射殺された。

その遺体は道路の真ん中に何時間にもわたり放置されたという。

シカゴでは、やはり黒人青年のラクアン・マクドナルドが警察官に16発もの銃弾を浴びせられて殺害された。

うつ9発は背中からの銃撃だった。

クリーブランドでは、おもちゃの銃で遊んでいた黒人少年タミル・ライスが警察官に射殺されている。

ボルティモアで負傷したまま留置場に放置されたフレディ・グレイという名の黒人男性が死亡した。

スタテンアイランドでも、やはり逮捕時に背中から首を締められたエリック・ガーナーという黒人男性が窒息死している。

これらはどれも、アメリカに変わらず存在し続ける悪しきものの証拠だ。

バラクの初当選時、さまざまなコメンテーターが、「脱・人種」時代の到来を宣言した。

この国は肌の色などもはや意味をなさない時代に入ったのだ。

それは大きな誤りだったことは、これらの事件が証拠証明している。

アメリカ人の多くはテロの脅威に怯え続ける一方で、

人種主義や排他的な同族意識が国を分断しているという事実を見過ごしている。


2015年6月下旬、バラクと私はサウスカロライナ州チャールストンに赴いた。

またも悲劇にくれるコミュニティの葬儀に出席するためだ。

今回のそれは、「マザー・エマニュエル」の略称で知られる

エマニュエル・アフリカン・メソジスト監督協会の牧師、クレメンタ・ピンクニーの葬儀だった。

この教会では同月中旬、人種差別主義による銃乱射事件が起こっている。

ピンクニー牧師は殺害された9人の犠牲者のうちの1人だった。

犠牲者は全員が黒人だ。

彼らはその日、教会を訪れた無職だという見知らぬ21歳の白人男性を迎え入れ、

聖書の勉強会を始めた。

男はしばらく教会内に座っていたが、

信者たちが頭(こうべ)を垂れて祈りだしたところで、

突然立ち上がって銃を乱射したという。

そのさなが、彼はこう言ったと報じられている。

「こうするしかないんだ、お前らは俺たちの女性をレイプして、国を乗っ取ろうとしている」


葬儀の席で、バラクはピンクニー牧師への感動的な追悼の言葉を述べ、

その深い悲しみに浸った。

それから彼がとった行動は、その場にいた誰もを驚かせた。

バラクは列席者を促すように、ゆっくりと魂のこもった『アメイジング・グレイス』を歌い出したのだ。

それはシンプルな希望の祈りであり、耐え抜くことを求める訴えだった。

おそらく教会内にいた全ての人が、その歌声に加わった。

バラクと私はもう6年以上、ある自覚とともに生きている。

それは、私たちの存在自体が挑発的なのだという自覚だ。

今、この国では政治の場で、ビジネスの場で、 そしてエンターテイメントの世界で、

少数派の人々が徐々に重要な地位を占めつつある。

私たち一家はその最も顕著な例だった。

私たちはホワイトハウス入りは大勢のアメリカ国民を喜ばせた。

けれどそれは同時に、それ以外の多くの人々の反動的な恐怖心や恨みを呼び起こしている。

その憎悪は根強く、深く、依然として危険をはらんでいる。

私たちは家族として、国として、常にその自覚とともに生きてきた。

そしてこれからも、そうして生き続ける。

できる限り、気高く。


(つづく)

(「マイ・ストーリー」(集英社)ミッシェル・オバマ著 長尾莉紗 柴田さとみ訳)

マイ・ストーリー⑦

2019-12-24 13:07:00 | お話
マイストーリー7

そんな混乱が始まったころ、私は数ヶ月前から予定されていた南アフリカへの親善訪問に出発した。

ちょうどサーシャとマリアの学校は休みに入ったので、2人も連れて行くことにした。

私の母と、兄の10代の子供たち、レズリーとエイヴリーも一緒だ。

今回の訪問の主目的は、アメリカが後援するアフリカ大陸の若い女性リーダーのためのフォーラムで基調講演をすることだった。

けれど、それ以外にもたくさんの予定が組み込まれていた。

健康や教育に関する地域イベントに、地元リーダーやアメリカ領事館の職員との懇談。

それから隣国ボツワナに立ち寄って大統領と面会し、地域のエイズ診療所を訪れ、少しだけサファリを体験したのち帰国する予定だった。

南アフリカという国のエネルギーに浸る時間的余裕など全くなかった。

ヨハネスブルグでは、アパルトヘイト博物館を見学し、

都市北部の黒人居住区のひとつを訪れて、コミュニティ・センターに集まった現地の子供たちと踊ったり本を読んだりした。

ケープタウンのサッカースタジアムでは、

若者向けのスポーツ・プログラムを利用して子供たちにHIVとエイズの教育を行っているというコミュニティ・オーガナイザーや医療従事者の方々に出会った。

さらに、南アフリカのアパルトヘイト撤廃に尽力した伝説的な神学者、デズモンド・ツツ大司教に紹介される。

ツツ大主教は当時79歳だが、がっしりとした胸板と輝くような瞳の持ち主で、

絶えず笑とともにある人だった。

私は健康促進の活動のためにスタジアムを訪れたと知った大主教は、

ぜひ自分も一緒にと言って、歓声をあげる子供たちの前で私と腕立て伏せをしてくれた。


南アフリカで過ごしたこの数日間、私はまるでふわふわと浮いているような気分だった。

初めてケニアを訪れた1991年のあの旅と何もかもが違っていた。

あの旅では、私はバラクと2人でマタトゥに乗り、アウマの故障したフォルクスワーゲンを押しながら、土埃の立つ道沿いを歩いた。

ところが今、私が感じるこのふわふわとした感覚は、一部は時差ぼけのせいかもしれない。

けれど、もっと深遠で歓喜に満ちた何かが、それより多くを占めていた。

まるで、歴史と文化の大きな逆波に足を踏み入れたような、

大いなる時の流れの中で自分のちっぽけさを再認識するような、そんな気持ちだった。

リーダーシップ・フォーラムには、それぞれの地域で意義のある仕事に携わる若い女性たち76人が出席していた。

彼女たちの顔を見ながら、私はこみ上げる涙をこらえた。

彼女たちの姿は私に希望を与えてくれた。

もう自分たちの時代ではないと感じ、彼女たちをたくましくを持った。

当時、アフリカの人口の実に60%は20歳以下だった。

そこに集まった女性たちも全員30歳以下だった。

中には、まだ16歳の女性もいる。

彼女たちはそれぞれが非営利団体を立ち上げ、他の女性たちに起業の道を指導し、

投獄のリスクを冒してまで政府の腐敗を追及していた。

そんな女性たちが今こうして集い、研修を受け、互いに勇気づけられている。

このフォーラムがひたすら彼女たちの力の拡大につながることを、私は祈った。

しかし、この旅で最も現実離れした出来事はもっと早くに訪れていた。

それは旅程の2日目のことだだ。

私たち家族はヨハネスブルクのネルソン・マンデラ財団の本部に出向き、

名高い人道支援活動家でマンデラ氏の妻でもあるグラサ・マシェルに面会した。

その際に、マンデラ本人がこの近くにある自宅で皆さんにお会いしたいと言っています、と伝えられたのだ。

私たちはもちろん、すぐに自宅に伺った。

ネルソン・マンデラは当時92歳。

この年の初頭に肺の病気で入院している。

彼が客に会うことはめったにないと、私は聞かされていた。

バラクがまだ上院議員だった6年前、彼はワシントンDCを訪れたマンデラ氏と面会している。

そして今でも、そのときの写真を額縁に入れてオフィスの壁に飾っていた。

娘たちも…この旅の当時サーシャは10歳、マリアはもうすぐ13歳だった、
ことの重大さを理解したようだ。

常に何事も動じない私の母も、少しばかり呆然としている。


この世に存在する人間の中で、ネルソン・マンデラほど意義のある影響に世界におよぼした人物はいない、

少なくとも、私の基準ではそう言える。

1940年代、まだ若かった彼は、アフリカ民族会議に加わり、白人で占められていた当時の南アフリカ政府とその凝り固まった人種政策に敢然と抵抗しはじめる。

この活動のせいで逮捕され、刑務所に送られるのが44歳のとき。

その後1990年に釈放されたときには、

彼は71歳になっていた。

あらゆるものを剥奪され隔離された27年間におよぶ獄中生活。

その間に多くの友人はアパルトヘイト体制下で拷問され、殺害された。

こうした経験を経て、マンデラは政府のリーダーたちに武力で対抗するのではなく、交渉を重ねる道を模索するようになる。

そして、奇跡とされる平和的移行の立役者として南アフリカに真の民主主義をもたらし、

ついにはこの国の大統領となったのだ。

マンデラ氏の自宅は、郊外の緑豊かな通り沿いにあった。

バター色のコンクリート壁で囲まれた地中海風の邸宅だ。

私たちはグラサ・マルシェに案内されて、木陰の落ちる中庭を抜け、邸内に入った。

彼女の夫は、明るい日が差し込む広々とした一室で肘掛け椅子に座っていた。

雪のようなまばらな白髪で、茶色の柄のシャツ姿だ。

誰かがかけてくれたのだろう白い毛布が膝に乗っている。

マンデラ氏は何世代にもわたる親族たちに囲まれていた。

誰もが熱心に私たちを歓迎してくれた。

そして、その部屋を取り巻く明るさが、親族の人々の賑やかさが、

目を細めて笑う家父長の姿が、私にある記憶を思い出させた。

子供の頃によく訪れた、祖父の「サウス・サイド」の家の光景だ。

ここまで来る間は緊張していた私だが、すっかりリラックスしはじめていた。

本当のことを言うと、私が誰で、なぜ立ち寄ったのか、

マンデラ氏本人がはっきり理解していたのかどうかは定かでない。

このとき彼はすでにかなりの高齢で、視線はあちこちを漂い、耳も少し悪そうだった。

「こちらはミシェル・オバマ!」

グラサ・マルシェが彼の耳元で言った。

「アメリカ大統領の奥様ですよ!」

「おお、それは嬉しい」

ネルソン・マンデラはつぶやいた。

「嬉しいね」

彼は混じり気なし関心を込めて私を見つめた。

その目に映っているのは、しかし私以外の誰かなのかもしれない。

彼はこれと同じくらい温かな対応を、出会ったすべての人にしてきたのだろう。

私とマンデラ氏の対面は、とても静かで、しかし深く核心をついていた。


いや、きっと静かだからこそ、核心に迫っていたのだ。

彼の人生の言葉は、今ではそのほとんどが語られている。

彼の演説、手紙、書籍、抵抗運動のスローガン。

それらは今や彼個人のみならず、人類全体の物語に刻み込まれている。

そして私はそのすべてを、彼と対面したほんの短い時間の中で感じ取った。

何もないところから平等を引き出した、

その高潔さと気迫を間近に感じたのだ。


それから5日が経ち、アメリカへの帰国の途につくことになっても、私はまだマンデラ氏のことを考えていた。

夜闇の中、私たちを乗せた飛行機はアフリカ大陸を北へ、西へと進み、

大西洋を超える長い旅路に入った。

サーシャとマリアは、いとこたちの隣で毛布をかぶり、手足を投げだして眠っている。

母も近くの座席でうとうとしている。

機内のさらに後方では、スタッフやシークレットサービスの人々が映画を観たり、仮眠をとったりしていた。

エンジンがうなりをあげている。

私は一人きりで、だけど一人ではないと感じていた。

私たちは自分たちの街へ帰ろうとしている。

奇妙に身近になってしまった街、ワシントンDCへ。

白の大理石とイデオロギー対立が待つ街。


これから先もまだ戦い、多くを勝ち取らねばならない街。

私は、あのリーダーシップ・フォーラムで出会った若い女性たちのことを思った。

彼女たちも今はそれぞれの地域へと戻る旅路についているだろう。

自分のすべき仕事に再び向き合い、どんな激動にもじっと耐えて志を貫くために。

マンデラ氏は自分の信義のために投獄された。

子供たちの成長も、多くの孫たちの成長も見守れなかった。

それでも、彼は恨まなかった。

そンな目にあってもなお、自分の国に善なる本質が息づいていることを信じた。

彼はひたすら努力し、そして待ったのだ。

忍耐強く、決して落胆することなく。

それが実現するのを、じっと待った。

その精神に背中を押されるような思いで、私は国に帰った。

人生は教えてくれる。

進歩や変化はらいつだってゆっくり起こるのだと。

2年や4年では、まるで足りない。

一生分の時間でも、まだ足りないかもしれない。

私たちは、いつ実を結ぶとも知れない変化の種を植えているのだ。

だから忍耐強く、待たなくてはならない。


(つづく)

(「マイ・ストーリー」(集英社)ミッシェル・オバマ著 長尾莉紗 柴田さとみ訳)

マイ・ストーリー⑥

2019-12-22 15:19:00 | お話
マイストーリー⑥

翌日、バラクが経済関係の会合を、ひっきりなしにこなす中、私はロンドンのある女子校を訪ねた。

政府援助によってイズリントンの貧困地域に設立された中等学校だ。

その学校は、イギリスでいう公営住宅団地、いわゆる「カウンシル・エステート」にほど近い場所にあり、

全校生徒900人のうち実に90%以上が黒人やその他の少数民族だ。

さらに5分の1が移民や亡命者の家庭の子供だという。

私がこの学校を訪れたいと思ったのは、

そのように多様な人種を擁し、財源が乏しいにもかかわらず、学業的に優れている点に惹かれたからだ。

それにファーストレディーとして新しい土地を訪ねるからには、

本当の意味で訪れたいと考えていたからでもある。

つまり、行政の偉い人ではなく、実際にそこに暮らす人たちに会いたかったのだ。

こうした海外訪問では、私はバラクにはない機会がある。

なぜなら、私は彼のように演出尽くしの多国間会議や他国の首脳との食事会に出席する必要がないからだ。

代わりに、堅苦しい公式訪問にほんの少しの温かみを加える方法を見いだすことができる。

私はこのイギリス訪問を皮切りに、海外訪問では常にそれを実践していこうと考えていた。

けれど実のところ、エリザベス・ギャレット・アンダーソン校に到着して講堂に案内されている時点では、

まだ完全には自分の行動がもたらす感情を受け止める心構えができていなかった。

講堂には200人ほどの女生徒が集まり、

まずは生徒代表による歓迎のパフォーマンスを観て、

それから私が講演することになっていた。

この学校の名は、イギリス初の先駆的な女医で女性初の首長にも選出されたエリザベス・ギャレット・アンダーソンにちなんでいる。

校舎そのものは特に何の変哲もない。

ありふれた通りに立つレンガ造りの箱型の建物だ。

けれどステージ上の折りたたみ椅子に腰を下ろして生徒たちのパフォーマンスを見ているうちに…

それはシェイクスピア劇の一場面と、モダンダンス、それにホイットニーヒューストンの曲をアレンジした美しい合唱だった、、

私の中の何かが打ち震えた。

まるで自分自身が過去に向かって仰向けのまま落ちていくような、そんな感覚だった。


講堂に集まった顔を見渡すだけで、はっきりとわかる。

この女生徒たちは優秀にもかかわらず、それを世間に認めさせるために多大な努力をしなければならないだろう。

ヒジャブをかぶった少女たち。

英語が第二言語である少女たち。

さまざまな濃さの褐色の肌を持つ少女たち。

私にはわかる。

彼女の彼女たちは将来、押し付けられるステレオタイプと闘わなくてはならない。

これからずっと、本当の自分を示すチャンスを得るより先に他人から決めつけられて生きねばならない。

貧しいことや女性であること、

有色人種であるために世の中から目を向けてもらえないことと闘わねばならない。

自分の声を取り戻すために、ないがしろにされないために、

叩きのめされれないために、多大な努力をしなければならない。

ただ学ぶためにすら、努力しなければならない。

それでも彼女たちの表情は希望に満ちていた。

そして、今や私の表情も。

それは奇妙な、そして静かな悟りの瞬間だった。

この少女たちはかつての私だ。

そして私は、彼女たちの将来かもしれない。

この学校の内側に脈打つエネルギーは障壁とは無縁だった。

それは、まっすぐに努力する900人の少女たちのパワーそのものだった。


生徒のパフォーマンスが終わり、講演のために舞台に立ったとき、私は自分の感情ほとんど抑えることができなかった。

用意した講演用のメモに目を落とす。

だが、急にそんなものには何の関心もなくなった。

私は顔を上げて生徒たちに向き直り、話し始めた。

自分が遠い国から来て、アメリカ合衆国ファストリレディーなどというわけのわからない称号付けられているけれど、

皆さんが思う以上に皆さんとよく似ていること。

私もまた労働者階級が多く住む地区に生まれ、貧しいけれど愛のある家庭に育ったこと。

早いうちから、学校は本当の自分を確立するための基礎だと気づいたこと。

教育は取り組む価値のある大切なもので、皆さんが世界に飛び出す助けになるのだ、ということ。

この時点で、私はファーストレディーとして2ヶ月を過ごしていた。

その間さまざまな場面で、速すぎるペースに圧倒され、

分不相応な華やかさに落ち込み、子供たちのことで気を揉み、

自分の目指すものに不安を感じていた。

公人として生きること、歩いてしゃべる「国家の象徴」としてプライバシーを犠牲にすること。

そうした暮らしの中には、こちらのアイデンティティーの1部を剥ぎ取るためだけに存在するような瞬間もある。

しかし、今こうして女生徒たちに語りながら、

私はこれまでに感じたことのない純粋な何かを感じていた。

それは、「これまでの私」と「新しい役割」とかぴたり一致した瞬間だった。

あなたは十分な人間なの?、、、

ええ、十分よ。

あなたたち、みんな。

エリザベス・ギャレット・アンダーソン校の生徒たちの姿に感動したことを、私は彼女たちの前で語った。

皆さんはかけがえのない存在です、

なぜならほんとにそうなのだから、

と訴えた。

そして講演を終えたあと、私はやはり本能的に動いた。

手の届く限りの生徒一人ひとりを、ぎゅっと抱きしめたのだ。


(つづく)

(「マイ・ストーリー」(集英社)ミッシェル・オバマ著 長尾莉紗 柴田さとみ訳)