那覇市真地の高台に識名霊園があります。識名霊園は那覇市内でも屈指の規模があり清明祭のときには渋滞がおきるほど多くの人が訪れます。
その霊園の東側に繁多川の住民がシッポウジヌガマとよんでいる壕があります。ガマの中に四方地の神が祀られているところからこうよばれています。
シッポウジヌガマは戦時中、島田叡知事や荒井退造県警部長とともに県庁職員、警察部職員が避難した防空壕で、県庁壕(または県庁警察部壕)ともよばれます。
米軍と日本軍が本島中部で激しい攻防戦を行っていた頃、市町村長会議を行うため各自治体の首長に招集がかかります。1945年4月27日、雨のように砲弾が降り注ぐ中、県内17市町村長が集合して壕内で会議が開かれます。これが沖縄県政最後の市町村長会議となりました。
墓地の一角に墓石に囲まれた細い路地があり、奥に進むと壕の入り口があります。
木の根元にらせん状の石を削った狭い階段があり、2mほど下ると壕口になります。
階段は人ひとりがやっと通れる幅です。
壕の入り口は高さ1.5m、幅1mくらいですが、すぐに100平方メートルほどの広い空間となります。
中央に大きな鍾乳石があります。壕はさらに奥深く伸びており、壕の内部からはカマドの跡や、井戸などが見つかっています。
懐中電灯を消すと真の闇に包まれます。この暗闇の中、絶望的な状況に置かれ、市町村長はいったいどんな議題を話し合ったのでしょうか。
2010年9月17日付の琉球新報に、
『那覇市は、同市真地にある沖縄県庁・警察部壕を文化財指定する。』
という記事が掲載されました。那覇市としては、戦跡を文化財に指定するのは初めてということで、続けて記事は最後の市町村長会議についてこう記しています。
『会議は戦意高揚と食料確保などの戦場行政を決定、全国に例のない戦場行政機構・後方指導挺身(ていしん)隊を編成した。島田知事はこう告げている。「住民を飢えさせることがあっては行政責任者として最大の恥辱。是が非でも住民の食料を確保することが至上の命題」。しかし軍民が混在した戦場で、知事の要求を満たすことは不可能だった。』、と。
そして、シッポウジヌガマについては、
『沖縄戦の教訓は、地上戦が起きれば行政は国民の生命や財産を守れないということだ。この教訓を伝える場として、県庁・警察部壕ほどふさわしい遺跡はない。』としています。
島田知事と荒井部長は米軍の南下につれ、ここから糸満に向かって避難していくことになります。
もう行政も何もないですからねえ。