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MS「多発性硬化症」と共に生きる

難病の「多発性硬化症」患者です。家での映画鑑賞とガーデニングが趣味でです。薔薇が好きになり信仰に支えらながらの毎日です。

大阪へ行く

2024-03-23 17:57:00 | これまでのこと
(続き)
自分の働いてる病院の外科の先生に勧められ、母と姉と私で大阪まで行くことにした。
その時の私はまだロボット歩きだったから…。
大阪に行くのは初めてだった。
先生はこう行って、ここで乗り換えるんだぞ、と親切に教えてくださった。
私は期待に胸膨らませて新幹線に乗った。
その日はホテルに泊まって、翌日北野病院に行くことにした。




ホテルに行く途中に見たかったエゴノキの花が鈴なりに沢山咲いていた。




ホテルはリニューアルで料金は半額だった。何もかもが祝福されているように思われた。
翌日、北野病院へ行った。
患者さんがものすごく多くて、長く待ったが診察はあっという間だった。ちょっと期待外れだった。
先生は私の状態を見て、薬を4種類処方してくださった。
その日はご馳走を食べて、翌日から薬を飲み始めた。その日は海遊館を見て帰る筈だったが、私はフラフラして荷物も持てなくなった。
病院に電話すると、ある薬の量を減らすように言われた。私は悲しくて、どうしてこんな目に遭わないといけないの、と言って泣いた。

家に帰って、先生にお土産を渡そうと病院に行った。
いつの間にかスタスタ歩いている自分に気付いた。
皆んなに明るくなったね、背が高くなったみたい、と言われた。
それまでの私は人から見てそんなに酷い状態だったのかしら、と思った。
外科の先生に会うと、どんな先生だったか?と問われ、私は宇宙人みたいでした、と答えると、そうやろ、と先生も同意したので笑いあった。
先生、薬で歩けるようになりました、と御礼を言った。本当に絶妙な薬の処方だった。

もし、外科に掛かるのに月曜日ではなく火曜日に掛かっていたら、別の先生に当たり、こんな風にはいかなかっただろう。
熱血漢でちょっと怖いけど心優しい先生に当たり、運命的なものを感じた。
私は検査技師長に「治験コーディネーター」になります、と宣言していたが、実際はロボット歩きでどうしたらいいの、と思う前に道は開けた。
東京に行ったら、いつもふらふらして友達を心配させていたのに、治験コーディネーターの講習会に2週間も新宿に行くことが出来た。
その後、今度は治験コーディネーターの実習に北里病院に3週間行くことが出来た。
私にとっては奇跡としか思えなかった。涙が出るほど嬉しかった。
綱渡りのような人生だと思った。
(この章終わり)
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乳癌になって

2024-03-20 15:37:00 | これまでのこと
乳癌と診断され、直ぐに入院、手術となった。

左胸部の乳癌で、先生は全摘にするか部分切除にするか私に問うた。
生存率はどちらも同じと言われ、私は部分切除を選んだ。

私が「多発性硬化症」だと言うと、あんたはそんな病気じゃないと否定した。どうも他の感染性の病気と勘違いしたらしい。

また、「重症筋無力症」とも言われたと言うと、手術室で筋電図をしてくださってあんたは「重症筋無力症」じゃないと言って全身麻酔で手術を行なった。
あとで全身麻酔ってなんで楽なんだろうと思った。卵巣嚢腫の手術のことがあったから…。

勿論術後は、麻酔が切れると痛んだ。でも日にちが経つうちに軽くなることが分かっていたから耐えられた。
術後直ぐに先生は、「はい、手を挙げて!」と言われたので、私は思い切り手を挙げた。そういうスパルタの先生だった。動かすことが大事だということだったのかもしれない。
リンパの廓清も行なったからな、と言われた。

術後から抗がん剤であるホルモン剤が始まった。

暫くしてコバルト照射が始まった。コバルトを当てると足の先から痺れが段々身体の上の方に上がってきた。
そして身体がこんにゃくのようになった気がした。
気持ち悪いので先生にやめて欲しいと言うと、コバルトしないなら全摘すればよかったじゃないかと叱られた。
先生は叱る時は叱るが、次の日はすごく優しかった。

コバルト照射中は時々放射線科の先生の診察があったが、ある時患部が赤くなっていると言って、主治医に言いなさいと言われた。

主治医はそれを見て、患部にメスを入れると膿が流れ出した。化膿していたのだ。細菌検査室に検査を依頼した。

傷が開いたままコバルトを当てると、肉汁が焦げる匂いがした。
傷が閉じると化膿がひどくなり、傷が開くと化膿が止まった。

10日後にやっと検査結果が出て、嫌気性菌がいることがわかった。それに合う抗生剤を飲むようになって
熱を持った胸はやっと治まってきた。
それまではコバルトの痺れと化膿のせいで随分気分が悪かったが、段々と落ち着いてきた。

コバルト照射がやっと終わって歩いてみたらロボット歩きになっていた。
どうしよう、こんなんじゃ働けないと先生に訴えると、「大阪に行ってみるか?大阪に北野病院という病院があって、僕の先輩が神経内科部長になってるんや。」と京都弁で言った。先生は京都大出身だった。

私は行ってみることにした。
すると、先生は私の神経内科のデータを徹夜で整理してくださって(病気の根拠になるものはないのに)、渡してくださった。








私が乳癌になった時、先生はちゃんと働けるようにしてやるからな、と言ってくれていた。
私はその言葉にすがって、甘えて、
期待を持って行ってくることにした。
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家を建てて

2024-03-16 14:38:00 | これまでのこと
  37歳で左眼が見えなくなり(今はかなり回復)、マンションで一人暮らしを始めて7年後、家を建てた。

数年後、腰が痛くて整形外科にかかったら、卵巣嚢腫があることがわかった。腰のレントゲンを撮ったら、卵巣が腫れていたのだ。

直ぐに婦人科に回され、手術することになった。
本来ならば全身麻酔で行うところを、「重症筋無力症」という病名が付いていたことから、腰椎麻酔と硬膜外麻酔ですることになった。
全身麻酔だと、筋力の低下を招き、呼吸筋への影響を免れないためだ。

しかし、実際は重症筋無力症でないのに部分麻酔でするのは酷だった。
意識はあるからお腹の辺りを触られているのがわかって気持ち悪くて吐いた。
局所麻酔はもう御免だと思った。

翌年、ある日曜日の夜、何故か乳癌でもあるかも知れない…と思って触ってみると、なんだかしこりがあるような気がした。心臓がドキドキした。
一番に思ったのは、癌かも知れないという思いよりも、このまま収入が閉ざされたら…という心配だった。
暫くして、リンパが腫れているのかも知れない、と思いグッスリ寝た。

翌日、職場の上司にこのことを話し、今日か明日、外科に掛からせてくださいとお願いした。
暫く経ってから、その上司から明日まで待つのは落ち着かないだろうから今日掛かったら?と言われそうすることにした。

その頃、主任部長は病気で、主任部長代理の先生に当たった。のちに一日違ったら、私の人生は大きく変わっていたかも知れない…と思う。

熱血漢のその先生は多分癌ではないと思うが、念の為生検しょうと言って、後日手術場で局部麻酔で局部を一部切り取って、病理部に出した。局麻は痛くなったら麻酔薬を追加しながらするものだから、終わった後痛くてたまらなかった。

後日、結果が出たと連絡があって、残念ながら癌でした、と言われ、私はそうですかとだけ言って静かに受け止めた。後であの時の態度は立派だったと言われたが、私としては、前に難病の「多発性硬化症」と言われたのだから、それ以上の病気は存在しないような気がして、自然とそういう態度になっただけだった。

その後、まだ色々あったが、あり過ぎて次回に回すことにする。
ただ言えるのは、この2つの病気のあと、それぞれ自宅療養があったが、安心してゆっくり休める家があってよかった…という思いだった。






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ジャクリーヌ・デュ・プレのこと

2024-02-07 14:57:00 | これまでのこと

「ジャクリーヌ・デュ・プレ」はイギリスの天才チェリストで、当時は有名だった。
42歳で夭逝したからこの名前を知っている人は少ないだろう。
彼女は16歳でプロデビューし、22歳で有名なピアニストであり指揮者であるバレンボイムと結婚した。
途中体調を崩し、病名がなかなか分からず、やっとついた病名が「多発性硬化症」だった。
28歳の時て、その年引退した。
その頃、ステロイド・パルス療法など無かったのだろう。
映画の「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」を観た時、身体や手や足が震え、舞台で尿を漏らしたり、目のかすみを覚える彼女の姿はみていられなかった。
イギリスは「多発性硬化症」の患者が多い国だ。
日本に比べてダントツに多い。

彼女の有名な、私の好きな曲はエルガーのチェロ協奏曲だ。
まるで彼女の人生を表しているような曲だ。







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入院五日目

2024-02-05 21:53:00 | これまでのこと
手術が始まってから、全身麻酔で眠らされるので終わるまであっという間だった。
4時間以上かかったらしい。
「多発性硬化症」があるので、他の人よりリスクがあり、心電図を付けられ、酸素吸入はされ、何だか厳重な態勢が取られていたようだ。
翌朝には38 4度の熱が出て、更に翌朝には38.6度の熱が出た。
その間、また意識朦朧で朝、昼、晩の区別がつかないで、声も出ず、言葉がうまく出ず、手に力が入らなくて食事もこぼしてばかりだった。
「多発性硬化症」が急に進行した感じだった。
将来の自分を見るようで怖かった。


今日になって漸く平熱になった。
この数日間はMSに引き込まれて、悪魔の中にいるようだった。

お城にいるつもりが、とんだところに引き込まれていた。

熱には強い筈だったが、発熱で悪夢の中にいるようになったのは、MSがそうさせているのだろうか?
それともせん妄というものだろうか?
今度神経内科にかかった時に先生に聞いてみよう。
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