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MS「多発性硬化症」と共に生きる

難病の「多発性硬化症」患者です。家での映画鑑賞とガーデニングが趣味でです。薔薇が好きになり信仰に支えらながらの毎日です。

新たな発見

2024-06-08 16:50:00 | 現在





(現在のこと)
昨日は、土日天気が崩れるので買い物に行った。
思っていたより、歩くことが出来た。

それよりウートフ兆候(温浴効果)が出て、スーパーもそんなに冷えてなかったから、そちらの方が辛かった。身体に熱がこもってだらしくなる。

最近、お昼に炭水化物を取るようにした。TVの「情熱大陸」で、卓球の早田ひな選手が、お昼に焼そばだけで済ましていたからだ。筋肉を付けるには炭水化物だからね、と言っていた。

私は筋肉を付けるにはタンパク質だと思っていた。筋肉がタンパク質で出来ているという、単純な発想からだった。だから好きな麺類も封印していた。

そういえば母も3食、お昼は麺類だったがあとはご飯をちゃんと食べていた。健脚だった。

病院だって3食、しっかりご飯がついてくる。それを食べても特に太らなかった。

血糖値の事を考えて、糖質を控えていたが、勝手な固定観念からだった。それから解き放たれて、好きな炭水化物(特に麺類)を摂ることが出来てとても嬉しい。

そして、歩行が安定してくれることが何より嬉しい。

いまだに点滴のあとがこんなです。




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ようやく歩けて

2024-06-02 14:12:00 | 現在
(現在のこと)
2回目のパルス、なんだかとても緊張した。だって5月に入って、実際は3回目のパルスになるからだ。

効かなかったらどうしよう、という気持ちと、絶対によくなるぞという気持ちがせめぎ合っていた。

勿論神様に必死に祈りながら点滴を受けた。3日目終わった時、心が平安だったから大丈夫だと思った。

家に帰ってから、お庭に出てジューンベリーの実を摘もうと木に近づくと、この間沢山なっていたのに、全部干からびていて実というものが見当たらなかった。

ショックだった。ビタミンCを沢山取るぞと思っていたのに…。

次の日は買い物に行った。近くのスーパーだが、私にとっては遠い。
でも買い物に行ける事が嬉しかった。

暫く精神的に疲れていたが、枯れないて残っている薔薇たちに癒された。

顔はムーンフェイスというより、たるんだお多福のようになってしまった。少しでも髪で隠せるよう、暫く切らずにいよう。

いつになったら遺影の写真が撮れる
時が来るのだろうか?それまでは死ねないのかなぁ。










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効かないパルス

2024-05-27 20:40:00 | 現在
(現在のこと)
一週間前の月、火、水曜日の3日間、ステロイド・パルス療法を行った。

何故かというと、その前の週の金曜日から歩行に違和感を感じていた。それがどんどん酷くなって、月曜日の朝、KK病院の神経内科に電話して、症状を話したら来なさいと言われた。

それからパルス3日間、ステロイドを合計3,000mg点滴で入れた。飲む量が多くても何10mgだから、いかに多いかが分かるだろう。

それでも3日目は家に帰ってから、歩幅がどんどん狭くなって、歩けなくなった。伝い歩きだと何とか動ける。

待ってる時間が長過ぎて、久し振りにゲームをした。何と一日中していた。お陰で時間を忘れることが出来た。

そうして金曜日にまた神経内科に電話したら、今日来るように言われ行ったらステロイド・パルスになった。

今の所、大分いいようだが、油断は禁物だ。
私の身体はステロイドだらけで、ムーンフェイスになっがそんなことは言ってられない。

早く元の様に戻ることが先決だ。





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当直に入らない訳を聞かれて

2024-05-19 15:24:00 | これまでのこと
(これまでのこと)
当直の話が出たついでに、あることを思い出した。

何かの打ち上げで、検査室の希望者で飲みに行った。
斜め向かいに最初の頃一緒に働いていた彼がいた。彼は酒癖が悪く、Drに向かって名前を呼び捨てにした事があった。それで出世は見込めなかった。おまけに自損事故で片眼を失明し、眼帯をしたままだった。

最初は取り止めのないことを喋っていたが、ビールの量が増えてきたところで、私に向かって「◯◯さん、なんで当直に入らんの」と聞いてきた。
私が「技師長に聞いてみて」と言うとそんなのダメ、だと言う。

「◯◯さん、家を建てたやろ」と言うから、「建てたよ」と答える。何やらそれが気にくわないらしい。
私が「じゃあ私、乳癌になったの知ってる?」と問うと「知らない。◯◯さんも大変やったんやねぇ。」と急に言葉が和らいだ。元々優しい人だった。

どうも家の話は噂になっていて、癌の話は伝わってなかったらしい。

彼は正直な人だったから言ってくれた。彼も酷い高血圧を持っていて、当直に入らなければならないことに合点が行かなかったのだろう。私は申し訳ない気持ちだった。

彼はそこで席を立ち、帰ろうとしたので、咄嗟に持っていたMSのパンフレットを渡し、「私、この病気も持っているの。よかったら読んで!」と言った。

彼は去って行った。

羨ましい話には羽がはえたように広がり、どうでも良い話は広がらない。世の常かも知れない。

彼が正直だったから、皆んなが何を思っているかが分かった。
でもそんな噂はどうでもいい。

家を建てることは自由だし、私は病気があるから建てることに踏み切れたのかも知れない。

無責任な人の噂、そんなのを気にしていたら生きていけない。

向かいの優しい人が、「◯◯さんの病気のことは、こっち(検査室が離れている)の人はよく知ってるんよ。だから気にしなくていいんよ。」と言われた途端、私の目から涙がとめどなく流れて、止まらなくなった。優しい言葉を掛けられると緊張が取れるのか感情を制御出来なくなる。
「もうやめて、お願い、ありがとう」と必死でそれを遮った。







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あちこちに回されて

2024-05-11 18:57:00 | これまでのこと
(これまでのこと)
化学検査室は数ヶ月で、次は血液検査室に回された。

慣れない凝固系の検査をさせられたが、ちっちゃなパチンコ玉のようなものに血液を触れさせて、ぐるぐる回し、玉が止まった時間を測るという検査だったと思う。玉が止まるということは、血液が凝固したことになる。

私は目が回るような気がして、この検査は無理だと思った。親切な人が助けてくれた。

この検査も、結局数週間で器械が自動測定するようになったと思う。

午後からは採血の練習、お互い検査技師同士で採血しあった。
採血は学生の時以来だ。すぐに出来る筈がない。ただでさえ病気で手が震えるのに、その手を如何に固定するかが私の密かな秘策になった。

本当に採血させられたのは、のちに受付業務に配属させられた時だった。

血液検査のあとは、輸血検査に回された。血液型を試薬で調べること、
クロスマッチといって、患者の血清や血球を使って輸血する血液と混合し、軽く遠心して凝固がないか確認する。凝固があれば輸血には使えない。

私はこの検査が試験管を使って行う検査だったので、昔免疫検査室でやっていたことを思い出し、好きだった。

しかし、輸血検査をマスターしたと看做された途端、当直業務に入らされた。眠れないと翌朝は、頭がふらふらして仕事にならなかった。早退したのだったろうか…?

とにかく、人使いの荒い検査室だった。皆んなが悪いのではなく、上に立つ人の一声だった。

そういえば、急に検診センターの心電図室にも行かされたこともあった。
そこは2つベッドがあって、片方の人が服を脱ぐと電極を付け測定し、測定中にもう1人が服を脱ぐと電極を付け測定するという、常に電極を付けている状態が続き、私にとっては拷問に近かった。

腰椎すべり症があったからだ。身体がガタガタになるようで、医者に診断書を書いてもらい、切り抜けた。
口でいくらしんどいと言っても通じない。だから診断書だと思った。

私は身体が疲れ易く、退職すれば再就職は無理だと思ったから、耐えるしかなかった。その力を神様が与えてくれたような気がした。

その後、受付業務と採血業務に就くこととなる。
そして受付業務の時、乳癌になり、北野病院に行って道が開かれ、「治験コーディネーター」にもなることが出来た。

話が前後して申し訳ない。







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