上野の東京国立博物館に、仏様を拝見に行ってきた。
毎度のことだが、お寺さんで仏像に逢うときは、当然、手を合わせて拝む。
ところが、こういう博物館でお逢いすると、手を合わせない。拝まない。
美術品として、展示品としてしか見ない訳だ。
同じ仏様というのに・・・
信心深い偏屈爺鵺としては、手を合わせて拝んだうえで、拝見したいところだ
が、会場に居合わせる人、人、人・・・誰もが、拝もうをしていない。
調和を重んずる偏屈爺鵺としては、皆に逆らってまで、信念を貫くほど、頑迷
ではないので、手を合わせない。
心の中で、南無阿弥陀仏(たしか、偏屈爺鵺の家は、浄土宗だったはずである)
と称えることにした。
偶々坊さんがいたが、この人も、仏像を展示品として眺めていた。
マスクをしていたのだが、決してありがたい仏様に、不浄の息を吹き掛けない
ように、ということではなく、単に風邪避けか、顔を見られたくないので覆面
かわりにマスクをしているのだろう。
大した坊さんではなさそうだ。
そんなことはどうでもよい。
帝の命で肖像画を描かれようとした和尚が、指で自分の顔の皮を裂き、そこか
ら十一面観音が現れたことを顕した“宝誌和尚立像”のお姿に感動した。
いろいろな仏様を拝めた。
メインルームに安置された、滋賀・向源寺のあの有名な十一面観音菩薩立像に
は圧倒された。
優しいお顔、優美な身体の線・・・
そして、後頭部の、暴悪大笑面の迫力には、感動した。
この観音様の周りを何回めぐったろうか?
おそらく、ここに20分は佇んでいた、と、思う。
おかげで、円空さんと木喰さんの彫った仏像の展示ルームに入ることすら忘れ
てしまった。
きっと感動に、意識が空になっていたんだろうね。
ま、円空さんも、木喰さんも作品が多いから、またどこかでお逢いするこった
ろう。
と、いう一日でした。
感動のまま、銀座に行き、某デパートの地下で、近江牛のすきやき膳を食べた
が、近江牛の味がしなかった。
1500円にしては肉の量が多かったが、糸蒟蒻の量も多かったので、きっと
肉が堅くなっちゃったのだろうよ。
鳩居堂も相変わらずお客が多い・・・東京、特に銀座は人が多いのだね。
と、いうありがたい一日でしたよん