すっかり忘れていたが、雑木林を作っていたのだった。
久し振りに、鉢を見たら、雑草のような葉っぱが出ていた。
これは、去年の秋に、水に沈んだドングリを蒔いた30数粒のうちの、2個が
芽を出したようだ。
同じ葉っぱのようであり、違う葉っぱのようである。
あとのドングリはどうしたのかな?
ま、いいさ、2本も木の芽が出たのだ、今年の秋は、また厳選したドングリを
蒔こう。
ついでに、谷保天満宮で拾った銀杏10個を蒔いて、育った公孫樹が、今年も
葉をつけた。みてやってけれ。
「谷保天満宮」の話は既に書いた、と思ったが、検索したところ、書いていな
いようだ。
年寄のことだから、同じ話を何回もする・・・と嫌がられないよう、重複しな
いように気をつけている。
などと、チェックする時は、重複していないのだが、何気なく書いていると、
何回も同じ咄を繰返すのだね。
で、「野暮」という言葉の語源になった、というのは、既にガセビアの泉に沈ん
だと思うが、その由来は、こうだよ。
「谷保天満宮(やぼてんまんぐう と、濁る。南武線の駅名は誤りで“やほ”
と読ませている)」
江戸時代、お寺や、神社にお参りする人で一杯だった。
その参拝客相手の商売が繁昌した。
門前、市をなすというな。
そのお参りする男を目当てに、色町がつくられたのだな。
浅草の裏に吉原。花園神社のそばに歌舞伎町・・・これは違うか?
それに、“寺参りに行ってくる。”という口実は、家を出るのには丁度よい。
かみさんも、信仰なら仕方ない・・・と納得するだろうね。
ところが、谷保の天満宮には、そういう遊びをするところがない。
折角かみさんの眼を盗んで、わざわざ甲州街道を一日かけて歩いてきたのに、
遊び場がない、
“なんと、つまらない処なのだ、この谷保は、”
“色気の素っ気も何にもない所なのだ、この谷保は、”
と云われたものだ。これから、転じて、色気も何もないことを谷保天と云うよ
うになり、それが、“野暮”になった、というお話。
この咄は、“国立の達人”のホームページには載っていない。
その谷保天満宮の境内の公孫樹の銀杏を拾って、富士見商店街の公園の水道で
あの臭い果肉を洗って、持って帰り、鉢に植えたのだ。
当時は、種を水に浸して、沈んだ種を蒔く、なんてことは誰も教えてくれなか
ったので、そのまま蒔いた。
10粒蒔いて、5本芽が出た。
かれこれ15年くらい前になるか・・・
これを葉擦川市の我が家に置いて、国立で暮らしていた。
5年位して、その芽が15糎くらいに育ったが、暑い夏の日が続いた年に、
枯らしてしまった。
水をやらなかったからね。
だって国立から葉擦川市までは、230kmもあって、ジョウロを持った手を
いくら伸ばしても、届かないのだから。
これはしまった、と思ったが、新たに銀杏を蒔く気にはならなかった。
と思ったが、翌年の春に、葉っぱが出てきた時には、嬉しかったねぇ。
だから、剪定をしなければいけないのだが、切る気がしないのだよ。
また枯れるといけないと思ってね。
偏屈爺鵺が植物に興味を持って育てた唯一のもんだね。この公孫樹は。
公孫樹・・・“いちょう”と読む
銀杏・・・・“いちょう”と読むが、本文では、公孫樹の実の、“ぎんなん”と
読む