はちみつブンブンのブログ(伝統・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師)

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002―医師―本居宣長と江戸時代の医学 (修正版)

2015-02-17 19:59:08 | 本居宣長と江戸時代の医学

 私たちが宣長がどのような医師であったかを知ろうと欲する時によく行う方法の一つはその肩書きを調べることでしょう。例えば彼は小児科医であったとか、後世方派の医師であったなどとも言われていましたが、それは真実でしょうか。またそれで理解したことになるのでしょうか。その有効性考えるのは後回しにして、まず医師とはどのようなものか、どんな種類があるのか見てみましょう。



 宣長が39歳であった頃、明和五年には『京羽二重大全』という京都のガイドブック、タウンページのようなものが出版されており、そこには当時よく知られた吉益周介(東洞)や賀川玄悦など様々な医師の名と所在地が連ねられてあります。それを読むと、医師には、医師、儒医、小児医師、産前産後医、目医師、口中医師、外科、針、経絡導引、灸医などがあり、この頃すでに医療の分業化、専門化が進んでいたことが分ります。

 この専門化には歴史があり、古代中国の名医扁鵲は晋の邯鄲では婦人科の医師、周の洛陽では老人科(耳目冷痺)の医師、秦の咸陽では小児科の医師へと、その土地の習俗にしたがって専門を替えました。これは患者の年齢や性別によるものでしたが、その後、目や口など疾患の部位、針や灸などの治療手段によるものも進みました。



 そもそも日本においては医師の歴史は大化改新にまで遡ります。そこで律令国家を形成するための重要な大宝律令(後に養老律令に改定された)が成立しましたが、その片隅に医事制度を定めた医疾令があります。中務省には内薬司(正・佑・令史・侍医・薬生・使部・直丁)があり、宮内省には典薬寮(頭・助・允・大属・小属・医博士・医師・医生・針博士・針師・針生・按摩博士・按摩師・按摩生・咒禁博士・咒禁師・咒禁生・薬園師・薬園生・使部・直丁)がありました。現代の日本において医師(Doctor)のことを医師と呼ぶのはこれに由来し、また針師や灸師、按摩師も同様であり、それら以外の多くが時と共に自然消滅してしまいましたが、写真にあるように典薬頭などの肩書きはまだ江戸時代にはありました。

 ただし医師という言葉は『周礼』天官冢宰にあることから古代中国は周代にはすでに存在していました。その頃には医師、食医、疾医、瘍医、獣医があり、それらは官名であり職名であり、おのおの職分が異なりました。それぞれ、医師は医の政令を、また毒薬を聚めて医事に共するを掌り、また食医は王の食事や飲み物、味などの調和を、疾医は万民の疾病を養うを、瘍医は腫瘍や潰瘍、金瘍、折瘍の治療を、獣医は獣病、獣瘍の治療を掌っていたのです。

 そんな訳でここでの医師には四つの意味があるのでご注意を。また『京羽二重大全』に医師の並んで記載されている儒医は江戸期特有の医師であり、本目的のためにはまずこれを理解することが重要です。

つづく

(ムガク)

028-もくじ・オススメの参考文献-本居宣長と江戸時代の医学



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