はるの職場の目の前には、
いわゆる「震災復興住宅」がある。
震災後、家を失った人たちを優先的に入居させた
公営住宅のことだ。
そこから、うちのデイケアに通ってきている人も多い。
元町の繁華街に40年以上暮らしていたKさんは、
自宅アパートが全壊し、住むところを探したが
地元近くでは、公営住宅の募集があっても倍率があまりに高く、
入れる見通しがまったく立たない。
しかたなく、それまで通りがかったことすらなかった
神戸の西のはずれにある市営住宅に、入居することになった。
10数階建ての高層で、
バリアフリーの、こぎれいな団地である。
Kさんは80代で、
夫をすでに亡くしてひとり暮らしをしている。
腰や足の痛みが強く、
長い距離を歩くのは困難だ。
それでも、
今でも月に1回は、元町の坂の上にある診療所まで
電車とタクシーを使って、ひとりで出かけていく。
診察と、薬を処方してもらうためだ。
「先生は、
来るの大変やったら、いつでも家の近くの病院に
紹介状書いたるでぇ、って言うてくれはんねんけどな。
でも、行けるうちはがんばって行きたいねん。
もう、前の先生の代から、ずうっとそこにお世話になってるしな。
あのへん、知った人もたくさんいるしな。」
診察の帰りに、
昔からの友だちの家に寄り、おしゃべりするのも楽しみらしい。
「みんな、
帰っておいでよ、言うてくれんねんけどな・・
家あれへんのに、どないして帰んねんな。なぁ?」
最後は必ずこの言葉で、
笑って話を終えるKさんだ。
Aさんはもう90を超えた、
ひとり暮らしの女性。
同じ市営住宅の、高層階に暮らしている。
もともと、須磨区の月見山という町に長年住んでいたが、
やはり震災で家を失い、現在のところに越してきた。
「月見山は、店もぎょうさんあって便利やってんけどなぁ。
今のとこ、買い物が不便やろ。
行きはなんとか歩いても、帰りはタクシー乗らなしゃあないで。」
・・と半年くらい前までは話していたが、
だんだんそれも難しくなり、
最近は、週に1回息子や嫁が買い物に行き、
生活に必要なものを運んでいるとのこと。
数日前に会ったとき、
髪がずいぶん伸びてるなぁ、と思った。
「髪、伸びたなぁ」
と触れると、
「だって、美容院行かれへんもん。
このへん、歩いて行ける美容院もあれへんしなぁ。
前住んどったとこやったら、なじみの店があったんやけどな。
新しい店には、なかなか行きにくいわ。」
と、困り顔だった。
年齢の割に、いつも明るい色の服を好んで着ている
おしゃれな女性なのだけど。
今は、
週2回デイケアを利用する以外、
ほかに特別、行くところもない。
高層住宅の9階に住んでいたら、
はるだって、家の外に出るのがおっくうになりそうだ。
「医者にもな、歩かなあかんって言われてるから
ときどき家のまわりを散歩してるんやけど、
年寄りは、だぁれも歩いとらへん。
話し相手もおらへんわ。
この団地、わたしが来たころには年寄りばっかりやったけど
ここんとこ、若い人がずいぶん増えたでぇ。」
老年者控除の段階的廃止や、
昨年から始まった家賃の特別減免措置の打ち切りによって、
この復興住宅すら、出て行かざるを得なくなっている高齢者が
じわじわ増えていると聞く。
Aさんは、
最近、会うたびにこんなふうに話す。
「ほんまにもう、
いつまで生きてんのやろなぁ、わたし。
子供ももう60いくつやしな。子供に先逝かれてしもたらどないしよう。
もう、そればっかしずうっと考えて暮らしてるわ」
はるは、
毎日JRで通勤している。
自宅の最寄駅のあたりも、
震災で壊滅的な被害を受けた地域だ。
だけど今は、
そんなことがあったとは想像もできないくらい、
完璧に「復興」している。
新しい分譲マンションが次々と建ち、
けさの新聞によると、
うちの区は、38%が「震災後の住民」なのだという。
といっても、
はる自身も、震災の7年後に関東から出戻りしてきたわけだから
統計上は「新市民」のひとりである。
そして、
子供たちもそれぞれ平成8年、11年生まれなので
もちろん震災を知らない。
学校でいろいろ習っているし、
知識としては持っているけれど。
快速電車で毎日通り過ぎる、
新長田駅。
高架の駅から街を見下ろすと、
今でも、駅前にしては不自然な空き地がぽつぽつと目立つ。
長田区の人口は、
震災前より20%も減少したままだそうだ。
この新長田駅前も、
新聞記事によると「08年度中の完成を目指して区画整理が進んでいる」
とのことだけれど、
なぜ、こんなに長い時間がかかってしまったのだろう。
その間に失われてしまったものは、
あまりにも大きい。
これだけ大きな災害になると、
行政は「街」の復興に手一杯で、ひとりひとりの人間のケアまでは
とても手が回らない。
地域で、みんなで、
できることをして助け合うしかない。
震災から12年経った今でも、
もう大々的に報道されるようなことはなくても、
地域で地道にいろんなことをしてがんばってる人たちは、たくさんいる。
また、自らも辛い体験を持ちながら、
それを話すことで、命や人と人とのつながりの大切さを
伝えていこうと努力を続けている人たちもいる。
はるも、
自分にできることはちいさなことかもしれないけれど、
なにかをし続けたい。
KさんもAさんも、
失ったものはもう取り戻せないけれど、
せめて心おだやかに暮らしていけるよう、
はるにできることをしながら、関わりを続けたいと思う。
これからも、
がんばろう、神戸。
がんばるぞ、はる!
いわゆる「震災復興住宅」がある。
震災後、家を失った人たちを優先的に入居させた
公営住宅のことだ。
そこから、うちのデイケアに通ってきている人も多い。
元町の繁華街に40年以上暮らしていたKさんは、
自宅アパートが全壊し、住むところを探したが
地元近くでは、公営住宅の募集があっても倍率があまりに高く、
入れる見通しがまったく立たない。
しかたなく、それまで通りがかったことすらなかった
神戸の西のはずれにある市営住宅に、入居することになった。
10数階建ての高層で、
バリアフリーの、こぎれいな団地である。
Kさんは80代で、
夫をすでに亡くしてひとり暮らしをしている。
腰や足の痛みが強く、
長い距離を歩くのは困難だ。
それでも、
今でも月に1回は、元町の坂の上にある診療所まで
電車とタクシーを使って、ひとりで出かけていく。
診察と、薬を処方してもらうためだ。
「先生は、
来るの大変やったら、いつでも家の近くの病院に
紹介状書いたるでぇ、って言うてくれはんねんけどな。
でも、行けるうちはがんばって行きたいねん。
もう、前の先生の代から、ずうっとそこにお世話になってるしな。
あのへん、知った人もたくさんいるしな。」
診察の帰りに、
昔からの友だちの家に寄り、おしゃべりするのも楽しみらしい。
「みんな、
帰っておいでよ、言うてくれんねんけどな・・
家あれへんのに、どないして帰んねんな。なぁ?」
最後は必ずこの言葉で、
笑って話を終えるKさんだ。
Aさんはもう90を超えた、
ひとり暮らしの女性。
同じ市営住宅の、高層階に暮らしている。
もともと、須磨区の月見山という町に長年住んでいたが、
やはり震災で家を失い、現在のところに越してきた。
「月見山は、店もぎょうさんあって便利やってんけどなぁ。
今のとこ、買い物が不便やろ。
行きはなんとか歩いても、帰りはタクシー乗らなしゃあないで。」
・・と半年くらい前までは話していたが、
だんだんそれも難しくなり、
最近は、週に1回息子や嫁が買い物に行き、
生活に必要なものを運んでいるとのこと。
数日前に会ったとき、
髪がずいぶん伸びてるなぁ、と思った。
「髪、伸びたなぁ」
と触れると、
「だって、美容院行かれへんもん。
このへん、歩いて行ける美容院もあれへんしなぁ。
前住んどったとこやったら、なじみの店があったんやけどな。
新しい店には、なかなか行きにくいわ。」
と、困り顔だった。
年齢の割に、いつも明るい色の服を好んで着ている
おしゃれな女性なのだけど。
今は、
週2回デイケアを利用する以外、
ほかに特別、行くところもない。
高層住宅の9階に住んでいたら、
はるだって、家の外に出るのがおっくうになりそうだ。
「医者にもな、歩かなあかんって言われてるから
ときどき家のまわりを散歩してるんやけど、
年寄りは、だぁれも歩いとらへん。
話し相手もおらへんわ。
この団地、わたしが来たころには年寄りばっかりやったけど
ここんとこ、若い人がずいぶん増えたでぇ。」
老年者控除の段階的廃止や、
昨年から始まった家賃の特別減免措置の打ち切りによって、
この復興住宅すら、出て行かざるを得なくなっている高齢者が
じわじわ増えていると聞く。
Aさんは、
最近、会うたびにこんなふうに話す。
「ほんまにもう、
いつまで生きてんのやろなぁ、わたし。
子供ももう60いくつやしな。子供に先逝かれてしもたらどないしよう。
もう、そればっかしずうっと考えて暮らしてるわ」
はるは、
毎日JRで通勤している。
自宅の最寄駅のあたりも、
震災で壊滅的な被害を受けた地域だ。
だけど今は、
そんなことがあったとは想像もできないくらい、
完璧に「復興」している。
新しい分譲マンションが次々と建ち、
けさの新聞によると、
うちの区は、38%が「震災後の住民」なのだという。
といっても、
はる自身も、震災の7年後に関東から出戻りしてきたわけだから
統計上は「新市民」のひとりである。
そして、
子供たちもそれぞれ平成8年、11年生まれなので
もちろん震災を知らない。
学校でいろいろ習っているし、
知識としては持っているけれど。
快速電車で毎日通り過ぎる、
新長田駅。
高架の駅から街を見下ろすと、
今でも、駅前にしては不自然な空き地がぽつぽつと目立つ。
長田区の人口は、
震災前より20%も減少したままだそうだ。
この新長田駅前も、
新聞記事によると「08年度中の完成を目指して区画整理が進んでいる」
とのことだけれど、
なぜ、こんなに長い時間がかかってしまったのだろう。
その間に失われてしまったものは、
あまりにも大きい。
これだけ大きな災害になると、
行政は「街」の復興に手一杯で、ひとりひとりの人間のケアまでは
とても手が回らない。
地域で、みんなで、
できることをして助け合うしかない。
震災から12年経った今でも、
もう大々的に報道されるようなことはなくても、
地域で地道にいろんなことをしてがんばってる人たちは、たくさんいる。
また、自らも辛い体験を持ちながら、
それを話すことで、命や人と人とのつながりの大切さを
伝えていこうと努力を続けている人たちもいる。
はるも、
自分にできることはちいさなことかもしれないけれど、
なにかをし続けたい。
KさんもAさんも、
失ったものはもう取り戻せないけれど、
せめて心おだやかに暮らしていけるよう、
はるにできることをしながら、関わりを続けたいと思う。
これからも、
がんばろう、神戸。
がんばるぞ、はる!
