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大阪市北区で行政書士・海事代理士・マンション管理士を営んでいる原田行政書士法務事務所の駅ブログ

主に学生時代から撮り続けている全国の駅の写真等をブログで毎日公開しています。

今日は麻酔の日

2020年10月13日 | 今日は何の日

10月13日は麻酔の日です。

1804(文化元)年の今日(10月13日)、外科医の華岡青洲が世界で初めて全身麻酔の下に乳がん摘出手術を成功させました

外科医だった華岡青洲は、曼陀羅華の実(朝鮮アサガオ)・草烏頭(トリカブト)、当帰(トウキ)を主とする6種類の薬草に麻酔効果があることを発見し、実母の於継と妻の加恵の数回にわたる人体実験の協力と犠牲の末、全身麻酔薬の「通仙散」を作り上げて、この偉業を達成したのでした。

そこで、日本麻酔科学会はこの偉業をたたえて10月13日を「麻酔の日」に制定しました

その後、華岡青洲は経口の通仙散を用いた全身麻酔下での手術により、大和国宇智郡五條村の藍屋勘の乳がんの摘出に成功しましたが、これが世界最初の麻酔手術でした。

麻酔とは、薬物などによって人為的に疼痛をはじめとする感覚をなくすことで、主に医療で治療などにおける患者・動物の苦痛を軽減させると同時に、筋の緊張を抑える目的で用いられます。これにより、手術を受けることができ、また、耐え難い苦痛を取り除くことができます。
麻酔は通常、局所の感覚のみを失わせる局所麻酔と全身に作用する全身麻酔の処置手段があります。

ちなみに、日本では診療科として麻酔科を名乗るには、厚生労働大臣の「麻酔科標榜医」の許可を取る必要があります(医療法第70条2項、及び医療法施行規則第42条の4)。


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和歌山線 紀伊長田駅!

2020年10月11日 | 

和歌山県紀の川市嶋にあるJR西日本の紀伊長田駅は、関西本線の王寺駅と和歌山駅とを結んでいる全線単線の和歌山線(87.5km)の駅です。
もともとは紀和鉄道の長田臨時停車場として、1903(明治36)年3月7日に開業しました。

和歌山方面に向かって右側に配置された単式ホーム1面1線のみを有する無人駅で駅舎はなく、直接ホームに入る形になっています。

紀伊長田駅の利用客は少なく、2018(平成30)年度の1日の平均乗降人員は220人で、これは起終点駅を除く和歌山線の全34駅中32位です。

紀伊長田駅が属する和歌山線は現在、関西本線と接続する王寺駅から高田駅までの間はIC乗車カード「ICOCA」の近畿圏エリアに含まれており、大阪方面からの直通列車が多く運転されていますが、高田駅~和歌山駅間は線内のみのローカル輸送に徹する形となっています。
また、和歌山線はかつて、東京駅に直通する急行「大和」の寝台車(和歌山線内では普通列車に連結して運転)や、紀勢本線の白浜方面に直通する急行「しらはま」、その後身の急行「紀ノ川」といった優等列車が運転されていましたが、いずれも国鉄分割民営化までに廃止されてしまい、現在は普通列車・快速列車のみ運転されています。

  <紀伊長田駅の年表>

 ・1903(明治36)年3月7日:紀和鉄道の長田臨時停車場として開設
 ・1904(明治37)年8月27日:紀和鉄道が関西鉄道に譲渡され、同鉄道の臨時停車場となる
 ・1907(明治40)年10月1日:鉄道国有法により関西鉄道が国有化され、国鉄の臨時停車場となる
 ・1908(明治41)年2月22日:臨時停車場から仮停車場に変更される
 ・1909(明治42)年10月12日:国鉄線路名称制定により国鉄和歌山線となり、同線の仮停車場となる
 ・1912(明治45)年5月1日:仮停車場から仮乗降場に変更される
 ・1938(昭和13)年7月15日:駅に昇格して紀伊長田駅となる
 ・1941(昭和16)年8月10日:営業休止
 ・1952(昭和27)年9月23日:営業再開
 ・1984(昭和59)年10月1日:五条駅~当駅~和歌山駅間が電化
 ・1987(昭和62)年4月1日:国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる
 ・1991(平成3)年4月1日:和歌山支社の管轄から橋本鉄道部の管轄に変更される
 ・2003(平成15)年10月1日:コンコースの喫煙コーナーを廃止
 ・2009(平成21)年6月1日:橋本鉄道部が廃止され、和歌山支社の管轄になる
 ・2010(平成22)年6月 :簡易券売機が設置される
 ・2020(令和2)年3月14日:ICカード「ICOCA」の利用が可能になる

 
(駅 名 標)

 
(踏切上から王寺方面を望む)

 
(和歌山方面を望む)

 
(紀伊長田駅入口)


 撮影年月日:2017(平成29)年4月8日


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今日は缶詰の日!

2020年10月10日 | 今日は何の日

10月10日は缶詰の日です!

缶詰は、一般に水分の多い食品を長期保存に適するよう調理し、金属製容器(缶)に詰めて密封した上で微生物による腐敗・変敗を防ぐために加熱・殺菌したもので保存食の一種です。 そして、乾燥食品などの製品を単に金属缶に詰めて密封したものは厳密には「缶入り」と呼ばれ一般に缶詰とは区別されます。
上記のように缶詰は基本的に調理済みなので、開けてすぐ(または湯煎等による簡易な加熱などのみで)、そのまま食べることができます。 ただし、通常、固形物は調味液とともに封入する必要があるなど、製造工程に由来する弱点もあり、どんな食品でも保存できるわけではありません

わが国の缶詰は、今から148年前の1871(明治4)年に長崎で松田雅典という人がフランス人レオン・デュリーの指導の下で、いわしの油漬缶詰を作ったのが始まりですが、1877(明治10)年の今日(10月10日)、明治政府の産業振興政策として、北海道開拓使が北海道石狩町(現・石狩市)に缶詰工場である石狩缶詰所を設置し、アメリカ人の技術者トリートとスウェットの2人の指導の下、石狩川で獲れたサケを原料にして日本で初めての本格的なサケ缶詰の製造が始まりました

このことを記念して、日本缶詰協会が1987(昭和62)年に10月10日を「缶詰の日」と制定しました。

最初に製造されたサケ缶詰は、未経験者の人達によって作られたため決して満足のできる製品ではなかったにもかかわらず、当時の缶詰の価格は1缶が20銭~35銭で非常に高値だったのと、当初は主に海外向けの輸出用、国内向けには軍需用として生産されたため、明治時代はまだ一般庶民の間では缶詰は普及しませんでした。
本格的に普及するきっかけは、1923年(大正12)年の関東大震災以降で、アメリカから送られた支援物資に缶詰が用いられたことによるものとされています。

その後、大正、昭和を通じて、かに、さけ、ます缶詰の輸出が華やかに行われていたが、1976(昭和51)年から1977(昭和52)年にかけて決定された200海里漁業専管水域の設定により、それら缶詰の輸出は壊滅的な打撃を受け、60年の歴史を閉じることとなりました。

日本での缶詰の消費量は、日本缶詰びん詰レトルト食品協会によれば406万トン(2017年推計)です。レトルトパウチなどの売り上げが伸びており、缶詰の消費量は若干減少傾向にあります


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旧国鉄標津線 泉川駅!

2020年10月09日 | 

北海道野付郡別海町にあった泉川駅は、釧網本線の標茶駅から根室標津駅に至る本線(69.4km)と中標津駅根室本線の厚床駅に至る支線(47.5km)の2つの線からなっていた全線単線非電化の国鉄標津線(116.9km)の信号場として、1944(昭和19)年5月1日に開設しました。
その後、一般駅に昇格し泉川駅となりますが、標津線が国鉄からJR北海道に移行後の1989(平成元)年5月1日で廃止されたことに伴い、廃駅となりました。

一般駅に昇格後は、島式ホーム1面2線と相対式ホーム1面1線の計2面3線を有していて、列車交換も行われていました。 また、この駅からは原木や木炭の搬出がなされていたので、そのための貨物積降線もありましたが、貨物取扱い廃止後は撤去され、さらに駅の無人化後は駅舎側にあった島式ホームの線路も撤去されてしまい、標津線廃止時点で泉川駅は相対式ホーム1面1線を有するのみでした。
1958(昭和33)年11月に竣工した駅舎が構内の南東側(標茶方面に向かって左側)の中標津寄りにあり、各ホームとは構内踏切で連絡していました。

泉川駅が属していた標津線は、根釧原野の開拓に伴う物資や農産物を輸送するためと産業の振興をはかるため、改正鉄道敷設法別表第149号に規定する「根室国厚床付近ヨリ標津ヲ経テ北見国斜里ニ至ル鉄道」の一部並びに第150号「根室国中標津ヨリ釧路国茶ニ至ル鉄道」により建設されましたが、沿線の大部分は原野と農地が占め、この地域で町として成長した地区は中標津など数駅の周辺だけであり、広域的にみれば全国でも有数の人口希薄地域だったので、開業当初から標津線の利用者は限られており、貨物取扱量も1965(昭和40)年をピークに減少に転じました。 そのため、1968(昭和43)年9月1日に国鉄諮問委員会が提出した“赤字83線”の意見書にも名を連ね(当時の営業係数は219)、いくつかの駅を直営駅から業務委託駅に転じさせるなどして経費の圧縮を試みましたが焼け石に水で、年々赤字が増えていきました(1970年の営業係数は405)。 1980(昭和55)年12月27日の国鉄再建法(日本国有鉄道経営再建促進特別措置法)施行による特定地方交通線選定の際には第2次特定地方交通線に選定されますが、営業キロが100km以上もあった長大路線であったため地元の自治体が特別な配慮を求めたことや、沿線道路が未整備だったため、冬季の代替輸送に問題があるなどの理由により一時廃止承認が保留されたものの、その後、運輸省(現・国土交通省)の調査結果を受けて1985(昭和60)年8月2日に追加廃止承認されてしまいます。

そして標津線は、1987(昭和62)年4月1日の国鉄分割民営化により北海道旅客鉄道(JR北海道)に承継された後、1989(平成元)年5月1日に廃止され、これに伴い泉川駅も廃駅となりました。

  <泉川駅の年表>

 ・1944(昭和19)年5月1日:国鉄標津線の信号場として開設
 ・1952(昭和27)年3月25日:信号場から一般駅に昇格し、泉川駅となる
 ・1958(昭和33)年11月19日:駅舎改築
 ・1961(昭和36)年3月31日:貨物取扱い廃止
 ・1984(昭和59)年2月1日:荷物取扱い廃止
 ・1986(昭和61)年11月1日:駅の無人化、交換設備の運用を停止
 ・1987(昭和62)年4月1日:国鉄分割民営化により北海道旅客鉄道(JR北海道)の駅となる
 ・1989(平成元)年5月1日:標津線の廃止に伴って廃駅となる

 
(駅 名 標)

 
(標茶方面を望む)

 
(駅舎・ホーム側)

 
(泉川駅駅舎)


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今日は問屋の日!

2020年10月08日 | 今日は何の日

10月8日は問屋の日です

日本最大の現金卸問屋街として知られる東京都中央区日本橋横山町・馬喰町地域にある「横山町馬喰町新道通り会」が、江戸時代から続く問屋業が時代に合わせて変化をしながら受け継ぎ、流通業の一翼を担っていることを多くの人に知ってもらおうと、2015(平成27)年に10月8日を「問屋の日」に制定しました。

日付は「問屋=とん(10)や(8)」の語呂合わせです

問屋とは、卸売業者のことで、生産者から商品を仕入れて、小売商や購入者に対して販売を行います。
また、商法では、問屋は自己の名をもって他人のために物品の販売又は買い入れをすることを業とする者と定義されており(商法第551条)、問屋の行う売買は他人の計算においてなされます。つまり、問屋は自己の名義で取引を行い取引の相手方に対する権利義務の主体となるが、その取引による損益は委託者に帰属します。
そして問屋の収入は、取次の引受けに対して委託者が支払う手数料です。

問屋という名称については、鎌倉時代に運送、倉庫、委託販売業を兼ね、後には、一般の商品も取り扱うようになった組織問丸(といまる)に由来します。 この問丸が室町時代になって問屋(とひや)と呼ばれるようになり、江戸時代においてこの問屋(とひや)の名称が「とんや」に転じました。 その後、運送専門や卸売専門に業種分化しても、各々が問屋と呼ばれました(干鰯問屋・両種物問屋など)。