大阪市北区で行政書士・海事代理士・マンション管理士を営んでいる原田行政書士法務事務所の駅ブログ

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今日はゼロ戦の日!

2020年07月06日 | 今日は何の日

7月6日はゼロ戦の日です!

旧日本海軍は世界の戦闘機界の日進月歩の発達に遅れないために、1937(昭和12)年にそれまでの主力だった96式艦上戦闘機に代わる新型戦闘機の試作を、三菱重工業と中島飛行機の2社に命じました。

海軍の要求は「重武装と長い航続距離、高速と運動性」という相矛盾する苛酷なものだったため、中島飛行機は設計を辞退し、三菱1社のみの試作となりました。 
東京帝国大学工学部航空学科を卒業して1927(昭和2)年に三菱重工業に入社した設計主務者の堀越二郎は、この新型戦闘機を試作するにあたり、特に機体の重量の軽減と有害抵抗の減少を徹底し、空気抵抗の少ないデザインを追求して、ついに1939(昭和14)年3月16日に試作第1号機が完成し、さらにもう1機も完成しました(試作名称は十二試艦上戦闘機)。

そして1939年の今日(7月6日)、試作機による試験飛行が真木真一大尉(海兵57期)・中野忠二郎少佐(海兵51期)の操縦で行われたのでした。 その後も試験飛行が繰り返され結果は良好だったので、1940(昭和15)年7月24日に海軍に正式採用され、この戦闘機の名称は神武天皇即位の年を元年とする皇紀2600年の下2桁の「00」をとって「零式艦上戦闘機」11型と命名されました。

そして零式艦上戦闘機は、投入された支那事変(太平洋戦争勃発前の日中戦争)から太平洋戦争初期にかけ、2,200 Kmの長大な航続距離・20mm機関砲2門の重武装・優れた運動性能で、米英の戦闘機に対し優勢でしたが、大戦中期以降は、アメリカ陸海軍の対零戦戦法の確立、F4UコルセアやF6Fヘルキャットなど新鋭戦闘機の投入で劣勢となるものの、後継機となるはずだった「烈風」の開発が遅れたことにより終戦まで日本海軍航空隊の主力でした。

零式艦上戦闘機には、11型・21型・22型・32型・52型・52型甲・52型乙・52型丙・63型など発動機や艤装の異なった各型があり、1945(昭和20)年8月の終戦までの間に三菱に加え中島飛行機でもライセンス生産され、総生産数は日本の戦闘機では最多の約10,430機で、その3分の2は中島製でした。


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