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京都ぶらり観光、六角堂・本能寺・矢田寺・蛸薬師・錦八幡宮・錦市場

2017-01-16 17:07:18 | 京都
2017年1月12日、13日の1泊2日の京都ぶらり観光です。烏丸三条から河原町三条、寺町、先斗町、錦市場と時計回りに歩きました。
中京郵便局
「明治35年(1902)に建設されたネオルネサンス様式、赤レンガ造りの美しい外観が特徴です。この通りは京都市から「歴史的界隈景観地区」に指定されています。」



京都文化博物館(旧日本銀行京都支店)
「明治39年(1906)建築、国の重要文化財、煉瓦造二階建、一部地下一階付のもので、石材を混用して壁面に変化をつけています。塔屋をつけるなど、外観には設計者の独特な意匠が見られます。この種遺構としては保存がよく、明治中期の代表的洋風建築です。」



寺町商店街

三条名店街





先斗町歌舞練場

先斗町











ホテルモントレ京都に宿泊し、翌日13日に近くを歩いての散策です。ホテルの前の南側の信号を渡って、東側に歩きます。
六角堂
駒札より「正式名称は紫雲山頂法寺で、天台系の単立寺院。本堂の形が六角形であることから、古くより「六角堂」の通称で知られ、親しまれています。聖徳太子が用明天皇2年(587)に創建したと伝え、本尊如意輪観音像が人々の信仰を集めてきました。華道家元池坊が住職を務め、いけばな発祥の地としても知られています。」
鐘楼



山門



納経所

不動堂



手水舎

本堂









ふれあい仏

白鳥



太子堂







合掌地蔵(中央)

十六羅漢

御幸桜

一言願い地蔵

親鸞堂

親鸞上人

日彰稲荷



祇園社・唐嵜社・天満宮





東に歩いていきます。京都市役所の南にあります本能寺へ。
本能寺
駒札より「法華宗本門流の大本山で、応永22年(1415)、日隆上人によって創建された。当初は本応寺と称していたが、永享5年(1433)、六角大宮に移転した際、本能寺と名を改め、更に天文14年(1545)、油小路蛸薬師一帯に広大な寺域を得て大伽藍を復興した。本寺は、天正10年(1582)、織田信長が明智光秀によって襲撃(本能寺の変)され、自刃したところとして名高いが、その折、三十余りの宿坊は灰燼と帰した。その後、豊臣秀吉の都市計画により、天正17年(1589)、現在の地に移転再建したが、江戸時代後期に天明・元治の大火にかかり、堂宇は悉く焼失し、現在の本堂は昭和3年(1928)に再建されたものである。」

山門



案内図

本堂









信長公廟





島津義久夫人の石塔(一番奥)・菅中納言局庸子の石塔(ニ番目中)・徳川家重夫人の供養塔(一番手前)









寺町商店街へ進みます。南に歩いていきます。



天性寺(てんしょうじ)
map
「曼茶羅山當麻院天性寺といい、浄土寺総本山知恩院の末寺で天正5年(1577)眼誉道三和尚によって創建されました。」
山門





鐘楼

本堂





大和天河弁財天

矢田寺(やたでら)
駒札より「金剛山矢田寺と号する西山浄土宗の寺で、通称、矢田地蔵の名で知られている。寺伝によれば、当寺は、平安時代の初め大和国(奈良県)の矢田寺の別院として五條坊門(下京区)に創建され、以降、寺地を転々とし、天正7年(1579)に現在の地に移されたといわれている。本堂に安置する本尊の地蔵菩薩(矢田地蔵)は高さ約2メートルの立像で、開山の満慶(満米)上人が冥土に行き、そこで出会った生身の地蔵尊の姿を彫らせたものといわれ、俗に代受苦地蔵と呼ばれ、地獄で亡者を救う地蔵として人々の信仰を集めている。また、当寺の梵鐘は、六道珍皇寺の「迎え鐘」に対し、「送り鐘」と呼ばれ、死者の霊を迷わず冥土へ送るために撞く鐘として人々から信仰され、一年を通じて精霊送りには、多くの参拝者で賑う。」











南に歩きます。

寺町通り
『寺町通りは、平安京の東京極大路に当たり、南北を通貫していた。中世には、戦乱によって衰退していたが、天正18年(1590)から始まる豊臣秀吉の京都大改造によって、道路が修復・再生された。主として、洛中に散在していた諸寺院が、この通りの東側に強制的に移転させられたので、「寺町」の名が付けられたが、西側に多くの商店が軒をつらねた。数珠屋・位牌屋・石塔屋・仏師・書店・筆屋・楽器屋・人形屋・紙表具屋・扇屋・白粉屋など、宗教・文具・装飾関係の店があり多くの人々を誘った。』

誓願寺
説明書より「天智天皇6年(667)、天皇の勅願により創建された。本尊の阿弥陀如来坐像は賢問子・芥子国の作であった。もとは奈良にあったが、鎌倉初期に京都の一条小川(現・上京区元誓願寺通小川西入)に移転し、その後、天正19年(1591)に豊臣秀吉の寺町整備に際して現在地に移つされた。その当時は京都有数の巨刹の規模を有し、表門は寺町六角に面し、裏門は三条通に北面し、境内地6500坪には多数の伽藍を有し、18ケ寺の山内寺院を有していた。清少納言、和泉式部、秀吉の側室・松の丸殿が帰依したことにより、女人往生の寺としても名高い。また源信僧都は、当寺にて善財講を修し、一遍上人も念仏賦算を行った。浄土宗元祖の法然上人が興福寺の蔵俊僧都より当寺を譲られて以降、浄土宗になったという。現在、法然上人の高弟・西山上人善恵房證空の流れを汲む浄土宗西山深草派の総本山である。」









扇塚





新京極
「北は三条通から南は四条通に至る約500メートルのこの通りを新京極通といい、通り名は平安京の最も東に整備した東京極大路(現在の寺町通)の東側に新しく造られた通りであることに由来する。天正年間(1573~1592)、豊臣秀吉が市中の多くの寺院を寺町通に集めたことに伴ない、その境内が縁日の舞台として利用され、周辺は見世物や催し物を中心に発展するようになった。」

光明寺、閉ざされています。



宝蔵寺、閉ざされています。









法界寺、閉ざされています。









蛸薬師堂永福寺
駒札より『正しくは浄瑠璃山永福寺といい、本堂に「蛸薬師」と呼ばれる薬師如来の石像を安置している。昔、この寺が二条宝町にあったころ、付近に池があったことから、水上薬師又は澤(たく)薬師と呼ばれ、これが訛って蛸薬師となったといわれている。また、一説には、この寺にいた善光という親孝行な僧侶が、戒律に背いて病気の母のため蛸を買って帰るところを町の人に見とがめられ、箱わ開けるよう求められたとき、薬師如来に「この難をお助けください」と念じたところ、蛸の足が八巻の妙法蓮華経に変わり、南極を逃れたという。その後、母の病気も薬を飲まずに全治し、これは、親孝行の僧侶を守った本尊の霊験であるとして、本尊の薬師如来を蛸薬師というようになったと伝えられている。病気平癒の祈願のために参拝する人々でにぎわった参道を蛸薬師通と呼ばれるようになった。』









錦八幡宮
『当天満宮は平安時代前期の十世紀初頭、学問の神となられた菅原道真公の生家「菅原院」に創建されました。桃山時代天正年間に行われた豊臣秀吉の都市計画によって、時宗四条道場としても有名な「金蓮寺」の敷地に移転。以後400年余、「錦天満宮」として同地に鎮座しております。』























錦市場、ここでお土産を買って帰りました。













お疲れ様でした。

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