旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

富田林寺内町の町並み

2019-01-26 20:59:37 | 大阪
2019年1月23日、散策しました。
『富田林は、大阪の中心地から東南へ約20km、石川流域の平野と金剛山系に連なる南部山地、そして緑の丘陵が広がる西部からなる自然の中の町です。市の中心部にある寺内町は、16世紀に京都興正寺の第16世、証秀上人が河内守護からどの村にも属さない「富田の芝」という荒地を、銭百貫文で買い受け、周辺4カ村の庄屋株、信者など町衆とともに整備してきたもので、町の4カ所に門を置き、自治・自衛を行い、江戸期には周辺地域の流通拠点として栄えた。またその後も行政、商業の中心地として発展し、今に残る町並みの美しさは往時の面影を伝えている。
 富田林村は1890年(明治22年)に町村制で毛人谷村と合併。1897年に富田林町となり、1942年(昭和17年)近隣六カ村と合併、1950年に府下16番目の市となった。市の発足時の人口は約3万人。1994年には約12万人となっている。面積39.71㎢の市域には日本の歴史上きわめて重要な文化遺産が点在するだけでなく、緑豊かな環境を生かした大規模公園、公共施設、文化施設、そして歴史散策のためのルートが整備されており、都市近郊の恵まれたアクセスにより、魅力に満ちたゾーンを形成している。
 寺内町は、東西約400m・南北約350m、600軒の町家のうち250軒ほどが伝統的な町家である。南河内の交易、交流の中心として栄えた寺内町のたたずまいは、城之門筋の江戸・明治・大正の三時代が混然となった町並みが象徴的だ。』
市営駐車場に自動車を止めて、網の目に散策します。まずは西方寺から
西方寺
「浄土宗京都知恩院の末寺で天正山神宮院西方寺。本堂には当寺の本尊である阿弥陀如来坐像が安置されています。この仏像は天和3年(1683)に尾州名古屋の伊藤治郎左衛門から寄進されたもので、像高143センチ、寄木造の堂々とした姿は、藤原時代の様式で鎌倉末期の作像と指定されます。」
山門





イチョウ(富田林市指定保存樹木)、幹周3.6メートル、高さ26メートル

本堂



鐘楼



町並み







旧杉山家住宅(重要文化財)
「杉山家は寺内町の形成された当初から旧家と伝えられ、江戸時代から明治の半ばまで造り酒屋として、河内酒造業の肝煎役を努め最盛期には使用人70人を数得たと言われている。現存する建築は1650年頃に建てられた土間が最も古く、1734年にはほぼ現在の姿が完成した。座敷周りは赤味のある大阪壁、襖絵は狩野派の絵師による豪壮なものであり、南河内の往時の豊かさを伝えるものである。」











寺内町センター

展示品

















石上露子
「本名杉山タカ、明治15年に杉山家に生まれた。[富田林の酒屋の娘、大和・河内にない器量]と俗謡で歌われた明星派の歌人。美人であり、また時代の矛盾に正面から向き合った孤高の人柄は、この地の風土と自由を示す象徴として今も人々の心に生き続けている。」







仲村家住宅(大阪府指定文化財)
「当家は屋号を[佐渡屋]といい、酒造業を営んでいた。代々徳兵衛を名乗り、寺内町八人衆を努めたと伝えられる。正徳5年(1792)に酒造株を取得してからは、造り酒屋として著しい発展を遂げ、天明5年(1785)には江戸市場を大正とした酒造業の理事長にあたる[河内一国江戸積大行司]となった。主屋の建築年代は普請入用帳から天明2~3年(1782~83)であることがわかっており、主屋西側の店部分、南に続く3室の別座敷も同時期のものである。この座敷には文人墨客が数多く訪れ、長州藩士吉田松陰もその内の一人と言われている。」







上野家住宅
「主屋は東面し、桁行8間・梁行5間・身舎梁間4間、居室は6間取りであるが、その裏方には増築部分が付いている。店のとり方は、土間部分の表を全面開放し、下店と店を左右に配してその中央半間の土間によって、後方の土間へ導いている。この建物の建築時期は不明であり、本体にはかなり古い材も残されてはいるが、現況はほとんど幕末期の建て替えであろうと思われる。なお、当家の向かいの仲村家、さらに北西に旧杉山家があり、付近一帯の景観上からも重要な遺構と言えよう。」













道標[町中くわへきせるひなわ火無用]
「この道標は、京都から高野山に通じる東広野街道の道しるべとして建てられたもので、刻字から宝暦元年(1751)11月の建立であることがわかります。室町時代の末期、石川の段丘上に建設された富田林寺内町は、江戸時代を通じ、南河内随一の商業都市として発展し、東高野街道を通って多くの旅人が往き来しました。[くわへきせる]や[ひなわ火]は、当時の旅人が携帯した必需品の一つで、江戸時代の旅の風俗をよく表しています。道標に刻まれた銘文は、町の中での火の用心を呼びかけたものです。寺内町には、わら葺きの民家が密集し、高台ゆえに水の便が悪く、町全体が火事の予防に細心の注意を払ってきました。」











木口家
「古い町絵図によると、この辺りは宝暦3年(1753)の間に区画ができたと思われるが、当家の主屋の遺構は古風な面が多く、18世紀中期の築造と推定される。敷地内には江戸末期の土蔵2棟と明治期の離れ座敷が残っており、かつての繁栄がしのばれる。当家は屋号を[木綿庄]といい、始めは木綿商を営んでいたといわれるが、四代前より瀬戸物商に転じている。」









橋本家









妙慶寺



興正院別院











































葛原家住宅
「葛原家は十津川の元郷士で、天明元年(1781)頃に当地で酒屋を始めたと伝えられている。しかし、現在の母屋が建てられたのはそれより後で、19世紀の初め頃の再建と考えられている。敷地内には主屋のほかに、東方に表玄関をもつ別座敷と土蔵が壺庭を[コ]の字形に囲むように配置されている。接客空間の奥に12畳半の広い書院座敷があり、当時の大商人の実力がしのばれる。」



南葛原家住宅
「当家は北向いにある葛原家の分家であり、現住宅は安政元年(1854)に[三治郎]という人が分家した時に建てられたものである。主屋は敷地の西方に東西に長く建ち、主屋の東に中庭を経て茶室と三階蔵がある。三階蔵の東方に幕末頃までは会所があったことから、会所町の名称もここから由来したと考えられる。」























南奥谷家住宅
「当家は北側に面する奥谷家(岩瀬屋)の分家で、本家6代目の時にこの家を起こした。分家の年代は明らかではないが、明治時代の前半頃と推定される。主屋は桁行6間半、梁間5間半、梁行3室並びの整形六間取り居室である。2階は床棚付2室を設けるなど極度に発展しているが、表側は江戸時代同様の低い2階造となっている。屋根は切妻桟瓦葺で、煙出しは設けず、後方妻壁上部の窓によって煙を抜くようになっている。このように富田林寺内町には当家を初め、各時代を代表する建造物が数多く残されており、それらの変遷をみることによって地域における生活の移り変わりを知ることができる。」































浄谷寺
「当寺は、正式には半偈山三仏院浄谷寺といい、寺内町の一画南会所町にある。融通念仏宗を唱え、大阪市平野区にある総本山大念寺の末寺となっている。弘安9年(1286)済戒真證上人によって毛人谷村に開かれ、天正2年(1574)に当地に移転し、今日に至ったとされている。また、資料には、慶長13年(1608)に[大念仏道場]とあり、寛文6年(1666)に総門徒の寄進により再興された記述が残っている。」



















コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 平野区・町ぐるみが博物館そ... | トップ | 錦織神社 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

大阪」カテゴリの最新記事