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生石(おうしこ)神社・石の宝殿

2023-03-24 17:04:38 | 東播磨
2023年3月22日、お参りしました。
由緒書より「大己貴命と少彦名神が天神の勅命で国土経営のため出雲から当地に立寄りになり、この宝殿山に仮宮を作って御滞在された時、この石宝殿を刻まれた。工事中に天佐久売がやってきて、今麓の里で阿賀神が反乱を起こしていると二神に告げたので、石宝殿作りの工事は中止して今の神爪(神詰で神爪の名称の起りという)に諸神を集めて阿賀神を平定されたが、石宝殿作りの工事は捨てられたので、未完成に終わった。この工事で生じた石屑は一里北の高御位山に捨てられた。高御位の北側に頂上から麓にかけて莫大な石屑が今尚あり、魚の象になっている。この附近には岩を切ったあとかたは全くない。崇神天皇13年に創建されて以来、伊保荘、平津荘の鎮守として崇められ、孝徳天皇は白雉5年千石の土地(現在の生石、神爪、島の土地併せて千石)を寄付されたのでこの三ケ町は墓地をいみ、生石は魚橋、神爪は岸、島は米田に墓地を作り、宮百姓と称していたので大いに栄えていたが、天正年間豊臣秀吉の焼打ちに逢い、土地は没収、鐘楼、釣鐘は分捕りされ、当社の宝物、古文書は焼失し没落した。鐘は陣太鼓代りに使用した後、岐阜県大垣市赤坂町の安楽寺に寄付した(この鐘は大垣市の指定文化財となっている)鐘は播州石宝殿と寄進者の名が入っている。荒井川はもと御手洗川と称し、神々が手を洗われたと伝える。泊は神々が御泊りになったのでとまりの名称が出来たと伝えられ、今日の加古川市泊の名の起りという。」
兵庫県高砂市阿弥陀町生石171
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鳥居

手水舎



石宝殿(国史跡)

由緒書

参道







絵馬殿
「1816(文化13)年以降の建築、高砂市指定文化財の算額のレプリカがかかっており、本物は本社の中央の上にあります。備中井原の佐藤善一郎一門の算額は東播磨では、ここと稲美国安の天満神社の2つしかありません。」

案内図

社標

狛犬



詰所
「階段の上の詰所は江戸時代の末期に建てられたものです。」

参集殿・案内所

山上公園登口









頂上、大正天皇行幸之跡碑

本社(拝殿)
「現在の本社は1844(天保15)年に棟上げ再建されたもの。右側に少毘古那を、左側に大穴牟遅の2神が祀られています。このような造りを『割り拝殿』といいます。」









霊岩
「下の面が座りキズで切れていることが明確で、これを根拠に浮石製作にかかったと推察される。」

末社

石灯籠
「島村の石工さん達が精魂込めて造った灯籠です。一説には播磨灘を照らす灯台の役目も担っていたとも言われています。竜山石でつくられた丸竿形の灯籠で、中台と竿のみ元の部材です。明暦元年銘があります。」

浮石(国史跡)
「465トンもある巨大な石造物、幅6.47m、多可さ5.68m、奥行き5.58mの直方体に屋根形の突起部がつきます。えぐり込まれた底面に水がたまり、浮かんでいるように見えることから『浮き石とも呼ばれています。奈良時代に編纂された、我が国最古の地誌『播磨風土記』に物部の守屋が造らせたと書かれていましたが、それ以外は全く謎につつまれた石。日本国内で類をみない特異な構造物で、江戸時代以降、制作目的や年代等について諸説出されてきましたが、古代以前の採石・加工技術を今に伝える貴重な遺構です。浮石の下は水平方向に割れており、東側に溝を深く掘り立てようとしていた様です。」









神輿蔵

御旅所

竜山1号墳
「石棺とその蓋がむき出しで見られます。採石場を纏めていた首長の墓とも言われていますが詳しくは不明です。」

能舞台

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