2023年11月18日、銀座クレストンに宿泊し、回りをぶらり散策しました。
築地外国人居留地跡の碑
東京都中央区明石町5-26
安政5年(1858)6月、江戸幕府はアメリカと修好通商条約・貿易章程に調印し、これを原型として同年にオランダ・ロシア・イギリス・フランスともそれぞれ締結しました(安政5カ国条約)。この条約にに基づき、箱館(函館)・神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)の5港を開港し、江戸・大坂(大阪)の開市を取り決めました。日本における外国人居留地は、条約締結国の外国人の居住や通商のための専用特別区として開港場・開市場の土地に設けられました。
江戸の開市は、明治元年11月19日、明治新政府のもとで実現し、現在の明石町地区に築地外国人居留地が設定されました。
築地外国人居留地は、商館の多かった横浜や神戸などとは異なり、外国公使館や領事館をはじめ、海外からの宣教師・医師・教師などの知識人が居住し、教会や学校などを数多く開いて教育を行っていました。
聖路加国際大学
佃島砲台跡
「江戸時代末期、佃島の南に位置するこの場所には、外国船の渡来に対処するための海防施設『砲台』が築かれました。江戸防衛・海防策の一環で砲台が築造されたのは、1853(嘉永6)年6月にアメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀に来航し、日本の開国・貿易港の開港などを求めた出来事が契機でした。ペリー来航から2カ月後の同年8月、幕府は非常事態に備えて品川沖に江戸防衛用の台場(砲台)築造を始め、翌年11月までの短期間に『第1~第3・第5・第6・御殿山下』の6基()品川台場)を完成させました。佃島の南に砲台が築かれたのは、品川台場の築造から役10年後の1864(元治元)年のことでした。砲台新設の景気となったのは、1863(文久3)年に勃発した薩英戦争や元治元年の4国(英・米・仏・蘭)連合艦隊による下関砲撃事件などの出来事でした。幕府は、より強固な江戸湾防備体制を敷くため、品川から越中島までの間に新たに海岸砲台の設置を計画し、佃島砲台もその一つとして築造されました。」
東京都中央区月島1丁目1-8
石川島灯台
「石川島灯台」は、江戸時代において軽罪人や無宿人たちを収容し、職業訓練などを行った自立更正施設「人足 寄場(にんそくよせば)」が所在した石川島の南西部の川端にあった。元の灯台は隅田川の河口や 品川沖を航行する船のための常夜灯であり、1866(慶応2)年に時の人足寄場奉行・清水純崎が油搾りの益金を割いて 寄場人足の手で築かせた。「最も喜んだのは近在漁師」とある。
東京都中央区佃1丁目11-4
アメリカ公使館跡
開港によって日本に駐在した初代アメリカ公使ハリスは、1859(安政6)年に現在の港区元麻布1-6の善福寺に公使館を開設しました。ついで1874(明治7)年、築地居留地内の此の地に公館を新築し、初めて掲揚を整えました。後にこれが手狭となり、1890(明治23)年、赤坂の現在地(アメリカ大使館)に移転しました。
東京都中央区明石町8
佃島渡船場跡(中央区民文化財)
「佃島は隅田川河口にできた自然の寄洲でした。江戸幕府初代徳川家康の時、摂津国佃村(大阪市西淀川区)の漁民を招いて住まわせたところと伝承されています。この島と対岸の船松町(佃大橋西詰付近)との間に1645(正保2)年に通ったのが佃の渡しです。1876(明治9)年には、渡し銭一人5厘の掲示札の下付を願い出て許可され、1926(大正15)年東京市の運営に移り、翌年昭和2年3月に無賃の曵船渡船となりました。」
東京都中央区湊3丁目18-13
築地外国人居留地跡の碑
東京都中央区明石町5-26
安政5年(1858)6月、江戸幕府はアメリカと修好通商条約・貿易章程に調印し、これを原型として同年にオランダ・ロシア・イギリス・フランスともそれぞれ締結しました(安政5カ国条約)。この条約にに基づき、箱館(函館)・神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)の5港を開港し、江戸・大坂(大阪)の開市を取り決めました。日本における外国人居留地は、条約締結国の外国人の居住や通商のための専用特別区として開港場・開市場の土地に設けられました。
江戸の開市は、明治元年11月19日、明治新政府のもとで実現し、現在の明石町地区に築地外国人居留地が設定されました。
築地外国人居留地は、商館の多かった横浜や神戸などとは異なり、外国公使館や領事館をはじめ、海外からの宣教師・医師・教師などの知識人が居住し、教会や学校などを数多く開いて教育を行っていました。
聖路加国際大学
佃島砲台跡
「江戸時代末期、佃島の南に位置するこの場所には、外国船の渡来に対処するための海防施設『砲台』が築かれました。江戸防衛・海防策の一環で砲台が築造されたのは、1853(嘉永6)年6月にアメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀に来航し、日本の開国・貿易港の開港などを求めた出来事が契機でした。ペリー来航から2カ月後の同年8月、幕府は非常事態に備えて品川沖に江戸防衛用の台場(砲台)築造を始め、翌年11月までの短期間に『第1~第3・第5・第6・御殿山下』の6基()品川台場)を完成させました。佃島の南に砲台が築かれたのは、品川台場の築造から役10年後の1864(元治元)年のことでした。砲台新設の景気となったのは、1863(文久3)年に勃発した薩英戦争や元治元年の4国(英・米・仏・蘭)連合艦隊による下関砲撃事件などの出来事でした。幕府は、より強固な江戸湾防備体制を敷くため、品川から越中島までの間に新たに海岸砲台の設置を計画し、佃島砲台もその一つとして築造されました。」
東京都中央区月島1丁目1-8
石川島灯台
「石川島灯台」は、江戸時代において軽罪人や無宿人たちを収容し、職業訓練などを行った自立更正施設「人足 寄場(にんそくよせば)」が所在した石川島の南西部の川端にあった。元の灯台は隅田川の河口や 品川沖を航行する船のための常夜灯であり、1866(慶応2)年に時の人足寄場奉行・清水純崎が油搾りの益金を割いて 寄場人足の手で築かせた。「最も喜んだのは近在漁師」とある。
東京都中央区佃1丁目11-4
アメリカ公使館跡
開港によって日本に駐在した初代アメリカ公使ハリスは、1859(安政6)年に現在の港区元麻布1-6の善福寺に公使館を開設しました。ついで1874(明治7)年、築地居留地内の此の地に公館を新築し、初めて掲揚を整えました。後にこれが手狭となり、1890(明治23)年、赤坂の現在地(アメリカ大使館)に移転しました。
東京都中央区明石町8
佃島渡船場跡(中央区民文化財)
「佃島は隅田川河口にできた自然の寄洲でした。江戸幕府初代徳川家康の時、摂津国佃村(大阪市西淀川区)の漁民を招いて住まわせたところと伝承されています。この島と対岸の船松町(佃大橋西詰付近)との間に1645(正保2)年に通ったのが佃の渡しです。1876(明治9)年には、渡し銭一人5厘の掲示札の下付を願い出て許可され、1926(大正15)年東京市の運営に移り、翌年昭和2年3月に無賃の曵船渡船となりました。」
東京都中央区湊3丁目18-13
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