日時 平成21年7月11日(土)
場所 大阪厚生年金会館
講師 増田明美 スポーツジャーナリスト
講演テーマ
【自分という人生の長距離ランナー】
プロフィール
1964年、千葉県生まれ。
私立成田高校在学中、長距離種目で次々
に日本記録を樹立する。
1982年にマラソンで日本新記録を作り、
1984年ロス五輪に出場。1992年引退するま
での13年間に日本最高記録12回、世界最高
記録2回更新という記録を残す。
現在はスポーツジャーナリストとして執筆活
道、マラソン中継の開設に携わるほか、講演
イベント、TV・ラジオ番組の出演など活躍中。
2007年7月には初の小説【カゼヲキル】を発表。
その他
大阪芸術大学教授、文部科学省中央教育
審議会委員、厚生労働省健康大使、
笹川スポーツ財団理事
講演の概要
先日、ロサンゼルスオリンピツクに日本代表と
して一緒にに出場しました佐々木七恵さんが、
53歳で亡くなられました。七恵さんとは10年ぐら
い会ってなかつたんです。昨年の秋に東京国際
女子マラソンが30年の歴史に幕を下ろすことを
記念してシンポジウムがあり、第1回から参加
し、優勝経験もある七恵さんがパネリストとして
出席されて、久しぶりにお会いしました。
その時に【七恵さん、今だから話せるんだけど
も、ロス五輪の時には、途中棄権したこともショ
ックでしたが、それ以上に七恵さんに抜かれた
ことがジョツクでした。】とお話をしたんです。
私の肩をポンポン叩きながらケラケラ笑われて
【増田さん、あなたと私は戦友だからね。これ
から仲良くしましょう】と言ってくださいました。
これから沢山お話して良い関係を作っていける
と思っていましたから、余計に悲しくて・・・
心より冥福をお祈りしたいと思います。
昨年は北京オリンピツクがありました。期待さ
れていた野口みずきさんがレースの前に脚を
故障して無念の欠場でした。彼女には座右の
銘としている言葉があるんです。それは【走っ
た距離は裏切らない】。酸素の薄い高地で一日
平均45キロ。それだけやつているから、自信を
持つて今までスタートラインに立っていたんです。
北京でラジオで解説していましたが、帰国して
すぐに【早く怪我を治して頑張ってね。】と手紙
を書きました。すぐに返事がきて【私はオリンピ
ツクを連覇する人間としての資格がありません。
もつと心を磨きます。もうロンドンオリンピツク
が始まっていますから】という内容でした。
野口さんは感謝の強い人なんです。スタート
ラインに立てなかったことについて何の言い訳
もせずに、よくこういう気持ちでいられるなと
感心しました。
私は1984年のロス五輪にでましたが、暑いから
暑さ対策をしましょうと、宮古島などで合宿を
したんです。オリンピツクが近ずくと疲労が
溜まり、走れなくなってしまつて、不安を抱え
ながらスタートラインに立ったのです。16キロ
地点で棄権しました。帰国してから文句ばかり
言っていました。自分かわいさで、責任を転嫁
した経験がありました。だから野口さんの謙虚
な姿勢からマラソンに必要な人間力というもの
を教えられました。
私は高校時代から長距離種目の日本記録を
次々と塗り替えました。競技人生を振り返って
みると、上り調子で行った時よりも、オリンピ
ツクでどん底を味わった後の方で成長できた
と思います。帰国してから落ち込んで3ヶ月間
会社の寮に閉じこもりました。
全国の方から手紙をもらいました。【マラソン
も長いけれど、人生の方がもっと長いから
くよくよせずに頑張れ】、【明るさ求めて暗さ
見ず】と一言だけが書かれたハガキをもらつた
り、人って有難いと思いました。
ロス五輪後、4年後に大阪女子マラソンに出場
しました。ビリでもゴールまで行こうとスタート
ラインに立ちました。大阪城公園の27キロ地点
沿道の人から【増田、お前の時代が終わった
んや!】その瞬間に脚が止まりました。100m
ほど歩きました。【一緒に走ろうよ】と言ってく
れる人もいました。歩きながら気持ちを切り替
えて何とか走り始めました。ゴール2キロ手前
の長居公園に帰ってきた時には涙が止まり
ませんでした。
4年ぶりにマラソンの完走があったから私は
今、元気に生きているのかもしれません。
感想
途中棄権というどん底を味わってこれからの
人生にプラス思考で立ち直ったというお話
は感動しました。
テレビやラジオと同じでソフトな話ぶりは、
以前マラソンをしていた私にとって親近感
を持ちました。最後に自分が歌手の都はるみ
に似ているからと【さようなら元気でね・・・】
と物真似して退席されました。