大阪水曜ほっと集談会一世です。
時々理由なくブログをサボってしまう体たらくな私です。
さてこの夏、MLBの大谷翔平選手からたくさんの元気を頂きました。
個人の大記録もさることながらチームが勝つために自分が何をすべきか、
いつも考えている大谷選手の野球に対する純なる心に感動をいただいたと思っています。
反対に先日コンビニで買い物をしたところ、ずいぶん嫌な思いをしました。
持ちつ持たれつと言う言葉は死語かもしれないと考えさせられる出来事でした。
ある若者の店員に商品について聞いたところ聞こえないふりをして無言です。
余計なことは省いて、商品を渡すことが仕事という感覚でしょうか?
何もかもセルフサービスで商品を渡せばもう自分には関係ないという態度にあきれてしまいました。
それは自分の仕事ではないと平気でいう若い人たちが増えているそうです。
そこには、自分が助けてもらうこともあり得るという想像力が欠けていると指摘をされる人もあります。
神経質者と呼ばれる人たちは常に自分がどう思われるかを気にしている人たちです。
そして自分が悪かったのではないかと反省する能力のある人たちです。
行き過ぎた自己内省は苦しみをもたらしますが、それではそのような葛藤がない若者は本当に問題がないのでしょうか?
私には理解が及びません。
人のために自分が役に立っている、そのような喜びを体験することなく個人の欲望を満たすことのみに突っ走っていく若者たちの未来にふと虚無的なものを感じてしまうのです。
私は神経質のとらわれといわれる症状はある意味で効率的に生き過ぎたことへの警告だと思っています。
理知に偏りすぎている神経質者が、周囲を見渡したり気分はどうであれ相手への思いやリの行動が身についたときにそこにはやりがいや、生きている実感が感じられるでしょう!
自己肯定感などと理屈を言わなくても自然と生きている喜びが湧いてくると感じます。
※今日の森田博士の言葉
私がいつもいう純なる心から出発することによって、
そこに本当の人間味が現われてくるのであります。
宗教的あるいは道徳的な理屈は少しもいりません。
2024.10.1 一世