「大阪水曜ほっと集談会」公式ブログ

9月17日(火)20時~・9月18日14時~(ZOOM)にてリモート集談会を開催します

志(こころざし)

2018年12月12日 20時18分04秒 | コラム 

大阪水曜夜間集談会に、昼間部が出来て3年が過ぎた。

構想に1年、準備に1年、軌道に乗るのに3年都合5年かかった。

3周年記念集談会も盛況に終えた。

順調に、参加者が増えイベントも企画し将来が、楽しみであった。

しかしながら、詳細は、省くが、ここに来て大きなピンチに陥った。

この集談会を必要とする方が1人でもある限り、必ず続けると覚悟を決めた。

そんな時に、12月の発見誌のある記事に目が釘付けになった。

私が、10代のころに感銘を受けた水谷啓二先生の文章であった。

改めて紹介したい。



私(水谷 啓二)は、「人生は、ラセン型に動く」と言っています。

けっして、直線的に動くものではなく、動けるものでもありません。

好調だけの、一本調子を維持してゆこうとしても、そんなことは許されません。

また調子が悪いからと、職業を辞めたり、学校を休んだりしますと、それこそ

悪循環に陥り、後退する方向へとラセン型をたどりながらどんどん行ってしまいます。

それとは、正反対に、調子のよしあしを問題とせずに、真面目に職業生活や学生生活を、

つづけていますと、進歩し、向上し発展する方向へのラセン型の良循環過程をたどることになります。


人間も、組織も同じかもしれない。

答えは身近にあった。

灯台下暗し、改めて覚悟を決めた。

森田に感謝!



2018.12.12 一世

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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河野 基樹先生の事

2018年12月10日 23時08分36秒 | コラム 


「つらい日があって生きている気がする」


私が敬愛する元生活の発見会の顧問で専門医でもあられた、

河野 基樹先生の句である。

先生が、天国に召されて22年になる。

先生との思い出は、私の青春と重なる。

20代のころにはわからなかった、河野先生の川柳が、心に沁みる。

50代でのがん闘病、その日常の機微を川柳に詠まれながら、

最後まで医師としての仕事を貫かれた。

最近河野先生の事を考えることが多くなった。

私自身が、先生が亡くなられた年齢に近づいたこともある。

何もご恩返しをすることもなく逝かれた先生への後悔の念もある。

あの頃の先生との何気ない会話を時折思い出す。

「先生、すべては、最後は祈りかもしれませんね」

20代の若造の思い付きの言葉にある日先生が、

良い句が出来たよありがとうと言われた。

 「陽は西に生老病死みな祈り」

残されていた講話集の中で、一番気に入っている句だと書かれていた。

もしタイムマシーンがあるとすれば20代の自分に戻って、

 あの頃と同じように先生の川柳の話を聴きながら集談会の仲間と、飲みたい。

そして、そしてもう一度先生に、心から「ありがとうございました」と言いたい。

 



2018.12.10 一世


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シクラメンに寄せて

2018年12月10日 22時26分07秒 | コラム 

たった一人の弟が亡くなって、もうすぐ1年になる。

悲しみは、薄れるどころか、より深くなるばかりである。

何度も何度も、弟に電話やメールをしたい衝動に駆られた。

6月には、弟の勤務していた東京本社にも行った。

奇遇にも、発見会の本部のすぐ近くであった。

何事も無かったかのように、人々が巨大なビルに吸い込まれていく。

自分の事ばかりで、何もしてやることが出来なかった無力感に苛まれる。

それですら、私の思い上がりで傲慢だと思う。

森田の感情の法則には、

「感情は、人間の内なる自然現象であって、意志でコントロールできない」とある。

どんなに抗っても、抗っても否定できない現実がある。

どんなに努力しても叶えられない夢がある。

二人で相談していた、父母の喜寿の祝いは、今も叶えられていない。

弟が生前、私の弟であると思っていた。

最近ふと、思うことがある。

彼は、出来の悪い兄である私の弟を演じてくれていたのでは、ないか。

生きていると、辛いことや哀しいことがある。

そんな時、心の中で弟に語りかけている自分がある。

私の、弟に生まれてくれてありがとう。

もう一度弟に会いたい。



2018.12.10 一世


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森田の言葉

2018年12月05日 20時40分34秒 | 集談会日記
苦悩の年月も無駄ではない。


今日、患者が、のこぎりで木を切っているところを見たが、ここの患者は、のこぎりの種類を選ばないうえに、いくらのこぎりが切れなくとも、平気でひいている。
のこぎりの切れ味などは全く無頓着である。職人は、道具を大事にして、常にこれを研いでいる。素人は、その研ぐ時間で、少しでも、木をひいた方が、その時間に、よけいに能率があがると思っている。それは大きな思い違いである。先日も材木屋で、木挽(こび)きを見たが、のこぎりの目立てを、1日3回ばかりもやり、1回に40分ぐらいもかかるということである。素人が考えて、むだな時間が、実は最も大切な時間であるのである。日高君のいう強迫観念の苦悩の年月も、実は心身の試練・目立て・研ぎ方の最も大切な事柄であるのである。
(「森田正馬全集」第5巻 251頁)
 
 
 
 
 
 
 
 

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森田の言葉

2018年12月05日 20時15分31秒 | 集談会日記

心の事実をありのままに認める.

 

私はそれがいいか、わるいかを問題にしているのではありません。

私はただ、自分の心の事実をいっているのです。 自分の心の事実をありのままに認め、ありのままに白状するだけです。わたしは倫理学者ではありません。

私はただ、事実を正しく観察し、研究する科学者でありたいと念じている者です。

(中略) 私どもは、何もムリに善人になろうとしなくともよいのです。

ただ、事実のあるがままを認め、自然に服従し、境遇に従順でありさえすればいいのであって、努力をするのも、ズボラをするのも、それ相応の応報をうける覚悟でおりさえすればよいのです。

人に不機嫌な態度をもって接すれば当然人から嫌われ、人に親切の押し売りをすれば後に怨まれることになり、ズボラをすれば一生ウダツがあがりません。

そういう当然の応報を男らしくわが身に受ける覚悟であり、ズボラでありながら成功したいなど虫のよい考えやごまかしがなくなれば、その人は勇者であり、善人であるといえるのです。

(自覚と悟りへの道、142頁)
 
 
 
 
 
 
 
 

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