華麗なる腑抜けの世界

倦怠感溢れる日々を称揚しつつ

遊就館に行ってきた

2006-07-15 20:55:55 | 日記
 遊就館。靖国神社の脇にある戦争博物館である。戦争美化、戦争称揚などとは無縁の、健全な博物館である。外交史、戦争史の教科書として、最良の博物館では無いだろうか。なぜなら客観性が認められるからである。余計な思想的なバイアスが無く、事実を忠実に記述することに徹している。もちろん卑屈な歴史観や、屈折した平和論も排されている。
 レプリカも多少含まれるが、展示されているものは基本的に「本物」である。錆び付いた大砲、いかにも良く切れそうな刀剣の不吉な美しさ、部分的に激しく裂けた軍服、変形したヘルメット、よく残っていたなと感じられる歯ブラシの柄等々。もうこの世にいない人たちが、実際に触れたものである。百万の言葉を尽くすより、雄弁に歴史を物語っているではないか。
 しかし、最も心撃たれたのは、靖国の御霊となった人々の遺影である。タイルのように、無数の顔写真が壁いっぱいに並べられているスペースがあったのだ。中には歴史の教科書に載っているおなじみの顔もあるが(坂本龍馬や久坂玄瑞)、大半は無位無官の人々であった。戦死者の中には、顔にあどけなさを残した者や少女の姿もあった。これを見るかぎり、遊就館は決して戦争賛美の施設でない。そう断言できる。戦争で亡くなった人たちの無数のまなざしの方が、リアリティーを欠いたサヨク(左翼は左翼でもどこかズレている左翼)の平和メッセージよりはるかに説得力がある。
 大砲を飾ってあるだけで戦争賛美。どうしたらそういう風に考えることが出来るのだろう。
     
 館を離れ、靖国神社に参拝し、境内でみくじを引いた。吉。二宮尊徳の言葉があった。「今日用いるところの材木は、すなわち前人の植うるところ、然らば、なんぞ後人のためにこれを植えざるをえん」(原文は正かな)。解説に曰く、「いまわれわれが使っている材木は、われわれ自身が植えたものではない。また、われわれの植える木は、必ずしもわれわれ自身が使うものではない。それが、歴史と倫理との中で生きている人間というものの姿なのだ。われわれは、この数十年のいのちを、直接には言葉をかわしたことのない祖先たちの恩恵の中で生きる。そのことを自覚し、感謝するならば、われわれもまた、直接相会うことのない子孫たちのために、懸命に、しなければならぬことをしておかなければならぬ」と。
 私たちは、死者と未生の他者にたいする責任を負うているのである。
 そしてみくじに曰く。待ち人。来ることおそし。ショック。