はぐれの雑記帳

極めて個人的な日めくり雑記帳・ボケ防止用ブログです

父の死

2016年04月27日 | 短歌

父の死 (1989)

四国の旅より帰り、九月に入ると、父は墓参りに行きたいと言い出した。私の都合が中々つかないために、墓参りは十月にすることにした。しかし、十月になって水戸に行く段になって、ホームから父の具合が悪いと連絡があった。すぐに妻とホームに行くと、風邪気味だと言う。また、四国から帰って来て以来、急に衰弱してきたように見えるとのことであった。墓参りは取り合えず私と妻と行くことにした。父は行きたがったが、大事をとることにした。毎週のようにホームには様子を見に行った。
しかし、十一月に入って間もなく、父が吐いたので、病室に収容したとの連絡を受けた。病院に入院することの打合せもした。
十五日、ホームより家に病院に入院させるとの連絡があった。出勤する前であったので、入院する病院に直接行くことにした。

この入院後、一週間後に癌であると宣告された。癌には一年前の九月頃からかかっていたと、先生は言われた。食事が美味しくないと言って、食べなくなった頃からのようだ。ホームに移ってから半年後のことであったのだ。
六十二年の三月にホームに移った。六十三年の正月、父は高萩の叔父に宛てた年賀状に

        新年やめでためでたの多摩の里   (昇)

と詠んでいる。父にとっては秋川のホームは悪いところではなかった。
入院して以来、週に二回は父を見舞った。十二月にはいってからは、衰弱の度合が進行した。医者は以外とその時期が早いかもしれぬと、私に伝えた。
正月を家に帰って過ごしたいと願ったが、無理とわかってからか、死を悟ったみたいであった。大晦日店の応援をすませてから父の病室を見舞った。元旦には、家族で見舞ったが、その後一週間見舞えずにいた。
一週間ぶりに、見舞った時、父は「なかなか死なないな」と言った。その言葉のように、父はすっかり痩せ衰え、話すこともなく、私の言うことに反応を示すだけで、言葉も弱々しかった。急に容体が悪化していることがわかった。十六日、親戚の皆が見舞ってくれた。しかし、それが最後のお別れとなった。
十六日その日は、販売部の新年会を伊香保でやることになっており、私も招かれて午後七時過ぎ会場のホテルに着くと父が危篤状態だという知らせを受けた。高速道路は渋滞していたので、八王子まで一般道路を行くことにし、途中妻に連絡をし、病院に向かうように指示した。私は十一時過ぎ病院に着いた。妻は三十分ほど遅れて病院についた。父の容体は、とりあえず小康状態を保っていた。その夜は、病院で一夜をすごしたが、夜一旦家に帰ることにした。十八日の朝、危ないからとの連絡を受け、午前九時病院に着いた。もうほとんど口をきくこともない。かすかに反応するだけであった。目を開いたままで苦しそうな状態であった。

冬の朝の陽射しがベッドを囲むカーテンから透けて父の痩せ衰えた顔を照らしている。かすかに口を開けて、苦しそうに息をしている。私は傍らに座り、父のその顔を見つめながら、「もうすぐ裕子が来るから、(がんばって)という言葉を飲み込んだ。」

父の苦しそうな顔を見て、私は父の耳に口を当てて、「とうさん、ありがとう、よく頑張ったよ。とうさん、ありがとう、ほんとうにありがとう。ぉれ頑張るから心配しなくていいよ。あなたに育てられて幸運だった。ほんとうにありがとう。父さん偉いよ、立派だよ、よく頑張ったよ。もういいよ。」と痩せて骨のようになった冷たい手をにぎって泣いた。裕子を待つよりも親父を楽にさせたかった。耳元で周囲には聞こえないようにささやくように私は言った。そう言いたかったのだ。

 それからほんとうに間もなくして、父の顔が穏やかな顔になり、旅立ったのだ。私は泣いた。冬の柔らかな日差しに包まれて、父の手を握ったまましばらく泣いた。泣かずにはいられなかった。この人に育ててもらわなければ、私はどんな道を歩くことになったかと思うと、涙が止まらなかった。母の時も病院の安置所で、母に寄り添って一晩泣いて泣いて過ごした。母には謝り続けた。癌と聞きそびれていたからだ。気づいて丸山ワクチンをもらいに東京女子大病院まで行ったりもしたが、手遅れだった。あの時は悔やんで自分を責めて泣いた。

今は父が居なくなると言う、その切なさに泣いた。どうしても父に伝えたかった感謝の言葉、私の言葉が父に届いたのだろう、父の安らかな顔は、それまでとは違うきれいな顔だった。それからどれほどの時間、父と二人だけの静寂の時間を過ごしただろうか。

平成元年一月十八日、午前十一時四十五分父は眠るように、今まで開いていた目を閉じた。七十九歳。誕生日を1週間後に向える日であった。

        両の手を我に託して父逝けばありがとうありがとうと囁きぬ
        短日のひざしや淡く父の死に顔
        病室に父をみとりぬ冬ひざし

裕子は少しの差で、会うことができなかった。村山のお母さんも来てくれた。葬儀は八王子の梅洞寺で取り行うことにした。十八日は仮通夜とし、十九日に通夜、二十日告別式とした。梅洞寺は禅宗の寺で、葬儀屋が宗派を聞き違えて手配してしまったことが、後になってわかった。しかし、八王子では由緒のある寺で、鐘楼も立派である。その寺の離の庵を借りた。仮通夜は、私達夫婦とほたかとあずさの四人だけで父を見守った。小雨。こんなに静かな夜はなかった。何年ぶりかで得たおだやかな時間であった。

        子と孫が父を偲ぶや火燵かな
        白菊の白さも白し夜寒かな

翌日は通夜の為、その準備に何とはなしに忙しかったが、夕刻より、三々五々親族が集まり、午後六時より通夜の法要を営んだ。村山のお母さんだけが残ってくれて、十時頃には、五人だけになった。雨。

        線香や氷雨の寺の通夜の鐘
        灯明の明かりほのかに通夜の雨

住職の心づかいがとても嬉しく思え、よい寺で法要ができることを喜んだ。大森ではこうは行くまいと思われた。

        住職の心やさしき寺にいて安らぎのうち旅にたたれよ
        祭壇の花に微笑む父の顔

二十日告別式。会社の方も見えて、それなりの葬儀になった。福島の内山さんが見えた時には、本当にびっくりしたが、とても嬉しかった。

        お経詠むお坊の声のやさしくて父の遺影ををじっと見つめ入る
        白菊や永久の別れに石もてり子には見せらぬ涙なるかな
        お父さんありがとうね偉かったよ頑張るからねとさようならを言う

一時過ぎ八王子の火葬場にて火葬する。

        さよならの言葉も言えず泣きおりて火入れの時や孫近寄らず
        我を愛し我を育てしその人の骨をひろいぬ骨をひろいぬ
        逝き去りて子の不孝をば想い入る壺に納まる父を抱きしめ

        西方の浄土の空に手を合わせ迎え賜えや南無阿弥陀仏

梅洞寺にて、お清めをすまし、夕刻家に帰り着く。父にとっては一年半ぶりの帰宅である。

        冬暮れて帰りましたよと壺を置き

葬儀の済んだ翌日から、妻は疲労のため数日寝込んでしまった。私は整理に追われ、一週間があっと言う間にすぎ、翌週の月曜日から出社した。
父の四十九日の法要は三月五日とすることにした。三月五日日曜日、雨。肌寒い。納骨。

        雨ふりて寒さもつのる墓地の道
        梅の寺ふるさとの土に父かえる
        父母を刻みし墓誌に氷雨かな
        人の世は仮の旅路か父母はいま黄泉の客となるかな

三月二十一日、板橋の栄子さんとともに水戸へ、初彼岸の墓参りをする。晴。幹夫さんの墓にも参る。赤門の寺の裏道には、畠の脇にかわいいすみれ草が咲いている。芭蕉の句をそのまま頂いて一句。

        墓参り何やらゆかしすみれ草

お彼岸なので、さすがに墓参りが多い。どの墓にも花と線香が手向けてあった。いいことだと思い、嬉しくなった。
        そこかしこお彼岸花のにぎわいて
        妻ときて花酒手向ける初彼岸
        父上よ酒召し上がれ墓につぎ
        線香を手向けるだけか墓参り

翌日三月二十二日、長崎の一ノ瀬さんが上京されて、家に寄られ線香を上げて下さった。父と同い年であるがとても元気で、今回は老人会の旅行で、昭和天皇の御陵への参拝に来られた途中であった。
        いくさち
        戦地で生死過ごせし仲なれば仏となりし友に語りぬ
        戦争の中に送りし青春は半世紀もの彼方になりぬ

父の青春はまさに戦争と切り離せない。昭和とともに自分の人生を終えたのであった。
                                  平成元年四月記(1889年)



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。