はぐれの雑記帳

極めて個人的な日めくり雑記帳・ボケ防止用ブログです

北アルプス大縦走の旅 3

2021年04月29日 | 山靴の歌

8月10日 薬師岳肩の小屋へ(二日目)

8月10日5:20五色山荘6:00-05とび山7:35-45越中沢岳8:25-40休息9:05-10スゴの頭9:43-48スゴ乗越10:30-11:10スゴの小屋12:22-25間山14:30北薬師岳15:55-16:05薬師岳16:55山頂小屋

五色ヶ原山荘を5時20分に出発する。天気は曇りである。いつまでもつかわからない天気だ。ぼやっとした道を歩かねばならない。鳶山への道を登る途中から五色ヶ原と背景の竜王などの山を入れた構図でカメラのシャッターをきったが、光のない原の色はあざやかではない。鳶山に40分ほどで着くがガスにかこまれだした。

霧雲(ガス)かかる五色ケ原は色もなし靄なす道に迷い込むかも

予報では晴れであったが、期待薄だ。ここから越中沢岳まで1時間半の道のりであったが、はっきりと展望はなし。こまめなアップダウンが続いていい加減いやになる。嫌になった理由はほかにもある。道の歩きづらさだ。大小の岩の道であったことだ。
この越中沢岳の上り下りの繰り返しは、視界のない中、手探りで歩くようで疲れた。このコースを歩く人は少ない。雨が落ちてこないのが救いだった。越中沢岳に7時35分に到着。

晴れることねがって早く小屋でるいやな予感の靄の道

不揃いの岩の道をば霧雲(ガス)覆う見えざる先に不安と歩く

目の前の岩を繋いだ道をいく得体の知れない越中澤岳

小さな道標が山頂であることを示す。先行していた人とであぃ、写真のシャッターを押してもらう。

「すごい道ですね~」と思わず悲鳴を上げると、

そうですね。天気悪いし」と合わせてくれる。でもこの先、この人には老いつことが無かった。ここで10分休憩してスゴの頭に向かう。天気さえよければ印象も違うのだろうに。
越中沢岳の山頂からスゴの頭までのアップダウンもかなりきつい。ガイドブックにもざらざらした砂礫地とゴロゴロした岩道を何度も上り下りすると書かれている。たしかにそういう印象であった。スゴの頭とあるけれど、ピークを踏むことなく西側を巻いてスゴ乗越に至る。この下りもしんどいものであったが、この時から天気が次第に明るくなってきて、乗越に着いた時は9時43分で、ここで5分休んだ。

スゴの道霧雲(ガス)うすれゆき乗越に至れば赤い小屋の屋根見る

ここからスゴ乗越小屋の赤い屋根が見えた。
小屋へは登り返さないといけない。小屋は近いと思えたけれど、乗越から40分は歩かされた。10時30分に樹林帯の中にある小屋についた。
小屋の前にベランダがあり、テーブルとイスがあった。そこへザックを下して休憩する。
「こんにちは」
「ああ、ご苦労さん」と年配の小屋の人。
「乗越からずいぶん歩かされて、見えていたのに遠かった」
「まあまあ、休んでください。今日はどちらまで?」
「ここにお昼に着くようならここへ泊り、昼前なら薬師小屋まで頑張るつもりでいます。大丈夫ですよね?」
「行けますよ」と親父さんの返事。
「北アルプスの稜線を室堂から白馬までつなぎたいので、やって来たけど、越中沢岳の山もアップダウンが多くててこずりました。」
そんな会話から、このご主人が日本の近代登山に大きな影響を与えた田部重治の研究をされていて、論文も書いているのだということを知った。
田部重治は明治の人で、富山の出身。「山と渓谷」という雑誌があるが、そのもとになったのではないかと思われる随想集「山と渓谷」を昭和四年に出版している。大学教授で文学博士。山と文学とを結び付けて昭和の登山史を作った人の一人だ。
「ご主人の出身はどちらですか、芦峅ですか」と伺うと
「私は大山村で、芦峅寺村ありません。」
「あっ、あの長次郎の・・」
「新田次郎さんが劔のことをかかれたでしょう。新田さんとも会いましたね。長次郎はどことなく臆病な案内人と記録されているんですがね、本当に当時はね剱岳は登っては行けない山だったんですよね。明治の終わりまで、その考えは続いていたから、案内するのは大変なことだったですよ。」
「そんなだったですかね・・」と私。
「それにね、柴崎さんが登ったのは二度目の時で、最初に登ったのは長次郎なんですよ」
「えっ、それじゃ、最初の登山者は宇治長次郎ではないですか」
「まあ、そういうことかな」

ご主人と三十分も話し込んでしまう。
「あっ、時間です。出かけます。ありがとうございました。とても楽しいお話でした。」
山と文学、北アルプス黎明期の登山物語は、私にもその余韻が残っているように思えてならない。単なるスポーツではないという思いが強いのだ。
(*1989年版のガイドブックにはスゴの小屋の連絡先は立山町の五十嵐博文氏と会った)

スゴの小屋主とお茶を飲みながら宇治長次郎の話を聴ける

小屋主は宇治長次郎と同じ村懐かしく聞く昔語りを

主言う田部重治を研究すと山居の主に敬意をもちぬ

スゴの小屋泊まりて主と語れたら山への想いなお深まれり

去りがたし先を急げばやむなくも小屋の主にこころひかれて

11時10分に小屋を出た。ここから、間山まで樹林帯を歩き出す。ここから大変な試練の道が待ち受けていたのも知らずに。
12時に雪渓にお花畑に到着。少し行くと稜線の平坦地にでる。小さな池がある。ここからは樹林帯を抜けていく。あいにくと天気が悪くなり、薬師の姿は見えない。砂礫帯の道をひたすら登り続けるのだが、つらい。間山には12時22分に着いたが、少し立ちどまる程度で北薬師に向かう。間山の山頂にも池があった。
ここから北薬師岳までが長かった。

樹林帯抜け出ていできし稜線もガスに覆われ薬師いずこに

間山なる薬師前山至れども薬師茫々すがたつかめず

展望のない道を下り坂の天気を気にしながら黙々と歩く。この稜線を歩いている人は私ぐらいしかいないのではないか。前を行く人もみない。何も考えずに足を前に出すだけ。2時間黙々と歩いてやっと北薬師岳に着く。この時に雨が降り出した。すばやく雨具を身に着ける。

雨となる稜線寒し黙々と歩けば至る北薬師かも

北嶺に至りて知るか薬師岳双嶺ありて南はさらに

北薬師の山頂は砂礫の広い頂である。ここへ来て初めて薬師岳が大きな双耳峰であることを見た。雨でかすむ視界に大きく優雅な吊り尾根を見る。その先に薬師岳のピークが黒々と見える。やっと薬師岳の肩に取りついたような感じであった。
「ふーっ、遠いなぁ」と呟く。
深田久弥も書いている、
『越中沢山を越えて薬師の稜線に取り掛かってから頂上まで、実に長かった。この膨大な山は、行けども行けどもなおその先にあった。それは薬師北嶺とよばれるもので、本峰までそれから大きな岩のゴロゴロした長い道のりを行かねばならなかった』
しかし左手を見下ろすと、そこには昔氷河があったのではないかと言われた大きなカールが広がっている。残雪がところどころに雪渓になっている。長次郎と同時代の案内人の名がつけられた金作谷カールだ。吊り尾根はこのカールのヘリを歩くのだが、雨具を付けていざ歩き始めたら道を失って、あれこれ探して時間をロスした。この時は心細かった。山で方向を見失うのは怖い。

視界なし黒き吊尾根淡々と足ひきずって南峰遠い

眼下にす金作カールに残雪の描ける文様しばし見とれる

その昔氷河もありしこの山の歴史をのこすこの大きカールは

ここから薬師岳の本峰までは岩稜帯の道で、遠目に見たものとは違い、後立山の稜線と同じくらいにつらいものがあった。特に岩場のくだりには神経を使う。歩く人もいない。一時間二〇分もかかって本峰の祠にたどり着く。祠は大きいつくりだから、かなり手前から見えて、それが見えた時は「あーっ、来た!」という感じで、その時は足が言うことを聞かないので、前へ足を出すのが精一杯という雰囲気だった。祠の前にどさっと倒れこむ。午後3時55分。雨は収まっている。雨具の前をはだけたままで倒れこんでいた。ちょうどそこへ登山者が現れたので、
「すいませんが、写真お願いできますか」とお願いする。
「そのかっこでいいですか?」
「はっー、もう構いませんから」ということで、多分今までとった写真の中で一番だらしない写真が撮られたのだ。
それでも2924mの薬師岳に登ったという実感はあった。あいにくの天気で展望は全くないがやむを得ない。この山の大きさを体感したのだ。1990年に折立から初めて眺めた薬師岳についに到達した。

山頂の祠の前に倒れ込むよくぞ歩けて薬師いただき

大き山と思い描けどわが足でもっとどでかい薬師嶽しる

暮れなずむ山の夕なり霧雲の中感激は後小屋へ急ごう

夏の日の午後四時はまだ明るい内だが、夕立などの天気の変化が起こる時間帯だし、雲が厚いので薄暗く感じられる。展望はなかった。
山頂にとどまったのはほんの一〇分ほどである。暮れなずむ夕刻、早く小屋にたどり着きたかった。小屋がやっていなかったら太郎平まで歩かねばならない。一抹の不安を覚えながら砂礫の道を見下ろす。太郎平方面への道というか姿のなんと優しいこと。今までの岩場混じりの稜線とは打って変わって、坊主山を下るような眺めだ。ガスがあるので遠くまで視界がない中、踏み跡を外さぬように、駆け下るように下りていく。楽だ。のぼりではばてていた足も下りでは元気を回復してくれている。

ふつふつと喜びはわき足取も軽く薬師の小屋目指す

大仕事追えたるような心地して薬師の下り顔緩んでる

50分もくだり降りて小屋の屋根を見た時は、さすがにほっとした。まもなく五時である。
「こんにちは、お世話になります」とかすれた声で私。
「お一人ですか?」
「はい」
「今日はどちらからですか?」
「五色ヶ原からです」
「よく来られましたね、どうぞ」
と小屋の人と話しながら泊まりの手続きをする。この小屋には美人の女将さんがいるとガイドブックで見たことがある。
この小屋は小さいが、今日は客も少ないせいかのんびりしている。玄関で靴を脱ぐと、解放された感じがして、この瞬間がたまらない。部屋に上がり荷物を置き、ふっーとため息をつく。今日一日の緊張感から解放される。
夕食は間もなくであった。そういえば今日は昼飯をまともに取っていない。腹もすいている。腹を空かせてあの薬師の上りは辛い。
食堂で夕食になる。味噌汁に具がない。文句も言わず平らげて部屋で横になる。
一つ大きな百名山の山を越えた。
さすがに五色ヶ原から薬師の小屋まで二日分のコースを一日で歩いたことには満足感があった。小屋は静かであり落ち着ける。この夜は多分早めに寝たのだと思う。
明日の天気をきにしつつ。外に出ることはなかったが、ガスが小屋を取り巻いていた。

星かくす白い夜なり薬師小屋明日の青空夢みる間もなし

薬師岳の小屋は、私が参考にしていたガイドブック1992年版では、肩休憩所の扱いで、宿泊の案内がなかったのだ。もとは山頂小屋があったが荒廃してなくなり、その小屋がガイドブックに紹介されていたから、コースとしては、スゴ乗越小屋泊りで、薬師から太郎平で一日という案内になっていた。それが2000年には営業小屋となっていたのだ。
小屋はこじんまりしていたが、居心地は悪くなかった。疲れもあってぐっすり寝たのだ。

 


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