早春の旅
母に先立たれた父は、私のマンションに近い以前からの家で一人住まいをしていたが、二度軽い脳溢血を起こして以来、足の弱り方がひどく足をひきずるように歩き、よぼよぼとした感じが強まり、このまま一人で生活を続けさせるのは心配で、かと言って3DKの家では父を同居させることもできないので、父ともよく話し合い、親戚にも相談した上で、東京都の老人施設に入ってもらうことにした。大森の福祉事務所に相談に行ったところ、係の人の話では希望の施設に入るのに一年近くかかるとのことであったため、まあ、気長に待つことにした。ところが申し込んでひと月も経たない二月末に、当の福祉事務所より希望する施設に空きがでたので至急手続きをして入居して欲しいとの連絡がきた。今回を逃すと順番が先送りにされ、いつ入居できるかわからなくなると脅かされ、取るものも取り合えず秋川市にある東京都の松楓園に父を預けたのが昭和六十二年三月のはじめであった。「おじいちゃん、おじいちゃん」と幼い頃は甘えていた私の娘二人も、高校生、中学生になる年頃になり、自分たちの世界をもちはじめて、祖父との会話も減りつつあって、父は寂しがっていたと思うのだが、口に出して言うことはなかった。それでも孫の顔が見られるのを楽しみに、夕食と晩酌を我が家で取ることになっているので、父の様子は常に分かっていた。父を施設に入れることは父の身体の状態を考えると安心するものがあったが、私には言うに言われぬ寂しい気持ちと無念さが残った。
父の松楓園への入居の手続きを済ませ、一段落したころ、三月の半ば、無性に父と過ごした私の子供の頃のことが思い出され、父と出かけた旅のことなどを妻に聞かせていた。その頃の父の年齢にいつか私も至っている、「そうか私もそんな歳になったのだ」と実感し、いずれは離れていく子供たちと何か思い出をつくっておかなければならないという感情が湧いてきた。「あずさと二人で旅にいこうかな、どう。いくかな。あれも今なら言うことを聞くだろう。」「そうね、ちょうど春休みだし、いってみたら。」
「夜行列車に乗せて、鈍行の貧乏旅行も悪くないだろう。あずさは行くかな。木曾の馬籠と妻籠はどうかな。まだ寒いかもしれないけどね。」
「あずさなら行くわよ。」こんな夫婦の会話から、私とあずさの小さな旅が決まった。家族そろっての旅はあったが、二人だけの旅ははじめてなので、内心私のほうがうきうきしていた。娘をつれて父親が、二人で旅をするなどということは、なかなかできることではない。娘とならんで歩く父親の後ろ姿は、どこで見ても背中が笑っている。それほど父親というのは、息子にはない感情を娘にはもっているように思う。私には息子がいない、時にはキャッチボールをする息子がいたらと思う時がある。娘には腫れ物にさわるような思いがどこかにある。
次女あずさは、長女のほたかとは三才違い、昭和五十年三月の生まれで、この年に十二才になるが、早生まれのせいかどことなく幼さがまだある。長女とは違いあずさには幼い頃、仕事にかまけてかまってやれなかったという負い目があり、いつか帳尻を合わせておきたいという気持ちがあった。
あずさは中学に入学する春休みの最中でもあり、夜行列車に乗るのもはじめてのことで、私と行くことを喜んだ。松本の城を見せ、木曾街道を歩き、歴史にも触れさせてみたいと考え、馬籠の民宿に一泊することにして、松本と木曾を訪ねる計画を立てた。あずさが数え歳にして十三才になるので有名な神社でお参りをして欲しいと妻から注文を出されたので、帰り道名古屋に出て、熱田神宮によりあずさの十三参りをすることを計画に加えた。春休みではあったが上手く馬籠の「藤屋」という民宿を予約することができた。
午前零時一分新宿発の上諏訪行の電車に乗ることにして、午後十時すぎに家を出た。あずさはジーンズに紺のダッフルコート、襟巻きをして、白いスニーカー。私もジンーズにグレーのキルティングコートにスニーカーといういでたちである。あずさはこんなに遅い時間に外にでることはないので眠そうであったが、着替えとお菓子を詰めた小さなリュクサックを背負う娘の心を、好奇心と興奮が支配していた。新宿駅は登山に出かける若者達が大勢いて、その昔、私もあの中の一人だったのだ、その青春の日々はいまでも心の奥に秘められていて、アルプスのあの高嶺を再び歩きたいと、その頃を懐かしむ思いで彼らを眺めていた。しかし、今は娘と旅することに言いあらわせぬ喜びを味わっている。
連れ立つ子は十二才 訪ねてゆく信濃は浅い春
あずさの背丈は妻にはまだ足らないが、155センチ位でほっそりしている。色は少し浅黒いが、涼しい目鼻立ちをして、器量はなかなかよいと親ながら自慢に思っている。近所の年配の方に「きれいな娘さんね。」と言われることもたびたびあり、「お父さん似かしら。」などと言われると「いやぁ」などと返事に窮していた。顔の輪郭は私の骨相だと思えるが、目は切れ長の比較的はっきりした眼をして、眼が長女のほたかとも似ているので私似だと思えるが、鼻は、私の鼻でも妻のような小鼻のぷくっとした感じではなく、すっきりして高い。唇もまた大きくはなく小振りで肉質も厚すぎず、薄すぎることもなく、きりっとしている。妻の傾向というよりはこれも私の傾向かもしれない。しかし、全体的には、長女のように、はっきりと私似であると指摘することが難しいくらいに、また妻にも似た特徴というのもはっきりしない顔で、なにか隔世遺伝でもしたかと思うようなつくりで、小さいころは姉に良く似ていたのだが、しだいにその違いのほうが大きくなってきていた。性格は姉に比べるとやはり妹の性格が出る。姉よりは言いたいことをすぐ言うので、小生意気なところがないではないが、なかなか可愛い。感受性が強く感動するとすぐ涙がでてくるのが特徴で可愛いく、物怖じしない明るい子である。
肌寒い三月の深夜、我々は信濃に向けて旅立った。娘には冒険にも似た旅でもあろう。
幸い列車の座席を確保することができたので、あずさを窓際の席に座らせ、目をつむってねむるように言い聞かせた。発車するころには通勤客も乗りこんで混雑してきた。それでも走り出すと、窓の外を物珍しそうに眺めている。天気は生憎の雨で、この様子では信州は雪かもしれない。列車が走り出すと、あずさは窓から暗やみの外を興奮する面持ちで眺めている。明日のことを考えて、眠るように言い聞かせた。八王子を過ぎるころから頬をまっかにしながら眠りだした。私もあずさの寝顔をみながら目をつむり、列車の揺れに身をまかせた。この子が大人になった時、再びこうして旅にでることがあるだろうか。きっと年とった父親など相手にもしなくなるだろうなどと思いながら、娘の様子を見てはうつらうつらと私も眠っている。あずさも時々、薄目をあけては私を確かめるように見ている。やわらかな背中を撫でながら、いずれこの手から離れていくのだななどとも考えていた。甲府で長い停車時間があったが、あずさはぐっすり寝ている。寝顔は可愛いものだ。信濃境を通るころ雪であった。午前五時ごろ上諏訪の駅に到着する。諏訪駅のホームには温泉の出る洗面所がある。あずさと並んで温かいお湯で顔を洗い、夜行の疲れを拭う。「温かい。」とお湯に喜んだが、それでもあずさはまだ眠そうな顔である。
夜汽車にてはじめて旅する子はじっと闇の流れる窓を見つめる
子は頬を紅くさせて眠る 夜汽車の揺れにもたれて眠る
夢うつつ私を見てはまた寝入る浅い眠りの子の背を撫でる
子とならび湯で顔を洗う諏訪の駅雪に曇って朝が明けない
諏訪は私の小学五年と六年生の担任だった先生の故郷だった。小国先生といい、教育熱心な先生で、無着成恭の「やまびこ学校」を朗読しながら、感激のあまり涙声になってしまい、聞いている我々生徒がびっくりしてしまつたことがある。その後特殊学級を担任されたりしたが、若くして亡くなられてしまった。中学に入る前の春休みに、小国先生の家を訪ねて一人旅にでたのが私の旅の最初だった。その頃は蒸気機関車の牽引する列車で諏訪はとても遠かった。鈍行で一日がかりの旅だったと思う。その一人旅の折り、松本から長野へ抜ける篠ノ井線の婆捨山駅で、夜汽車がすれ違う時の光景、スィッチバックの待避線で交換列車を待つ峠の駅で、遠方に善光寺平の点々と白く町の明りが闇のなかに灯り、空には満天の星、そのなかをあの真っ黒な機関車がドラフトを響かせながら遠くから「ボッツ・ボッツ・ボッツ・ボッツ」と喘ぐように、白い煙りを吐きながら急な坂を他を圧倒する轟音で近づいてくる。そして「ポォォォォー」と永遠の空の彼方に物語るような汽笛を鳴らして、私の目の前を通りすぎて行く。私は子供心にもその一瞬の美しさと逞しさに酔いしれていた。いまでもその光景は忘れられないものになっている。今となってはもはや見だすことのできない旅情であろう。
三月の午前五時過ぎ、外はまだ暗く夜は明けていない。おまけに小雪も舞っている。目がまだ眠っているようなあずさとベンチに座り、「寒い寒い。」と言いながら電車を待った。松本行き四両の電車に乗り込むと、ホッとしたがそれでも車内の暖房は効いていないので、コートで身体を包むようにして座る。明けきれぬ紺色の空の下に諏訪湖が眠っている。「ほら、諏訪湖が見えるよ。」とあずさに指さした。今日は一日晴れそうにもない寒空が続く。
松本は小雨、街はまだ浅い眠りの中にあった。昔の木造の駅舎とはがらっと変わって、近代的な駅になってしまって、時間の経過を思い知らされずにはいらねなかった。松本は、山の思い出の街でもあり、恋の思い出の街でもあり、仕事の思い出の街でもある。駅前の大手スーパーの進出に関わる苦い思い出がある。思い出のある地方の街がいくつか私にはあるが、この松本は、何よりもアルプスに近く、特に好な街である。二十歳の夏、穂高の涸沢で事故にあって国立松本病院に三週間近く入院したのもはるか昔のことだ。結婚して四年目の夏、家族で最初に旅をしたのが松本であった。長女のほたかが二才、あずさは妻のお腹の中にいた。サンルートホテルに泊まり上高地と乗鞍岳に遊んだ。梓川に遊ぶほたかが古い8ミリフィルムに撮られている。その時、松本の路地を歩き妻が骨董品屋で気にいった皿を何枚か買った。それらの皿はしばらく大事に使っていたが今は一枚も残っていない。
午前七時過ぎ松本に到着。駅前の喫茶店が開いていたので、そこで軽く朝食をとる。しばらく時間つぶしをして、八時半頃に街の中を歩きながら松本城公園に行き、城の開門をまった。灰色の空の中に黒塗りの城は立っていた。奇妙に静寂な朝で、城の周囲には誰もいなかった。時折空から小雪が降る。九時の開門を待って城に入り最初の入場者となった。城内は森閑として、靴下から伝わる木の床のひんやりとした感触がこの城の時代を感じさせる。
「足が冷たい。」とあずさが言う。武者溜りの部屋の飾りのない無骨な造り、城の床は黒光りしている。鎧冑に身を固めた侍たちが、「ご免」とでも言いながらすれ違うような錯覚さえ覚える。武器倉で弓や槍や鉄砲の検分をし、戦の準備の最中かもしれない。「暗いね。」とあずさ。見物人は二人。その静寂の中で朝の森閑とした空気が城の雰囲気を弓を一杯に絞ったときのような緊張感で包んでいた。天守閣はまぎれもなく要塞なのだ。天守閣に上る階段の間隔が四十センチ位もあり、しかも急なので大股で階段を昇らなければならないことに娘と私は驚いた。女性が着物でこの階段を昇ることなどなかったのではないだろうか。天守閣から眺める街は、雪雲りの空の下に穏やかであった。晴れていれば、この街からは常念岳や、後立山の峰々が見える。しかし、今朝は生憎の小雨で、十時近くなってもどんよりとしている。時折小雪、風が冷たい。春は名のみの春である。濠をめぐる庭園には、梅の花もまだ六分ほどで、私たち親子とおなじように、濠を渡る冷たい風にふるえている。
雪空にたたずむ城とむきあう二十歳の青年の消えた影を追う
春にふる雪の、恋はかつて梅の蕾で、冷たい風に耐えていたのだ
十時過ぎの電車で松本を発ち、塩尻から木曾に向かう。雨はしょぼしょぼと降っていて、温度差で窓も曇る。南木曾駅までの車中、娘と同じ年頃の男の子と一緒になった。中学生の一人旅で、名古屋をまわって今日中に東京に帰るのだと言う。一日乗り放題の「青春切符」を利用
しているが、普通列車にしか乗れないので一日中乗り通しだと言う。あずさを意識してか、恥ずかしそうに話す。窓のくもりを手で拭いて外を眺める。生憎の天気だ。私がその子のように一人で旅をした時も、年配の人に何処までいくのか聞かれた。あの時は、その子とは違って、松本から長野、柏崎、弥彦、新潟を回遊する旅で、一日中汽車に乗っていたと思う。塩尻をでて、ほどなく電車は木曾川にそって蛇行し、山合いを縫うように走る。奈良井、藪原を過ぎる頃には、「夜明け前」の冒頭の有名な一節「木曾路はすべて山の中である」が、その通りだと思えてくる。あずさは夜行の疲れか、私の肩に頭をあずけるようにして寝ている。各駅の普通電車の中は木曾福島をすぎてからは乗客もまばらになり静かなものだ。立ち寄れなかったが、木曾川にそって広がる木曾福島の町並みは、車窓から眺めると雨にしっとりとした山合いの関所に相応しい町に見えた。今日の目的である妻籠へは、南木曾駅から歩かねばならない。「南木曾」と書いて「なぎそ」と言う。十二時前に到着する。さきほどの男の子とは、ここで別れた。あずさは少し眠ったので、すっかり元気になった。南木曾の駅前は数軒の店と家があるだけで、寂しい駅前である。妻籠への観光案内の看板が、駅前の広場の脇にある。妻籠への道は自然遊歩道になっている。
「田舎だね、お店もないし、なんにもないね。なんかすごいとこに来たみたい。」
「そうだな。」
あずさが半分嬉しそうに、半分驚いたように、目をまんまるにして私の顔を見る。あずさにしてみればこれからどこへ行くのだろうかという興味と、なんだか遠くに来てしまった不安とが半々なっているようだ。見るからに寒々しい駅前の光景で、駅に降りたのは私たち数人で他に人影はない。霧のような雨のなか、案内図に従って、いよいよあずさと傘を並べて木曾街道を歩きだす。かつてこの木曾の山の鉄路で活躍したD51の蒸気機関車が置かれている公園の前を通ると舗装された道はすぐ終わり、車一台も通れない農道のような畠の中の道となる。ぽつんぽつんと三分咲きの梅が道端に寒そうにある。早春の山里、まさにその匂いがする。「ここを大名やお公家さん達が通ったんだねえ」と、娘よりも私のほうが驚きの思いであずさに話しかけるが、あずさはそんなことにはお構いなく、足取り軽くと言うように妻籠への山合いの街道をすいすい歩いていく。声を出すと、吐く息が白い。
山峡の駅に細い雨 子と傘をならべて歩きだす木曾である
時代劇の映画に出てくるような街道よりも更に狭い畑中の道を、時には民家の庭先を歩くかのようにしながら、小一時間ほど平坦な山里の道を歩く。妻籠の城跡があると案内図があったが、寄らずにまっすぐ妻籠にむかう。。
路地に入りこむようにして小さな橋を渡ると、目の前に低い軒の家が二間ほどの道幅をはさんで並び、実際にタイムスリップしたように江戸時代の宿場町の家並みがそっくり出現している。私もあずさも立ち止まり、古い宿場町を眺めやる。
「どうだ時代劇にでてくるみたいだろう。これが昔の宿場町だよ。」
「こんなところがあるんだね。」
と、あずさの寒さを払いのけるような喜んだ声が返ってくる。あずさの目の前の光景は初めて見るもので、東京のコンクリートの建物に見慣れた目にはびっくりしたに違いない。
島崎藤村は小説「夜明け前」で、木曾街道十一宿の下四宿の一つ、木曾川に近く位置する妻籠宿の地勢の特徴を
『馬籠の峠ともちがい、木曾も西のはずれから妻籠まではいると、大きな谷底を流れる木曾川の音が日によって近く聞こえる。』
と描いている。主人公青山半蔵の妻お民は十八のとき、この妻籠の本陣の青山家から嫁ついでくる。妻籠の町並みの裏手には支流である蘭川が流れていて、妻籠城跡付近で木曾川に合流している。いまではよほどでもないかぎり、木曾本谷の音は聞こえてこないのではないか。小雨まじりの静かなこの日、支流の川瀬の音ですら我々には聞こえてこなかった。しかし、戦後まもない頃までは聞こえていたに違いない。
電柱とかコンクリートの家などはまったくなく、出梁(でばり)造りや卯建(うだつ)という防火壁の落ち着いた造りの家に統一されている。この街も一度火災にあって立て直したものだと聞いている。しかし保存はよく、下町、中町、上町、寺下、尾又の町内に区分されている。小さな橋を渡った入口に高札場があり、その左には水車がかたんことんと回っている。道に面した家はそれぞれ土産物屋や、お菓子屋とか、飲食店になっている。中町には昔の脇本陣が奥谷郷土館として開放されている。あずさはそんな歴史のことよりも、お腹の空いていることに気がむいているようだ。
「あずさ、見てごらん。ほら郵便ポスト。黒だよ。」
「ほんと、どうして。」
と怪訝な顔でしげしけとポストを覗きこむ。
「この町の景観に合わせて造ったのかな。町並みに合わせてね。」
郵便ポストが、この街では法律に定められた赤ではなくて真っ黒であるのは、例外的に明治時代の色が認められているからなのだと言う。小説によれば、妻籠で最初の郵便局になったのは、お民の兄の寿平次である。つまり藤村の母の兄である。
『翌朝になると、寿平次の家では街道に接した表門のところへ新しい掛け札を出す。
信濃国、妻籠宿、郵便御用取扱所
青山寿平次
こんな掛け札もお民としてははじめて見るものだ。』
と、第二部の上巻に書かれている。本陣跡の前にある小さな郵便局のその前のポストにしばし感心しながら、町筋を見ると、春休みの土曜日とあって、かなりの人の往来がある。みんな観光客で、カメラをもってあっちの店、こっちの店と覗き込んでいる。
「ダーダ。お腹すいた。」
あずさが催促をする。「ダーダ」というのは、私つまり「父」への呼び方で、我が家では、ほたかが物覚えついたころから、英語の「ダディ」が鈍って「ダーダ」になってしまった。母親は「マミー」である。妻の実家でも、私は「ダーダ」である。
「おそばを食べよう。いいかい。」
あずさは無邪気な顔をして「うん」と頷くような仕種をする。まだまだ子供だと思う。このままでいて欲しいとも思う。
吉村屋という店に入って、山菜ソバを注文する。あずさはこういう時には、こまやかな気をつかう子で、テーブルの上の湯飲み茶碗を二つとって、備えつけのポットからお茶を入れる。この子の気づかいがうれしい。
女だからというのではないが、やはり女らしさというのはないよりあったほうがいい。私が子供に「女らしく」とか、「女だから」と、言うと妻はいつも差別するような言い方はよくないと、私を非難するが、やはり男から見た場合、女は小まめで、可愛いほうがいい。やはり好かれるということは大事な要素だ。それと女の自立とはまた別問題だと思っているのだが、我が家での私の立場はどうも弱い。私の女性観をもって娘を教育することにはどうも妻の同意がえられそうもない。従って、家ではあまり煩いことを言わないようにしている。
山菜のにがりが少しこたえたが、蕎麦は美味しかった。外は肌寒いので、店でのお茶はほっとするものがある。
「おやき」を売っている店の前で、「いい匂いがする」とあずさが言うので、そこを避けては通れなくなって、おやきを二つ買い求めた。
小雨にけむる妻籠宿、武士町人の旅人にまぎれて歩く
旅にあって昔の人も食べたと思う昼さがりの山の蕎麦
妻籠宿にだんご焼く香り、子に引かれ店前に立つ
観光客の往来に妻籠は静かななかに賑わいがある。町の半ばまでくると道が急にくびれ、二股になっている。桝形跡といって上町の石灯籠、これは昔常夜灯だったという、があるあたりで、石垣が組まれ、道がわさわざ直角に曲げてある。説明によると外敵を防ぐために曲げてあるのだという。その手前に大きな忠魂碑があって、その隣に昔の学校か集会所のような形の建物が観光案内所になっていた。石段をあがって引き戸越しに部屋に入ると、右手が職員質で左が休憩所になっている。受付のカウンターの当たりにNHKドラマ「夜明け前」のポスターが貼ってあった。
「NHKでやるんですか。」と中の人に聞いてみる。
「この十月に放映される予定です。先日もロケ隊が来て、大変だったんですよ。主演の女優さんもきたりして。町の人みんな総出で協力しましたからね。二時間ドラマだと言ってました。是非見て下さいよ。」
係りの人は、女優の大原麗子が来たと嬉しそうに話しをしてくれる。観光地としていい宣伝になるし、自分の郷土を誇れるのはまた格別にいいものだ。
早春の日はまだ短い。これから馬籠峠を越えて、馬籠宿まで行かねばならない。あまり妻籠に長居はしていられない。残念だけれど、いずれまた来ることを思いながら、あずさと街道を急ぐことにした。宿場の家並みを抜け、しばらく舗装された道を行くと、左に伊那への道を分け、また来たときのような山里の道が馬籠宿にむかう道になる。しかしまだ人家がある。大妻籠という集落を通る。妻籠は修復・保存の手がかかっているそうだが、この集落はほんとうに江戸時代からの建物が残っているという。注意をはらって見たわけではないが、古い家は、壁と直角に塀のようなものが出ている。これが卯建(うだつ)と呼ばれるもので、防火のために造られたという。そしてこの卯建は身分の高い家でなければ造れなかったことから、「うだつが上がらない」といことが「出世できない」という意味になってきていると、これは書かれたことの受け売り。
大妻籠をでると、たちまち山道となり、これが江戸時代の五街道と称せられた道かと思うような細道である。登りもきつく、つづら折りする道である。ところどころに梅が山合いの遅い春をつげているが、山道には枯れ葉が濡れている。時には傘を杖にして歩く。勾配はよりましてきつく、疲れをきづかいながら、時々行きかう人にあいさつを交わしす。道幅はほんとうに山道の幅しかなく、この道を籠や、輿を担いで通ったとすれば、昔の行列は大変なことであったに違いない。
「この道を昔は大名が、三勤交代のために通ったんだよ。学校で習ったでしょ。江戸時代の重要な街道なのに、こんなに細い道だったのかね。ほんとうに。」
「マミを連れてこなくてよかったね。きたら大変だよね。」
あずさはにこにこしながら先を行き、母親の足の遅いことを知っていてそう言った。都会育ちの妻には、こんな処を歩かせたら何を言い出すやら。それでも妻は、なかば私にだまされて新婚旅行で屋久島の宮の浦岳に登らされている。それ以来、山に行くとは言わなくなった。だから娘の言う通りだとひとり苦笑いをする。雄滝・雌滝の案内があったが、寄らずに先を急ぐ。
枯葉踏むつづら折れの山道は傘杖にして子の後を追う
滝を過ぎ、自動車道路と交差するところが、峠入口。そこからしばらく行くとしだれ桜の大木がある。百年以上の桜だと言われる。そのあたりから、雨が少し強く降りはじめる。
「寒くないか。手袋を忘れて失敗したな。大丈夫か。もう少しで峠だからね。」
「大丈夫、大丈夫よ。」と、生意気ぶって答える息が白い。
傘をもつ手がかじかんでくる。冷えこみがきつくなる。鬱蒼とした樹林帯の中に道は入って行く。ちょうどその頃がもつとも雨足が強くなってきた時で、雨の音だけが森の中に響く。早く峠にでないかと、気が焦る。春とは言え、山の三月だ。冷えこんでくる。周囲もうす暗くなってくる。大きくつづら折れになった杉の間の道を登ると、ひょっこりと舗装道路の走る峠に出た。ちょうど午後四時。ここが馬籠峠で標高八O一メートルという。今まで登ってきた道は南木曾町で、ここからは山口村になる。峠の茶屋が一軒雨の中にある。
「あずさおいで。」と言って、傘の雫を払いながら茶屋の中に入る。
「今日は、少し休ませてもらえますか。」
「どうぞ、火にあたっていってください。寒かったでしょ。」と、親父さんが声をかけてくれる。茶屋の真ん中に、ダルマストーブが赤々と燃えている。まわりが急に暖かくなってくる。ともかくホッとする。「あずさ、こっちにおいで。」ストーブのそばで、濡れた体を暖めさせた。さすがに最後の登り道は、雨にたたられてあずさも疲れた様子である。しかし、茶屋で暖をとれたのがよかったのか、紫色の唇で、冷たく青くなっていた顔が、赤味を帯びてきて、何とかなりそうだ。くつくつとおでんが煮えて、温かそうな湯気が鼻をつく。一皿おでんを盛ってもらい、二人で食べる。腹の中に温かいものが入っていくと、気分も落ち着く。あずさの顔にも余裕がでてくる。
みぞれ
霙に暮れる峠道 飛びこむ茶屋に赤々燃えるだるまストーブ
「馬籠は近いですか。」
「あとは下りだし、街道は国道の通りの道だから。そのまま行けばいいですよ。」
激しくなっていた雨も、一ッ時のことのようにおさまり、落ち着いた頃には雨も小降りになっている。
「お世話様でした。」「お気をつけて。」
茶屋の主人と言葉を交して、外に出て、傘を手に舗装道路を歩きはじめる。いままでの道と違い、前方が開けているので、楽な気分で歩ける。あずさは少し疲れた様子であったが、頑張っている。「峠」という集落の中を通る。古い家屋が並ぶ集落で、江戸時代のものだと言う。 とっぷりと夕闇につつまれた時分に、私たち親子は馬籠の宿の入口にある高札場に着く。やれやれという思いで十字路になっている宿場の入口に立つ。三メートル幅の石畳の道が明りのついた家並の中へみちびいていく。あたりはすっかり暗く、山合いの深さをただよわせる。
高札の立つ古宿場 墨色おとす山峡に灯りが浮かぶ
馬籠の宿はかなり急な斜面の上にできている町だ。藤屋は町の半ばを過ぎて、かなり下ったところの左手にたつ特徴のない一軒家の民家だ。
「今晩は、あの予約していた軍司ですけれど。」
声をかけて入って行く。なんとなく旅館と違う、民宿というのは、普通の家に泊まるわけだから、玄関も子供の運動靴があったり、年寄りの履物があったりで、他所の家に上がり込むという雰囲気がする。
「はい、いらっしゃいませ。どうぞ。」と、白いかっぽう着をつけた小太りのおかみさんが出てきた。「どうぞ」と、言われて二階に案内された。六畳一間の部屋で、表の通りに面している。部屋の隅に14インチの古めかしいテレビが一台置かれている。
「今日は寒かったでしょ。お嬢ちゃん。」と、おかみさんは声をかけながら、お茶と茶碗をこたつの上に置いた。宿帳に名前を書いて、とりあえず食事とお風呂をお願いする。荷物を部屋の片隅において、電気こたつだが足を入れると、今日の疲れがどっと出てくるようだつた。
「疲れたか、今日はよく歩いたな。」
「少し疲れちゃった。寒かったし、でも面白かった。」
と、あずさの答えを聞いて、私もにこにこしている。
「お客さん、お風呂と食事とどっちを先にします。」と階下からおかみさんが聞いてくる。
「お風呂を先にお願いします。」
「それじゃ、すぐに入ってくださいな。湧いていますから。」
「はい。頂きます。」
あずさに私が先に入ってくるから、こたつの中で横になっているように言い、階下に降りていく。あ風呂は家庭用の風呂だが、檜の風呂で、冷えた体にはなによりものご馳走である。ゆたり湯につかるだけで、気分がほぐれてくる。あずさを連れて来たことを、湯船のなかで一人で喜んでいる。さっぱりした気分になって部屋に戻るとあずさはこたつの中で寝入っている。可哀相だが起こしてお風呂にはいるように勧める。
「テレビ面白いのやってないんだもの。東京と違ってつまんないから寝ちゃった。」
「いいお風呂だからゆっくり入っておいで。階段をおりたらすぐだから。」
ザックから着替えとパジャマをだして、階段を下りていった。雨はなおも止む気配がない。
藤村の小説「夜明け前」は、江戸末期からご維新の時代を経て明治政府が確立されていく過程の歴史小説である。主人公青山半蔵は、父吉右衛門の許しを得て平田派の国学を学ぶ。時王政復古の思想の広まるなか、半蔵は、天皇親政の復古と国学の回復に、日本の将来を見、封建制度が変わり、民百姓下々がよくなることを、地方の知識階級の一人として願っていた。しかし、時代の流れは半蔵の思いとは異なる方に向き、彼はやがてその潮流から取り残され、最後は半蔵を理解するものもなくなり、菩提寺である満福寺に火をつけたことで狂人として扱われて、座敷牢に入れられてしまう。そのまま半蔵は五十六才の生涯を終わる。藤村は自分の父が狂い死にしたことを生涯負の負担としていたと思える。「夜明け前」は藤村の晩年の作品であり、彼は父を死に至らしめた時代と父とを理解したかったのでないだろうか。藤村は九才で上京し、その後は父が上京したおりに会ったきりであったという。心の中に彼が父を求めたとしても当然のことのように思う。「夜明け前」終の章の六で満福寺の和尚松雲が半蔵の不可解な行動の理由を説明する下りがある。それを引用することもないが、その下りこそ藤村が父を理解しようとして、この大小説を書かせた理由であろう。そして松雲和尚に
「今度という今度はつくづくわたしも世の無常を思い知りました。」
と言わせ、時の勢いに個人は抗する術もなく、和尚にもどうすることもできなかった無常を述懐させている。歴史の中の個人などというものは押し並べてそういうものかも知れない。藤村は自分の父を歴史のなかから、また自分のなかから救い出そうとしたのだ。藤村自身が父と深く長い葛藤をくりかえしていたであろう。男にとって父とはそういう存在なのだ。
ちょうどあずさが持参のパジャマに着替えて、風呂からやれやれという感じで部屋にもどってくる。
「お茶入れるね。」
パジャマの上から宿の半纏を掛け、身仕度をすると、急須にお茶の葉を入れ、私と自分の湯飲み茶碗に茶を注いだ。タオルで髪を巻くしあげて、首筋もこの子は長くほっそりしている。子供から乙女になる変化期だ。少しの仕種にも、子供ぽさと女らしさとが入り交じっていて、この子の将来を思わずにはいられない。
食事の用意ができたと言って、料理が運ばれてくる。てんぷらと刺身である。こんな山の中で、冷凍の刺身もなかろうと思ってはみたものの、腹が空いていては文句のつけようがない。あずさがごはんを盛ってくれる。なんでもないことかもしれないが、上の娘はやはり、長女というのは、長男とにていて、総領のなんとかと言うように、どちらかと言えば、気づかいをしない。自分中心のところがある。それに比べると、この子は何かと世話焼きの性分で、母親には似ていない。娘と二人だけの食事もわるくない。
刺身と言えば、半蔵が下男の左吉を連れて、江戸に出てきたときに刺身を食べる下りがあって、日頃山の中では塩からい魚しか食べていないから、とてもうまいものだと喜んだことが、書かれている。江戸時代、本陣半蔵の家でも刺身などは口にしたことはなかったと思う。五平餅がご馳走のころだ。
ともかく食事を済ませる。おかみさんがやってきて「お粗末様でした。」と型通りの挨拶をして、お膳を下げてもらう。あずさも何かと手を出して手伝っている。あかみさんもにこにこしてあずさを見ている。
後は寝るだけとなった。
「ふとん敷く。」と、あずさ
「敷いたほうがいいな。もうあずさは寝ていいよ。」
「こっちに私が寝るから。」
とか言いながら、ふとんをパタパタ動かしはじめる。
「ダータはこっちでこたつのそばで寝なさい。」
と、私の分までふとんを敷いてくれる。私は内心嬉しくてたまらない。「ほんとにいい子だ。可愛い子だ」と思う。勿論親馬鹿丸出しであるが。それでも娘に世話を焼かれるのは、まだ子供と言っても悪くない。しかし、これもいつまで続くか、恋人でもできたらそれでお仕舞い、それまでのことだろうなどと、寂しいことも考えてみたりもする。そんな自分がまた面白い。あずさは「おやすみなさい」と、言うがはやいか、軽い寝息を立てている。しばらくその寝顔を覗きこむ。