はぐれの雑記帳

極めて個人的な日めくり雑記帳・ボケ防止用ブログです

父との最後の旅  瀬戸大橋・高知・室戸岬

2016年04月26日 | 短歌



父との最後の旅  瀬戸大橋・高知・室戸岬         昭和六十三年八月十日(1988)

父が予てから見たいと望んでいた瀬戸大橋への旅に出た。私の都合で夜八時、東名高速を走り瀬戸に向かうことにした。瀬戸まで行くのであるから、土佐の高知にいる戦友の森下さんを訪ねるようにすすめ、前もって連絡だけはしておいた。私にとっても一人で運転して行くのであるから、少々心配ではあった。私は昭和六十年に運転免許を取得したので、これほどのロングドライブは初めての経験になる。一晩中運転するわけにもいかない。用心して途中滋賀県大津に近いサービスエリアにある宿泊施設で、父とともに仮眠することにした。季節柄満員であったが偶然一部屋空いたので、シーツの取替えなど自分がやるから、ともかく泊めて欲しいと頼み込んだ。仕事から戻ってすぐに出て来たので、眠りたかった。午前二時頃であった。

  瀬戸海に架かりし橋を見たいと言う父の願いに盆の旅かな

午前四時過ぎ、二時間ほど仮眠して、再び東名を走り、明け方中国道に入る。京都以西は初めての道である。父は車に乗っていると眠らないのである。かなりきつい旅なのだが、話しかければ答えるが、それ以外は黙ったままで、眠っているかと思って横から見ると目を開けている。私の方が心配になって、「眠りなさい」とばかり言って走った。

 小学三年生の頃、父と旅行をした。奥多摩の小河内ダムの建設中に、東京でも山深い氷川町、今の奥多摩町を訪ね、細い山道をバスに揺られて走った。また、五年生の頃かと思うが、冬に佐久間ダムを見に豊橋から飯田線の箱電で、天竜川に沿って旅をした。佐久間ダムも大きかったが、天竜峡の温泉宿に泊まった夜、外に干したタオルが凍りついたのが印象的であった。帰りは中央線の辰野に出て、準急「白馬」に乗って帰った。当時の国鉄で、急行料金は高く、準急でも贅沢に思えたのだが、切符に赤い線が斜めに一本、急行だと二本引かれているのが欲しくて、父にせがんだのだ。蒸気機関車の牽引する列車は、超満員でスキーヤーや登山者、東京に帰る人で立錐の余地もないほどであった。幸い私はやさしい人達に囲まれて、四人座席の足元に入れてもらった。今では特急で三時間で松本に着くが、当時辰野から新宿まで準急で五時間もかかったのだ。子供心にも、この時は父に甘えたて無理を言ったように思う。旅が好きになったのも父のおかげである。中学になると私は一人で旅行をするようになったが、父は許してくれた。親と旅をすることはとても大事なことなのだと思う。あれから三十年余年が過ぎ、私がもう四十三才になっているのだ。父はもう七十九才になる。
 母が癌で亡くなってから、七年が経ち、父の衰えも年々際立ってきた。一人住まいさせることの危険を思い東京都八王子にある老人ホームに運良く入居したのが、この年の三月であった。父も一緒に老人ホーム施設を見て気に入ったところであったので、比較的元気で、毎週父のところには顔をだした。その父が瀬戸大橋を見たいと夏に入ってから言い出した。施設の許可を貰い、前日から大森の家に連れてきておいて、私が仕事を終えて、帰宅するとそのまま出かけたのだ。正直そんなに楽しい旅ではなかった。「仕方がない」という思いの方が強かったが、今となっては父との掛替えのない旅になったのだ。私はこの父のお陰で生きていけることになったのだから。

その昔父に連れられ旅にでた いま父を庇いて旅にでる夜

高速道路を乗り継ぎながら、明石を過ぎ、姫路の街を左に見やりながら、十時頃岡山の街に入る。瀬戸大橋の表示を得てほっとする。児島のインターからいよいよ瀬戸大橋に向かう。天気は晴。雲が白い。緑の山合いを少し走ると瀬戸の海の近づいてくる感じ。トンネルを抜けると、橋の鉄塔が見えてきた。そして目の前に大きな橋が姿を現す。圧巻である。

夜を抜けて瀬戸内のきらめく海にまむかう親子の遍路
「大きいね」私。
「大きいな」と父。
パトカーが停車してはいけないと、マイクで注意しながら前を走る。どの車も先を急ぐ気配がない。橋の大きさ、夏の景色に魅入られている。のどかな風景の中に、この橋は人工のものでありながら、風景に溶け込んでいるように見える。与島のサービスエリアに下りる。強い日ざしの中、ここで大橋を堪能することにした。
 
     後ろ手に海越える橋仰ぐ父「大きいなあ」と夏帽子が笑う               
大橋を仰ぐ人の群れのなかにいて 夏陽に一人父の影がほそい
     パラソルの椅子に座る父 地蔵のような顔をしている
     「来てよかった」と言って立つ父の背に大きな大きな瀬戸の大橋
     
瀬戸の大橋を渡るJRの列車の通過する音が大きく響く、確かにニュースに取り上げられるほどの騒音なのだ。観光にはいいが、生活には大変な音であろう、まして夜は尚更のことだと思えた。父とレストランでカレーライスを食べ、昼食とした。今回は金銭的には全く余裕のない旅で、それが父を連れて出かけるのを渋った一因でもあったわけだが、ともかく来てよかった。ここまで来たからには、ままよ高知まで行け。森下さんに電話する。何枚かの写真をとった。足の弱り方は、以前にも増して弱っているように思える。階段は必ず手をとって支えた。表情は飄々としており、変わることがない。
「来てよかったかい」と問うと、
「よかった」と、しごく満足そうに答える。
しばし瀬戸内海を跨ぐ巨大な橋が青い空と海を背景に架かっている様を眺めている。父の願いを聞いてここまで来てよかった。ただ青空の輝くような陽射のなかでは父の脚をかばいながら歩く姿は、悲しかった。
海を見て父の願いを叶えたと思えばうまし煙草くゆらす
                    よすが 
    久かたに父と連れ立つ四国路を遍路の旅に似た縁かな
   老いてゆく父の姿や空の青海の青さに溶けず悲しき

午後一時与島を出て、土佐に向かう。四国の山は落ち着きのない雲にいつの間にか覆われて、瀬戸の海の上だけが青く抜けている。大橋を渡ること約十五分、左右に穏やかな内海を見、行き交う船も長閑な情緒にあふれている。

     この橋を渡れば土佐の盆祭り
 
四国に入る。一路高知に向かう。道標と地図が頼りとなる。琴平山を遠く右にみて走る。田舎道となり、やがて吉野川に出会う。山にさしかかるや山時雨となる。大歩危、小歩危を走る。高校生の時に一人で旅行したことが蘇ってくる。あの時列車で通った鉄路は、吉野川に沿って危な気に見える。、

 高校に入学する春休みに、一人で九州の長崎の一ノ瀬さんの家を訪ね、長崎や雲仙を案内してもらい、平戸を回って、山陽路の尾道から松江に渡り、佐多岬の突端までバスで行き、九州の国東半島を文語海峡を挟んで間字かに見た。そして伊予から田宮寅彦の小説で有名な足摺岬に行き、高知から讃岐に出て、岡山、倉敷をめぐり、大阪から紀伊半島の勝浦、伊勢へ、伊勢神宮に参り東京に帰るという大旅行をした。四国を訪ねたのはその時が初めてであった。
 伊勢には昔、父が銀座のスエヒロに勤めていたころ、松坂牛の肉を運ぶトラックの運転をしていたので、それに便乗して行ったことがある。当時は高速道路もない時代で、国道一号線を一日かけて走ったのだ。これも小学生の時であった。道中に見た菜の花畑の美しかったことが印象に残っている。
父は明治四十三年の生れで、水戸の出身で昇といい、、兄光夫と弟三郎の三人兄弟であった。三郎は昭和ニ十一年三十三才で死亡している。母はフク、父は由三といい、由三は大正十一年一月に亡くなっている。早くに父親を亡くした。兄弟二人の子供時代の写真があり、兄光夫はスーツを着ていたが、父は丁稚姿の和服に鳥打帽子であった。早くから奉公に出されたのだ。父は妻となる高萩久子の母の姉あきに育てられ、母フクよりこのあきさんを親のように大事にしていた。父が水戸に墓を作ったとき、この高萩あきの名を墓標に刻んだ。遺骨はないにもかかわらず。
軍司の家は本家は水戸でも由緒ある家で、江戸時代天保八年十一月に初代軍司富右衛門が七十九才で亡くなっている。水戸の偕楽園の石碑に水戸藩に何か寄付を行ったとして名前が残されていて、父と水戸へ墓参りに行った折に、誇らしげに案内してくれたものだった。それが父の祖父の段階で相続が長男から末弟に移ったために財産を貰えなくなってしまい、正統から外れてしまったという。
もしそうでなければ、水戸に何がしかの土地を得ていたのだと言っていた。それ以前に軍司は水戸で呉服屋「越後屋」という暖簾で大きく商いをしていたが、父の祖父の代の折、浅草の芸者に入れ揚げて身上を潰してしまったのだと言う。この軍司の家の物語は小説になる。
母フクは助川といい、水戸大工町の角の大きな鰻やの娘であった。もともと身持ちの良いほうではなかったようで、亭主が死んだあと女郎屋にいたという話もある。勝手気ままな母親を父はあまりこの母を好いてはいないようであったが、戦後、大森で一緒に暮したので、私も知っている。年寄りにしては艶っぽさがあったと、子供心に思ったが、孫として可愛がられたというほどの思いはない。
父は苦労して成人し、軍隊に入営する。自動車の運転をどこで習得したのか聞き損ねたが、昭和初期から自動車を運転していた。天皇の観閲式で宮様を乗せて車両を運転したことが自慢で、兄光夫も宮様を乗せて行進したのだが、車が途中でエンコしてしまい、それ以来光夫は二等兵のままで昇進することなかったという。
 父が母久子と結婚したのは昭和十一年、ニ・ニ六事件の起こる数日前で、伊豆大島の新婚旅行から帰ってくると東京が騒然としていることに驚いたと言う。久子は三人姉妹と弟一人の兄弟の長女で妹二人と弟とは母親が違い、先妻の子であった。もともと磐城の炭鉱で働いていた父親について九州に移った娘時代に陸軍中尉の家に奉公にあがり、そこの奥様に躾られたという。次女はとても若いときはきれいで当時の映画から誘いがあったという。確かに若い三人姉妹の写真を見たことがあったが、美人であった。しかし美人というのはどうも男運に恵まれない。後年二人の夫とも死別し、病もちの生活をおくった。
父昇と久子は許婚であったという。所帯を港区芝に持ち生活をはじめたというが、隣が映画館のためよく映画を盗み見していたそうであった。結婚した翌年十二年に軍隊に召集され、中華事変で派遣され、十六年に一旦除隊した後、軍属で自動車の助教として軍隊にいた。南京で終戦を迎え、上海で引き上げの時期を待ったという。中国では妻久子とも一緒で、中国軍から残留して欲しいと望まれたそうだが、昭和二十一年に帰国し、大森駅の近くに住んだ。子の頃、母の割烹着姿に抱かれている私の写真がある。そして大森駅を通る蒸気機関車を見ては興奮していた。ところが人の良い父は家を買う金を騙しとられてしまい、やむなく大森の小さな長屋の一軒に移り住むことになった。大田区大森ニ丁目百七ニ番地であった。その後地名が変って、大森本町ニ丁目となったが、いまではそこが私の本籍である。そしてそこで私の人生、物心がついてからの人生が始まったのだ。

 小歩危、大歩危の渓谷沿いに車を走らせる。対岸をJRの特急列車が見え隠れしながら過ぎて行く。列車は窮屈そうに谷を走る。トンネルを出たり入ったり、車としばらく競争していた。大歩危をすぎて、祖谷にむかった。平家の落人の集落という山深い集落を訪ねることにした。昔行き損ねたかつら橋を見に立ち寄った。今やこの山奥も観光スポットとなって土産物屋が軒を連ねている。以前に思ったほどの感動はなかった。早々にして立ち去り、再び32号線を吉野川に沿って南下する。ますます山路は険しくなってくる。

     雨降りて危しいい道に吉野川細りて土佐へ導ける
国境のトンネルを幾つか抜け、下り道にかかると南国土佐に入った。雨も上がり、午後五時頃高知の駅前に着いた。観光案内所にて安宿を紹介してもらい、荷を置きに行く。ホテルから森下さんに到着の電話を入れる。高知はちょうど祭りの最後の日とかで、賑やかな雰囲気が漂っていた。森下さんご夫妻がわざわざ迎えに来て下さって、家まで案内して頂いた。森下さんの娘さん家族と一緒に、近くの中華料理店で豪華に夕食を頂く。徹夜に近い運転であったのでかなり疲れていたが、この一時はとても楽しかった。
森下さんとは上海で日本への帰国を待つ宿舎で一緒であったという。九州長崎の一ノ瀬さんもその時の知り合いである。森下さんは父より若く、森下さんの奥さんが母久子に,遠藤を良く見てもらったのだといい、当時のことをとても感謝しているのだ。とても明るい性格の女性で、しゃきしゃきしていて豪快な面もある。

父が中国に単身でいた頃、軍曹になった頃に従軍看護婦と一緒に撮った写真があった。母はその写真を見て、看護婦の手が綺麗なので、「これは芸者ではないか」と言ってかなり悋気を起こしたようで、その後、母は中国に渡ったという逸話がある。小柄ではあるが、私の母は燐として品があった。あの陸軍中尉の奥様に躾られたものだと思う。終戦の戦地にあって、多分母は混乱の中にあっても他人を思いやり、自分を失わないで明るく振舞っていたのだと思う。母からは当時のことを聞く機会がなかった。父は母には頭が上がらなかったと思う。不器用に母を愛しているのが私にはよく判っていたし、母も父を大事にしていた。小学三年のころだろうか、夕食の時に父がお膳をひっくり返して、母を起こったのか、ともかく一度だけ物凄い夫婦喧嘩をした。夜遅く私は母に手を引かれながら、大森海岸の高萩の実家にとぼとぼと歩いて行った。京浜急行の踏切を無言でうつむきながら渡った夜を覚えている。そんな時が一度あった。

昔話に花が咲き、お酒も程よく回って、父は上機嫌で楽しそうだった。やはり高知まで来てよかったと思った。この時森下さんがビデオを撮った。それが父の最後の姿を残すものとなった。父は料理もあまり多くを食べなかった。ビールは飲んだ。食べないことの方が気がかりであった。
                                                     
大陸に生死をともに賭けたれば顔くしゃくしゃにして語りをり
     遥々と訪ねて友と交わす酒元気であれと父はげましぬ

夜十時頃、明日のこともあり、父の身体も気遣って、楽しかった森下さんの家を辞してホテルにもどった。一息ついて父と風呂に入った。父の痩せ衰えた体を見て、老いの著しいことに驚いた。それでも父が病気であるとは考えても見なかった。私の不覚である。弁解の余地もない。もうすでに癌に犯されていて、年齢のため進行がはやくないので判らなかったのだ。父の皺皺になった身体を見るのは辛かった。いつまでも親は元気だと勝手に思いこみたいのだ。やはり悲しい。

     病とは思いもせずに盆の旅痩せた父の背を洗う
     安宿をえらんて悔やむ祭りの夜素泊り用の狭き部屋かも

翌朝七時に起きて、木賃宿風の朝食をとり、出かける。森下さんの家を訪ね改めて礼を述べ、再会を約して室戸岬に向かう。今日は太平洋に沿って走り、徳島、鳴門から淡路島に渡り明石へのコースをとる。天気は定まらず、南洋のスコールが降るような雰囲気のままであった。ひたすら室戸へと走る。午前十時頃室戸市に入る。漁船が並ぶ港町である。街中を抜けさらに二十分ほどして、岬の公園に入る。しかし灯台は見えない。はるか昔に旅行した記憶も定かではなく、中岡慎太郎の銅像があったことだけを覚えていた。バス停のそばの小さな売店に入って休憩する。売店のおばさんに、父が戦前三越百貨店で室戸岬の観光紹介があったこと、それはとても盛況で、その時に展示された室戸岬の朝から夕方へと一日の変化を表した模型がとてもすばらしかったことを思い出して、その時の興奮を伝えるかのように珍しく多弁になって話す。聞いている方は想像もつかないが、急に思い出したのだろう。父は室戸岬にきたことは無かった。話した後で牛乳一本を飲む。店を出てから、父に灯台からの雄大な太平洋を是非とも見せたいと思い、灯台への道を捜した。以外とわかりずらくて迷ってしまったが、人がいる処をここだときめて歩くことにする。
「オヤジ、灯台見に行こうよ。ここまで来たんだから、ゆっくり歩けばいけるよ。」
「ここにいる。いいからカツミ行ってこい。」
「そんなこと言わないで、手を引いていくから、太平洋を見ようよ。」
雨が今にも降りそうな感じであったし、少し急な坂道になっている。熱帯の樹林の中を歩く面持ちである。灯台まではその樹林の中を行く。父にはきつい道である。いかないと言ったが、ゆっくりでよいから行きましょうと言って、歩きだした。傘を杖代わりにして一歩一歩進む。最初の坂道は五十メートルほどであったが、何度も休みながら進んだ。平坦な場所で立ち止まり、坂道を振り返る。父もうれしそうに振り返った。あとは平坦な道であった。灯台の白い姿が木の間から見えてほっとした
  
岬への坂道足ひき歩く父 振り返り大きな深呼吸する
  背おいても父に見せたし灯台は大海原にただ真白なり

灯台の管理事務所のすぐ下に灯台はあった。さらに急な坂を下りないと灯台にはいけないので、事務所の庭から灯台と太平洋を眺めることにした。
「ここからは急だから、どう太平洋は。でも天気が危ないな」
「・・・・・」
しかし、天気がついに崩れて、ポツリポツリと降りだした。海上は晴れているのだがスコールのようになってきた。楽しむ暇もない。樹木から落ちる雫は大粒である。

  大粒の雨 足ひく父にさす傘がない 父の手を握りしめる
少しでも濡れないように父の肩にタオルをかけ、足元が覚束ないので傘を杖にする。笠を差すわけにもいかない。
「背負うかい。歩くの大変だから。」
「いい、歩く。」がんこに言い張る。
見っとも無いことなどできないと言う、明治男の自負みたいなものがある。それは分かっているのだが、風邪にでもなったら大変なので、私も気が気でない。時折強く雨が降るが、両足を摺るようにしか前に進まないので、濡れるしかない。少しでも早く車に戻りたかった。他の観光客の人達も大変ですねといいたげに目で挨拶して小走りに通る。帽子は被っていたので頭は濡れずに済んだ。わずかな短い距離がこの時ほど遠くに感じられ、雨を恨んだ。宿るところもない岬の山道。背負うと言うと歩くと言う。背負えば恐らく啄木と同じ思いをしたにちがいない。ようようの思いで車に辿りつくや、タオルで父の服を拭き、身体が冷えないようにと膝掛け用の毛布で包んで座席に座らせた。この時ほど裕子がいればと思ったことはなかった。

  濡れた父をタオル毛布に包む、風邪めされなや旅の雨なら

雨も間もなく穏やかになったが、降り続いている。ほうほうの体で室戸岬を後にした。
一路徳島に向かう。雨は降ったり止んだり落ち着かない。海岸線の道は車を走らしていても、中々飽きることがない。空は鉛色に鈍よりとしているが、太平洋の広がり、波の白い色がくすんだ藍色の海にアクセントをつける。
「寒くないかい。大丈夫?」
[ああっ。・・・]
途中太平洋に大きな虹が現れた。父は車に乗ると、前を見つめているだけで、「虹がでているよ」と言っても興味を示さない、が父の様子を見ると大丈夫そうなので、やれやれと思った。昼時分、途中の田舎の食料品屋でパンを買い、昼食とした。レストランのような飲食店など少ない田舎の国道を、休むことなく車を走らせ、ともかく鳴門に着きたいと思った。

父と私は三十六才離れている。私が高校を終わるときには五十四才になっていたことになる。京浜急行の平和島駅で新聞の売店の権利をフクから引き継いで母と二人でやっていた。私は家が豊ではないことを知っていたので、就職しようと思っていたが、クラスの男子で就職希望は私と淵君だけだった。朝日新聞の大田区の印刷工場で月給が一万六千円だった。当時この条件はとても高い方で、男で一万ニ千円、女子だと九千円くらいの相場であった。高校では生徒会活動で二年執行委員長、所謂生と会長をやり、大森高校では名物生徒であった。
私は父に大学を一つだけ受けさせて欲しいと頼んだ。入学金と授業料は心配するなといわれたが、私は一番授業料と入学金の安くて特徴のある学科を持っている大学を探し、神奈川大学の商法学部貿易学科を受けた。もしこの時、大学に行けなかったなら、私の人生は本当に変わってしまっただろう。運良く合格したこともあったが、この父の許しがなったなら進学はできなかった。その後も大学院まで進んだのだから、修士過程を終了したのが二十五才、父は六十を過ぎていた。そこまで親に負担を掛けた。その頃は深くも考えずにいたが、人並みに世間に出られたのも父のお陰なのだ。
やさしい父であったが、その父と二十歳を過ぎて、一度だけ衝突したことがある。二十一の夏、きっかけが何であったのか思い出せないのだが、私が松本の看護婦の女性と結婚したいと思っていた頃で、原因がそのことであったか定かではない。ただ母をとても心配させてしまった。
父は少年野球にも熱心で、子供たちから「監督さん、監督さん」と慕われて、まだまだ元気で頼り甲斐があった。あれから二十年が過ぎて、いま傍らに無口でおとなしい老人となった父がいる。

吉野川の河口の橋を渡り、徳島の町中をすぎ、鳴門橋の案内標示を見たのは、午後二時頃であったろうか。鳴門橋は、本土とつながっていないため、通行量はそれほど多くもない。橋も瀬戸の大橋のように派手さもなく、おとなしいたたずまいであった。瀬戸の海はここでも晴れて、土佐とは違っていた。しかし、渦潮を見る余裕はない。淡路島のサービスエリアで小休憩をとる。父は相変わらず飄々としている。疲れているのかそうでないのかよくわからない。朝から車の中では眠ってはいない。こちらの方が心配になる。淡路島の海岸線にそって岩屋へと向かう。下り車線の車が多い。帰省のせいであろう。父は乗っているだけで、多くを語らない。午後四時頃岩屋に着く。二十分ほどの待ち合わせで明石へのフェリーが出る。フェリーに乗り込む。ドラがなり出航。静かなものだ。二十分ほどで明石到着。車の中で過ごす。明石港に着いたと思った時、父が
「山が動いている」と、突然言い出した。
「えっ、何、船が動いてるんだよ。いま船が揺れてるの。」
港に着いていままで揺れることも無かった船が上下するのだ。向こうの六甲の山が動いているように見えたのだ。
「明石に着いたんだよ」とを言うと、
「船は動いたのか」と聞く。
「港に着いたよ。」
「そう、あまりにも静かなのでわからなかった」
「静かだったからね。」
フェリーから降り、桟橋から再び車を走らせる。
「何処にいくのか」聞く。
「帰るのだよ。明石に着いたのだから」
「ああっ」と父。

「山動く」と言う父に言葉なく改めて知る老い深まるを
     この旅が父と最後になるのか 言葉少なくハンドルをにぎる
     闇のなかを逃げるように走る 父よあなたの老いが救えない

明石よりは国道を走り、西宮より東名に乗る。午後六時。吹田のエリアで休憩し、食事をとり、東京に向かう。走りに走り、その日の十二時に家に着く。もっと余裕のある旅を父に与えたかった。これより三ヶ月後、父は入院し、癌と判明し、翌昭和六十四年一月、年号の変わった十二日後に他界した。

                               
 平成元年四月記



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