はぐれの雑記帳

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神とは何か:主権在神と主権在民(1)

2020年03月20日 | 思想史関係
神とは何か:主権在神と主権在民(1)

神とは何か(1)主権在神と主権在民。

中国の場合は「党」が神と同じ位置にあって、「主権在党」であろう。この状態がいつまで続くかわからないが、「主権在民」になるにはまだ時間がかかるだろう。
今いる我々は今に生きるしかない。残りもわずかだし、そう考えてみるとなんで争いをするのでしょうね。中国も悠久の歴史4000年というなら、この先の4000年も想定してみてほしいですね。
病気を治しても、「死」は必ず訪れる。恐怖・不安はおそらく未来もあるだろう。古代エジプト人の暮らしと、現代の暮らしとどれほどの違いがあるのか。もしかしたら文明的なものがすべて失せて、太古の暮らしに戻るかもしれない。どういう暮らしが待っているかは遥か未来の人間が開いていくだろう。
過去4000年以上、宗教心は人間は持ち続けたので、持ち続けるかもしれない。化学があらゆる不思議を解明したとしても、さらに不思議が生まれるかもしれない。
でも今後4000年先を考えたら面白いでしょうね。その時に「宗教」は機能しているのだろうか。
西暦3000年の時代も今と変わらないのでしょうか。変わらないかもしれませんね。この後、1000年地球は無事なのだろうか。21世紀はたいして変わらないと思うし、インドが、アフリカが、日本のような暮らしを得るためには、今世紀は必要だろう。でもその先は分からないな。
このイスラム教の「神」のあり方は中国の「党」の在り方と全く同じであると思えるので、今のイスラム世界の出来事と合わせて「主権在神」の思想が歴史的に現代とずれているという思いがします。それと地球の歴史が43億年で、人類の歴史は1万5000年くらいで、歴史を持ったのが、エジプトの紀元前2200年からすれば、4000年程度、あと何千年続くと思いますか?
神から「主権」を奪う過程で「人権」が意識されて「主権在民」になるのだが、中国はなりそうにない。
中国の「神」とは何なのかという疑問も生じるが、形而上学を論じない思想的伝統の中国では、神の威力はさほど威力を持たないのかもしれない。中国では神も政治権力にはひれ伏すのだ。中国の神については別に語ろう。
主権在神という意味での宗教はイスラム教とユダヤ教であろう。他は政治権力を人間に渡している。主権在神と同じ構造が中国にある。「神」の位置が世俗の「党」になっていて、人間が人間を絶対的に支配する形が中国なのだ。ある意味伝統中国の皇帝制度より専制的な支配形態が生まれていると言える。
神と人間の境が厳格なのが、ユダヤ教とイスラム教とプロテスタントと東方正教かな。
インドのヒンズー教と日本の神道とギリシャとローマの宗教はそれぞれが多神教であるが、ローマの宗教は英雄が神に祀られた。カソリックが福者とか聖人とかを認めるのも、どちらかというと人間と神の関係を身近にしている。
イスラム教とヒンズー教の対立を煽ってインドを分割させたのはイギリスの策略である。白人が16世紀以降20世紀までの400年の間に行った行為は罪深いものだ。

「主権在神」について考える。
一神教は押しなべて「主権在神」である。西洋の古代の歴史はギリシャやtローマは世俗的な古代民主主義の今日は共和国、の都市国家から始まり、主権在氏神のエジプトの影響から古代ローマ帝国が世界帝国となる過程で、キリスト教が支配する形態に移行して、中世ヨーロッパと中世アラブ・地中海は一神教のイスラム教が支配する形態となって、一神教同士の戦いとなり、これこそカール・シュミットが定義したような「友と敵」論が現れる。相手の存在を認めない立場に双方が立って十字軍となって対立し、イスラム教ではスンイー派とシーア派が「友と敵」となっている。
キリスト教はイエスが「神のもの」と「皇帝のもの」とを分けたところに、政教分離の根源があるわけで、その他の宗教、特にイスラム教は政教一致が原則であり、「カリフ」の存在が本来なら、秩序を保つ根源であるべきなのだが、シーア派とスンニー派との分裂移行、カリフ制度がなくなってしまった。そいう意味ではイスラム教は統一体としてはとらえられない。
中国では「共産党」信仰とでもいうか、それ自体が宗教化している。ただその宗教にはモラル・道徳律が欠落しているのが特徴だ。
世俗的な宗教状況という意味では、日本と中国はキリスト教国やイスラム世界から見れば世俗的に見えることで類似する。だが、
これを読むとほんとなのかと疑いたくもなるが、真実は突き止めようがない。
別にISISをとやかく言うつもりはない。ある意味狂信的な面がある。
初めて目にした言葉でした。言われてみればそのとおりで、イスラムの側から見れば、人民はアラーの神の支配にゆだねるということになる。この構造はユダヤ教の態度と同様のものと言えそうだ。聖書に書かれていることがすべての規範になり、その通りに一生を終えることで、神の救済を得るということだ。
「イスラム戦争」の「主権在神」という言葉に反応しました。
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「主権在神」の思想平易に解説
 イスラム戦争  内藤正典著
 著者はイスラム国の主張を「暴力的なものに集中」と非難する。一方、イスラム国が世界の信徒を政治面で指導する「カリフ」を復活させたことに対しては「痛いところを突いてきた」とイスラム諸国が受け止めると推測し、一定の影響力を認める。 世界16億人の信徒を「味方にするか、敵に回すか」。考えるための材料はこの本にある。(集英社新書・760円)

 こうしたメッセージが、多文化共生論を専門とする著者から伝わる。パリで1月に起きた一連の襲撃事件や過激派「イスラム国」の台頭を受けイスラムの特異性を強調する論調が日米欧で目立ってきている。だが、イスラム側に立って考えてみる本書のようなアプローチはなお少ない。預言者ムハンマドの肖像を雑誌に載せることがなぜ信徒の逆鱗に触れるのか、世俗の日本人でもわかるように平易な言葉で書かれている。
日米欧が属する民主主義制度では、社会を動かす主権が国民にある。これが「主権存民」の考え方だ。だが、イスラム世界は主権を神が握る「主権在神」である。信徒が従うのは神が用意した法で、その範囲の内側では自由を享受できる。人間がつくった法に従う日米欧の体制とは異なるこのような事情を知らなければ、宗教と政治の分離が前提となる日米欧の世俗社会とイスラムは理解しあえない。
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ひとつはイスラム教に関するもの。二つ目は日本の「神」に関するものです。
2015-02-15の日経の書評欄から、気になるものを取り上げてみる。(以前下書きのままであったのを取り上げます。)
中国は宗教を政治的に弾圧することをいとわない。日本との大きな違いだ。日本は宗教に対して寛容である。でも「宗教」が人を支配する、または被支配を受け入れることで、充足感を得るというのは、日本人にはとても理解するのが難しいことだろう。
(未完)
2017-08-15 23:19:08 アメーバーブログ