先日、ミニのランドセルを購入したことで、忘れていた自分のランドセルの事を思い出し、それに関連して当時の同級生の事を思い出しました。
私が小学校に入学するころは、『もはや戦後ではない』という言葉が流行した高度成長期の真っ只中でした。
自営業だった私の家は、特別裕福でもなかったけれど、貧困でもない、普通の暮らしをしていたように思います。
私の小学生の頃は、ランドセルと言えば、黒と赤でした。
それ以外の色はほとんど見たことがない中、私のランドセルはピンクでした。
私の家は、皮製品を扱う家庭内工業だったので、その関係で皮のランドセルを購入したんだと思います。
どこかお店に見に行ったという記憶はなく、いつの間にかピンクのランドセルが家に来たという感じでした。
多分、父のすぐ上の兄である伯父が買ってくれたんだろうと思います。
私の父は、家で革製品を作っていましたが、叔父が仕入れや営業などの外交をしていました。
皮の仕入れも叔父がしていたので、その関係で叔父が買ってきてくれたんだろうと思います。
学校のみんなが男の子は黒、女の子は赤のランドセルを背負っている中、私だけピンクのランドセルは、何となく嫌でした。
私もみんなと同じ赤いランドセルが欲しいと思っていました。
2~3年生の頃だったと思います。
当時は授業中にランドセルを自分の椅子の背中にかけていたように思うのですが、給食の時、後ろの席の子が誤って脱脂粉乳を私のランドセルの上にこぼしてしまいました。
熱い脱脂粉乳がかかったため、私のランドセルは広範囲に脱脂粉乳の跡がくっきり残りました。
当時のものですから、塗りの素材も悪かったのではないかと思います。
家に帰ってから、母が脱脂粉乳の跡を消すために色々やっていたようですが、その跡は残ったままでした。
それがきっかけで、私は念願の赤いランドセルを買って貰うことができました。
そして、脱脂粉乳がこぼれたピンクのランドセルはまさえちゃんという近所の同級生が使うことになりました。
まさえちゃんは、目が大きくて長いまつげの女の子でした。
可愛いとか美人とかではありませんでしたが、目に特徴のある女の子でした。
まさえちゃんの家は、貧困家庭だったと思います。
家・・・というか、家と言っても古い木材を立てて、トタンが上に積んであるだけみたいな掘っ立て小屋のようなところに住んでいました。
まさえちゃんのお母さんは、おばあさんと言ってもいいくらい、かなり年を取っているように見えました。
髪は白髪だったし、歯がほとんどなくて、腰も曲がっていました。
歯がないので、笑っても怖い感じで、声はしわがれ声だったので、私は何となく近寄りにくい感じがしていました。
いつも黙々と何かをしていて、私たち子供に声を掛けることもなかったので、余計に怖い感じがしました。
まさえちゃんのお母さんは、廃品回収業のようなことをして生活していました。
曲がった腰で、リヤカーを引いている姿をよく見かけました。
まさえちゃんの家の前は広場のようになっていて、私たちはよくそこで遊んでいたのですが、お母さんがリヤカーの荷物の積み下ろしをしている姿を思い出します。
噂によると、お父さんは刑務所に入っているという事でした。
何をして刑務所に入るようなことになったのかは知りませんが、それは噂だけではなくて、本当だったと思います。
私は、子供心にそういうことは、聞いてはいけないような気がしていたので、直接まさえちゃんに聞いたことはなく、お父さんはいないものとして付き合っていたように思います。
まさえちゃんには、二人のお兄さんと妹と弟がいたように記憶しています。
二人のお兄さんとは年が離れていて、二人はすでに義務教育は終えていたようです。
当時、二人のお兄さんが何をしていたのかは知りませんが、ほとんどお兄さんの姿を見ることはなく、お母さんが仕事をしている間、まさえちゃんが妹と弟の面倒をみていました。
まさえちゃんは私と同じ年だったので、低学年の頃はよく一緒に遊びました。
当時はまだテレビのある家庭は少なかったので、まさえちゃんは夜になると私の家にテレビを見に来ました。
学校が終わってからも学校が休みの日も、よく一緒に遊びました。
まさえちゃんとはそんな関係だったので、母が私が使わなくなったランドセルの事を話すと、まさえちゃんはランドセルを使いたいと言ったようです。
まさえちゃんにとっては、その脱脂粉乳で汚れたランドセルが初めてのランドセルだったらしく、それを喜んで使っていました。
その時まで私は、まさえちゃんがランドセルを背負っていないことに気づきませんでした。
今のように集団登校ではなかったし、まさえちゃんと一緒に学校へ行ったことはなかったので、どんな風に通学していたのか知りませんでしたし、気にもしていませんでした。
高学年になるにつれて徐々に友達も変わり、私も近所の友達より学校の友達と遊ぶようになり、徐々にまさえちゃんとは縁遠くなりました。
5年生くらいの時に一年間だけ、まさえちゃんと同じクラスになったことがありました。
まさえちゃんは、あまり勉強は得意ではなかったようで、クラスの中でもどちらかというと目立たない存在だったように思います。
一度だけ席替えで、私のすぐ後ろの席にまさえちゃんが座ったことがありましたが、まさえちゃんは、そのことをとてもうれしそうにしてくれました。
まさえちゃんが、あるテストの時、とても良い点を取った事がありました。
勉強は得意ではなかったまさえちゃんなので、いつもテストは出来が良くなかったのにその時だけは、良い点数でした。
周囲の子供たちは、まさえちゃんがカンニングをしたのではないかと言い出しました。
「アイツにあんな良い点が取れすはずはない」
と、男の子も女の子も言っていました。
その時、まさえちゃんの席の前には、クラスで一二を争うくらい勉強ができる女の子が座っていたので、テスト中にその子の答案を盗み見たのではないかと、みんなは言いました。
みんなにそう責められて、まさえちゃんは、否定も言い訳もせずに、黙って下を向いたままでした。
私は半信半疑でした。
そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
まさえちゃんが特に否定も肯定もしないのでそう思いましたが、特にまさえちゃんにそのことを質問することもしませんでした。
たまたま見えちゃったのかもしれないと思いました。
でも、その後もまさえちゃんは、そんなことを気にしている様子もなく、いつも通りでした。
その後、私は、地元の中学校へは行かなかったので、余計にまさえちゃんとの接触はなくなりました。
まさえちゃんとの接触は、5年生の時に同じクラスになったのが、最後だったように思います。
私が中学生の頃、まさえちゃんのお父さんが帰ってきたと言う噂を聞きました。
刑を終えたんだと思います。
一度くらい、私もお父さんの姿を見たような気がします。
そして、これであの腰の曲がったお母さんも楽になるだろうなとほっとしたのを覚えています。
その後は、私も自分の人生を歩み、まさえちゃんがどうしているのかすら思い出すことはありませんでしたが、実家に帰った時に母から、まさえちゃんの話を聞きました。
上二人のお兄さんが父親と同じ道を歩いてしまい、刑務所に入っているということ、まさえちゃんは未だに独身で、そのお兄さんたちの子供の面倒をみているということでした。
まさえちゃんがお兄さんの子供の面倒をみているという事は、お兄さんの奥さんたちもいなくなってしまったのかなと思いました。
それから数年後、私の父の葬儀の時、お焼香に来てくれた人の中にまさえちゃんの姿を見つけました。
まさえちゃんはお焼香が済むと、家族席に座っていた私をじっと見て、声を出さずに私の名前を呼びました。
口の動きで、私の名前を呼んだのがわかりました。
そして、
「大丈夫?」
と、まさえちゃんの口は動きました。
私は、大きく頷きました。
途端に涙があふれました。
何年ぶり、いや何十年ぶりかにまさえちゃんと話がしたいと思い、葬儀の後、まさえちゃんの姿を探しましたが、見つかりませんでした。
まさえちゃんとは、それっきりです。
その後、まさえちゃんもどこかへ引っ越していったというのを母から聞きました。
父の葬儀の時に、まっすぐに私を見ていたまさえちゃんの大きな目と長いまつげを思い出しています。
私が小学校に入学するころは、『もはや戦後ではない』という言葉が流行した高度成長期の真っ只中でした。
自営業だった私の家は、特別裕福でもなかったけれど、貧困でもない、普通の暮らしをしていたように思います。
私の小学生の頃は、ランドセルと言えば、黒と赤でした。
それ以外の色はほとんど見たことがない中、私のランドセルはピンクでした。
私の家は、皮製品を扱う家庭内工業だったので、その関係で皮のランドセルを購入したんだと思います。
どこかお店に見に行ったという記憶はなく、いつの間にかピンクのランドセルが家に来たという感じでした。
多分、父のすぐ上の兄である伯父が買ってくれたんだろうと思います。
私の父は、家で革製品を作っていましたが、叔父が仕入れや営業などの外交をしていました。
皮の仕入れも叔父がしていたので、その関係で叔父が買ってきてくれたんだろうと思います。
学校のみんなが男の子は黒、女の子は赤のランドセルを背負っている中、私だけピンクのランドセルは、何となく嫌でした。
私もみんなと同じ赤いランドセルが欲しいと思っていました。
2~3年生の頃だったと思います。
当時は授業中にランドセルを自分の椅子の背中にかけていたように思うのですが、給食の時、後ろの席の子が誤って脱脂粉乳を私のランドセルの上にこぼしてしまいました。
熱い脱脂粉乳がかかったため、私のランドセルは広範囲に脱脂粉乳の跡がくっきり残りました。
当時のものですから、塗りの素材も悪かったのではないかと思います。
家に帰ってから、母が脱脂粉乳の跡を消すために色々やっていたようですが、その跡は残ったままでした。
それがきっかけで、私は念願の赤いランドセルを買って貰うことができました。
そして、脱脂粉乳がこぼれたピンクのランドセルはまさえちゃんという近所の同級生が使うことになりました。
まさえちゃんは、目が大きくて長いまつげの女の子でした。
可愛いとか美人とかではありませんでしたが、目に特徴のある女の子でした。
まさえちゃんの家は、貧困家庭だったと思います。
家・・・というか、家と言っても古い木材を立てて、トタンが上に積んであるだけみたいな掘っ立て小屋のようなところに住んでいました。
まさえちゃんのお母さんは、おばあさんと言ってもいいくらい、かなり年を取っているように見えました。
髪は白髪だったし、歯がほとんどなくて、腰も曲がっていました。
歯がないので、笑っても怖い感じで、声はしわがれ声だったので、私は何となく近寄りにくい感じがしていました。
いつも黙々と何かをしていて、私たち子供に声を掛けることもなかったので、余計に怖い感じがしました。
まさえちゃんのお母さんは、廃品回収業のようなことをして生活していました。
曲がった腰で、リヤカーを引いている姿をよく見かけました。
まさえちゃんの家の前は広場のようになっていて、私たちはよくそこで遊んでいたのですが、お母さんがリヤカーの荷物の積み下ろしをしている姿を思い出します。
噂によると、お父さんは刑務所に入っているという事でした。
何をして刑務所に入るようなことになったのかは知りませんが、それは噂だけではなくて、本当だったと思います。
私は、子供心にそういうことは、聞いてはいけないような気がしていたので、直接まさえちゃんに聞いたことはなく、お父さんはいないものとして付き合っていたように思います。
まさえちゃんには、二人のお兄さんと妹と弟がいたように記憶しています。
二人のお兄さんとは年が離れていて、二人はすでに義務教育は終えていたようです。
当時、二人のお兄さんが何をしていたのかは知りませんが、ほとんどお兄さんの姿を見ることはなく、お母さんが仕事をしている間、まさえちゃんが妹と弟の面倒をみていました。
まさえちゃんは私と同じ年だったので、低学年の頃はよく一緒に遊びました。
当時はまだテレビのある家庭は少なかったので、まさえちゃんは夜になると私の家にテレビを見に来ました。
学校が終わってからも学校が休みの日も、よく一緒に遊びました。
まさえちゃんとはそんな関係だったので、母が私が使わなくなったランドセルの事を話すと、まさえちゃんはランドセルを使いたいと言ったようです。
まさえちゃんにとっては、その脱脂粉乳で汚れたランドセルが初めてのランドセルだったらしく、それを喜んで使っていました。
その時まで私は、まさえちゃんがランドセルを背負っていないことに気づきませんでした。
今のように集団登校ではなかったし、まさえちゃんと一緒に学校へ行ったことはなかったので、どんな風に通学していたのか知りませんでしたし、気にもしていませんでした。
高学年になるにつれて徐々に友達も変わり、私も近所の友達より学校の友達と遊ぶようになり、徐々にまさえちゃんとは縁遠くなりました。
5年生くらいの時に一年間だけ、まさえちゃんと同じクラスになったことがありました。
まさえちゃんは、あまり勉強は得意ではなかったようで、クラスの中でもどちらかというと目立たない存在だったように思います。
一度だけ席替えで、私のすぐ後ろの席にまさえちゃんが座ったことがありましたが、まさえちゃんは、そのことをとてもうれしそうにしてくれました。
まさえちゃんが、あるテストの時、とても良い点を取った事がありました。
勉強は得意ではなかったまさえちゃんなので、いつもテストは出来が良くなかったのにその時だけは、良い点数でした。
周囲の子供たちは、まさえちゃんがカンニングをしたのではないかと言い出しました。
「アイツにあんな良い点が取れすはずはない」
と、男の子も女の子も言っていました。
その時、まさえちゃんの席の前には、クラスで一二を争うくらい勉強ができる女の子が座っていたので、テスト中にその子の答案を盗み見たのではないかと、みんなは言いました。
みんなにそう責められて、まさえちゃんは、否定も言い訳もせずに、黙って下を向いたままでした。
私は半信半疑でした。
そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
まさえちゃんが特に否定も肯定もしないのでそう思いましたが、特にまさえちゃんにそのことを質問することもしませんでした。
たまたま見えちゃったのかもしれないと思いました。
でも、その後もまさえちゃんは、そんなことを気にしている様子もなく、いつも通りでした。
その後、私は、地元の中学校へは行かなかったので、余計にまさえちゃんとの接触はなくなりました。
まさえちゃんとの接触は、5年生の時に同じクラスになったのが、最後だったように思います。
私が中学生の頃、まさえちゃんのお父さんが帰ってきたと言う噂を聞きました。
刑を終えたんだと思います。
一度くらい、私もお父さんの姿を見たような気がします。
そして、これであの腰の曲がったお母さんも楽になるだろうなとほっとしたのを覚えています。
その後は、私も自分の人生を歩み、まさえちゃんがどうしているのかすら思い出すことはありませんでしたが、実家に帰った時に母から、まさえちゃんの話を聞きました。
上二人のお兄さんが父親と同じ道を歩いてしまい、刑務所に入っているということ、まさえちゃんは未だに独身で、そのお兄さんたちの子供の面倒をみているということでした。
まさえちゃんがお兄さんの子供の面倒をみているという事は、お兄さんの奥さんたちもいなくなってしまったのかなと思いました。
それから数年後、私の父の葬儀の時、お焼香に来てくれた人の中にまさえちゃんの姿を見つけました。
まさえちゃんはお焼香が済むと、家族席に座っていた私をじっと見て、声を出さずに私の名前を呼びました。
口の動きで、私の名前を呼んだのがわかりました。
そして、
「大丈夫?」
と、まさえちゃんの口は動きました。
私は、大きく頷きました。
途端に涙があふれました。
何年ぶり、いや何十年ぶりかにまさえちゃんと話がしたいと思い、葬儀の後、まさえちゃんの姿を探しましたが、見つかりませんでした。
まさえちゃんとは、それっきりです。
その後、まさえちゃんもどこかへ引っ越していったというのを母から聞きました。
父の葬儀の時に、まっすぐに私を見ていたまさえちゃんの大きな目と長いまつげを思い出しています。