はーちゃんの気晴らし日記

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父、15回目の命日

2016年09月13日 | 回顧録
昨日は、父が亡くなってから15年目の命日でした。

実は、忘れていました。
父の命日も15年目だという事もすっかり頭から抜けていました。
でも、9.11アメリカ同時多発テロのニュースを見て、気が付きました。

あのテロの翌日に父が亡くなったので、私が忘れていてもニュースが思い出させてくれます。
あれからもう15年も経つんだなぁと主人と話しました。

先日、ウォーキング途中に聞いていたラジオで、阿川佐和子さんと黒木瞳さんの対談があり、昔の父親の威厳という話が出ていました。
お二人とも、父親と話をする時は、”緊張した”とか”正座をして話した”とか”敬語を使っていた”と言っていました。
へぇ~でした。
私より若いお二人ですが、とても厳格なお父さんだったようです。
”地震、雷、火事、親父”と怖いものを並べて言ったものですが、最近は、死語になってしまっているくらい、そんなに厳格なお父さんはいなくなってしまったと思います。

私の父は、私たち子供に対しては、ただただ優しい父でしたが、亭主関白を地で行ったような人でした。
母に対しては絶対君主みたいな感じで、すべて自分の思った通りに事を運ぶ人でした。

父の子供の頃は、名古屋の裕福な商家でわがまま放題に育ったらしく、そんな生い立ちが原因で、母に対してだけわがままが出てしまったのだろうかと思ったりします。
父の家はその後倒産し、一家は逃げるように東京に出てきたらしいのですが、父はその後、出兵して苦労することになります。
中国で捕虜になった父は、終戦後帰国し、母と結婚しました。

亭主関白ではありましたが、父は、掃除、洗濯など積極的に母を手伝っていました。
兵隊で、苦労したせいもあるかもしれません。
家庭内工業で、母が家事と仕事の両立で忙しかったのを気遣ったのもあるのかもしれません。
結構、マメに家事を手伝いながら、家の中を動いていたという印象があります。
でも、何かあると
「手伝ってやっている!」
という言葉を口にするらしく、母は、陰で
「そんなことを言われるくらいなら、何も手伝ってくれなくても良いのに・・」
と愚痴をこぼしていました。

父の事をあれこれ思い出しているうちに、父が運転免許を取った時のことを思い出しました。

当時の私の家は、家の一部に工場とも言えないような狭い仕事場を作り、パートさんや集団就職で出てきた住み込みの人たちがそこで働いていました。

集団就職で出てきた人たちが運転免許を取れる年齢になったころ、父は車を買いました。
その人たちが免許を取って、その車を運転していたのですが、父は自分が運転できないのが格好がつかないと思ったのかもしれません。
突然、
「オレも免許を取る」
と言い出して教習所へ通い出しました。
若い人とは違い、免許を取るまでにはずいぶん時間もお金もかかったように思います。
やっとのことで免許を取りました。
父としては、意地で取った免許でした。

免許を取った後、父は母と私と弟を乗せて、初めて路上を運転しました。
私の家は、環状七号線の近くで、どこへ行くにもたいていそこを通らなければなりません。
環七は、今ほど車の量は多くありませんでしたが、それでも交通量が多い場所です。

その日は、雨が降っていました。
環七の交差点に差しかかった時、父は右折が上手くできなくて、交差点の真ん中でエンストしてしまいました。
当時の車はマニュアル車しかなかったので、アクセルとクラッチの連動が上手く行かないと、車はエンストしてしまいます。
父は相当焦ったと思います。
まだ子供だった怖いもの知らずの私も弟も、その時ばかりは、かなり不安になりました。
母は、黙っていましたが、たぶん相当不安だったと思います。
季節がいつ頃だったのか全く記憶がありませんが、当時は、車にエアコンなどない時代です。
狭い車の中は、焦る父とハラハラしながら、黙って父の様子を見ていた私たちの息で、曇り始めていました。
交差点の真ん中で立ち往生して、父は必死でエンジンをかけて、車はガックンガックンしながら交差点を通り抜け、なんとか無事に家に帰ってきました。

その時の事がよほど堪えてしまったのか、父はそれ以降、車を運転しませんでした。
「もう、運転はしない」
と、言っていました。
何のためにあんなに時間とお金をかけて運転免許を取ったのか、
「それなら最初から免許なんか取らなければ良かったのに」
と、今の私なら言ったと思いますが、その時も母は何も言いませんでした。
でも、環七の交差点での事を思い出すと、父が運転するのを止めたのは正解だったのかなと思います。

父は、私と同じくらいの年齢でアルツハイマーになり、15年前に亡くなるまで、母は看病でずいぶん苦労したようでした。
私たちには、とても優しい父でしたが、母の苦労ばかりが思い出されます。


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