玄界灘を越えて青井戸 二十八
宗湛が初めて上洛し、島井宗室の案内で織田信長に謁したのは天正十年の早春だった。
その年の六月、本能寺の変で信長は自刃した。
宗湛はこの時、呉器茶碗を信長に進呈している。
オレは度々、宗湛の茶会に招かれた武将や大商人のふるまいを眼にしていた。
そして宗湛はオレを茶室に保管したまま上洛したのだ。
オレは信長に進上した呉器茶碗に思い出がある。点柱は白磁の呉器茶碗や大盒を儒教の祭祀用として焼いている。
呉器は高台が大きく外にひらいた朝鮮風な大ぶりの碗である。
点柱とそう遠くない邑に李哲五の窯があった。
その頃は倭館のもろもろの定めはそう厳しくはなかったので、恒居倭人も館への出入りも黙認されていて、なかには、茶心得のある武士と接触し、その求めに応じて釜山周辺の陶磁窯に出向き、倭国茶の湯にふさわしい茶碗を注文したが、その中に点柱と親しい李哲五の窯もあった。
オレは欽玄からあやしい卜占師、寒山の手に渡り、釜山浦倭館の小笠原菊之丞から藩主へ、そして宗湛の世話になった。
それまで十数回の出番があって、その都度、客の武士逹の称賛をあびてオレは満足だった。オレが博多にきて五年がすぎようとしていた。宗湛はいつ手にしたのか呉器を所有していた。
それが分かったのはある日、オレは水屋の棚の特別席でいつものように瞑想三昧にふけっていると、コトンと音がしたので見ると、オレの国からやってきた新入りが隣にすわっている。
こつも桐の箱の家にいた。
ある日、宗湛がオレの隣の箱を静かに取り上げて、水屋の畳に置くと、紐をといて茶碗をとりだした。
その姿を見た途端、オレは飛び上がらんばかりに驚いた。
宗湛が初めて上洛し、島井宗室の案内で織田信長に謁したのは天正十年の早春だった。
その年の六月、本能寺の変で信長は自刃した。
宗湛はこの時、呉器茶碗を信長に進呈している。
オレは度々、宗湛の茶会に招かれた武将や大商人のふるまいを眼にしていた。
そして宗湛はオレを茶室に保管したまま上洛したのだ。
オレは信長に進上した呉器茶碗に思い出がある。点柱は白磁の呉器茶碗や大盒を儒教の祭祀用として焼いている。
呉器は高台が大きく外にひらいた朝鮮風な大ぶりの碗である。
点柱とそう遠くない邑に李哲五の窯があった。
その頃は倭館のもろもろの定めはそう厳しくはなかったので、恒居倭人も館への出入りも黙認されていて、なかには、茶心得のある武士と接触し、その求めに応じて釜山周辺の陶磁窯に出向き、倭国茶の湯にふさわしい茶碗を注文したが、その中に点柱と親しい李哲五の窯もあった。
オレは欽玄からあやしい卜占師、寒山の手に渡り、釜山浦倭館の小笠原菊之丞から藩主へ、そして宗湛の世話になった。
それまで十数回の出番があって、その都度、客の武士逹の称賛をあびてオレは満足だった。オレが博多にきて五年がすぎようとしていた。宗湛はいつ手にしたのか呉器を所有していた。
それが分かったのはある日、オレは水屋の棚の特別席でいつものように瞑想三昧にふけっていると、コトンと音がしたので見ると、オレの国からやってきた新入りが隣にすわっている。
こつも桐の箱の家にいた。
ある日、宗湛がオレの隣の箱を静かに取り上げて、水屋の畳に置くと、紐をといて茶碗をとりだした。
その姿を見た途端、オレは飛び上がらんばかりに驚いた。