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聖なる書物を読んで

現役JW29年目

使徒たちの活動24章

2019-01-17 | 聖書
大祭司アナニアたちは、弁士テルトロを伴ってカエサレアへ来る。
フェリクスの前で、テルトロはパウロを訴える。ほうぼうで騒動を起こしている(ローマの平和を乱している)こと、ナザレ人一派で神殿を汚そうとしたことなど。
パウロの弁明。彼らの訴えには証拠がないこと、彼らが派と呼ぶ道に従って、同じ信仰(律法と預言者)と希望(義者と不義者との復活)を持っていること、アジアから来たユダヤ人やサンヘドリンのあなた方が証拠を述べるべきことなど。
フェリクスは裁判を延期(証拠も無く有罪にできないし、無罪にすればユダヤ人の反感を買う)し、パウロを(仲間の世話を受けられる緩さで)留置する。
フェリクスは妻ドルシラと共にパウロの話を聞く。パウロが義と自制と来たるべき裁きについて話すと、フェリクスは恐れる。フェリクスはパウロが金を払う(釈放のための賄賂)と期待し、しばしば話し合う。
2年経ってフェストがフェリクスの後を継ぐ。

この2年間拘留中に、ルカが資料を集めて福音書を書いたというのが保守派の見解。エホバの組織もこれを支持してる。こういうところは保守派なんだよね。聖書の学術的研究には批判的だもんなぁ・・・まぁそういうことをすると、聖書が神の聖霊によって書かれた本だ、という確信が崩れることが分かっているからだろう。でもそういう研究してる人たちの方が、はるかに聖書の内容に精通してる。写本の単語一つ一つを分析してたり、語句の用い方や、文章の作り方の特徴なども分析して、著者について、また著者の意図を正確に理解するよう努力してる。

ネット使っていろいろ調べてると、エホバの証人って聖書をよく学んでいて詳しいって自画自賛してるけど、それはとんでもない思い違いだと分かる。組織が教えたい教理を、同じような聖句を使って同じように学んでるだけ。集会以外に聖書通読をしてるエホバの証人なんて、ほとんどいないんじゃないだろうか。

組織は一応、通読を勧めてはいるけど、一方では信仰を業(宣教、もてなし、交わり、会衆の仕事、集会参加など)で示すように強制して、通読の時間を取れないようにしてる。結局、組織の教え(主に集会、最近はライブラリアプリ)に付いて行く形でしか聖書を学べないようにしてる。もっと信者一人一人が聖書通読(短期間で何度も)するようになれば、組織がどんなにオカシイか自ずと分かると思う。組織はそうなって欲しくないから、なすべきことを常にいっぱいに持ちましょう、とか言ってごまかしてるんだよね。

話がずれたので戻します・・・

14節。新世界訳の「神に神聖な奉仕をささげている」。他の訳では「神に仕える」「神を礼拝する」など。

神に対して「仕える」ことや「奉仕する」ことを表す語を、「神聖な奉仕をささげる」とバカノヒトツオボエ的に訳すから、2重の変な訳になる。いったい神以外のだれに神聖な奉仕をささげるんだろう?・・・ねぇ。あるいは、神に神聖じゃない奉仕をささげる人もいるってことかな?・・・ww。

16節。新世界訳の「・・わたしは、神にも人にもとがを犯していないとの自覚を持てるよう、絶えず励んでいるのです」。他の訳では「わたしは・・神に対しまた人に対して、良心に責められることのないように、常に努めています」「・・私自身も、神と人々に対して絶えずやましくない良心を持つよう努めております」「・・私自身も神に対し、また人間たちに対して、咎められるところのない意識を持とうといつも切磋琢磨しているのです」など。

この聖句、とてもいい聖句だと思うのに、この組織ではあまり用いられない。ひとつ前の聖句(義者と不義者の復活がある)はよく用いられるのにね。23:1のパウロがサンヘドリンに最初に述べた「わたしはこの日に至るまで、神のみ前で全く汚れない良心を抱いて行動してきました」と共に、パウロの生き方を表すいい聖句だと思う。でも、オンラインライブラリの聖句索引で調べてみると、23:1は引用なし、24:16も2件(1件は良心を訓練する記事)しかない。なんでだろ?
たぶん、良心に従ってもらっちゃ困るんだろうな。良心がおかしいと思っても、組織に従ってもらわないと困るから。組織は個人の良心を使えなくしたいんだろう。だから、この聖句を用いないんだろうな。組織の聖句の使い方って、ほんと偏ってる。