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聖なる書物を読んで

現役JW29年目

ヨハネ8章

2018-09-26 | 聖書
7章最終節(53節)~8章11節まで。
2013年に改訂された新世界訳(英語版)では、この部分、とうとう省いちゃいましたね。何か意図を感じます。
自分は、この逸話はキリスト教の神髄に迫る重要なものだと思ってます。だから、消されないで残ってきたんじゃないかなと。取って付けた感、否めないですけどね。4人の福音書筆者が書いたものではないのかもしれませんけどね。

内容は、姦淫の現行犯でイエスのもとに連れてこられた女性の話。書士とパリサイ人は、イエスがこの女性を許すだろうと考え、律法違反で訴えようと姑息にも試みる。イエスは「あなた方の中で罪のない人が、彼女に対して最初に石を投げなさい」と。律法通り石打ちにするようにと。彼らはイエスを捕えるどころか、だれも石を投げることができず、年長者たちから(長生きするほど罪が増える・・)出て行き、女性一人が残る。イエスは「だれもあなたを罪に定めなかったのですか・・わたしもあなたを罪に定めません・・もう罪を習わしにしてはなりません」と。

人を罪に定めることができる、つまり人を裁くことができるのは、罪のない方であられるイエスのみ。
そのイエスでさえ、人を罪に定めたり裁いたりするためじゃなくて、人を救うために来られたのだと。(裁きは、イエスの再来の時になされる)

これが、本来のキリスト教だよなぁと思う。

話は飛ぶけど・・・排斥に関する指示を聖書の中に見出すことは確かにできるけど、この精神を鑑みるなら、忌避は絶対にできない、やっちゃいけないことだと自分は思う。(隣人愛にもとる行為だし)


以下、「道、真理、命」の本を見て、翻訳がかなり変わったと思われる箇所。

23節。
「あなた方は下の領域からの者ですが、わたしは上の領域からの者です。あなた方はこの世からの者ですが、わたしはこの世からの者ではありません」

「あなた方は地上の領域の者ですが、私は天の領域の者です。あなた方は人間社会に属していますが、私はそうではありません」

完全に意訳だよね、これ。(他の訳では「下」「上」「世」)

29節。
「わたしを遣わした方は共にいてくださいます。わたしを独りだけにして見捨てたりはされませんでした。」

「私を遣わした方は共にいてくださり、私を独りだけにはしませんでした。」

他の訳を見ると、「見捨てたりは」の部分は、最初からなかったんだね・・・

31,32節。
「わたしの言葉のうちにとどまっているなら、あなた方はほんとうにわたしの弟子であり、また、真理を知り、真理はあなた方を自由にするでしょう」

「私の教えを常に守るなら、あなた方は本当に私の弟子であり、真理を知り、真理によって自由になります」

他の訳では「言葉のうちにとどまる」になってる。「教えを常に守る」って、なんかイヤな言い方。「真理は・・自由にする」というのと「真理によって自由になる」っていうのも、印象が違う。下の言い方だと、イエスは思い上がったヤなヤツだよね。

この箇所、組織では様々な事柄(偽りの教えとか習慣とか)からの自由としてるけど、文脈を追う限りでは、罪の奴隷状態からの自由のことだけだと思う。イエスは、イエスの言葉を信じた人々に、さらに深い教えを語るけど、人々はそれは受け入れられなくて反論する。対するイエスの言葉は「あなた方の父は悪魔、悪魔の欲望を遂げようとしている」というもの。上辺だけの信仰では、悪魔の欲望を遂げるものになってしまうってことかなぁ。イエスの言葉をほんとうに聴ける者になりたいなぁと思う。

さて、この先も違うところいっぱいあるんだけど、も一つだけ。

44節。
「その者(悪魔)は、その始まりにおいて人殺しであり、真理の内に堅く立ちませんでした」

「その者はその始まりから人殺しで、真理から離れました」

完全に、元は天使だったという教義ありきの意訳だね。しかもこの聖句を使って、この教義を説明するんだとしたら完全にアウトでしょ。(実際、「真理の内に居たけど、堅く立たなかったんだ」と説明されてた)
他の訳では、「真理に立ってない」とか「真理に立つ者ではない」とか「真理をよりどころとしてない」など。これだと、元は真理に居たことにはならないよね。(まぁ、元は天使だったことを示唆する聖句は他にもあるから、教義自体は否定はしないけど)

最後に、も一つ。

「悪霊」が「邪悪な天使」になってるぅ・・・・

ヨハネ7章

2018-09-24 | 聖書
1節。
「イエスは引き続きガリラヤの各地を回られた。ユダヤを回ることを望まれなかったのである。ユダヤ人たちが彼を殺そうとしていたからである。」

6章4節に書かれてる過ぎ越し(32年)に、イエスは目立たないようにエルサレムまで行かれ、すぐにガリラヤに戻って来られただろうと、ものみの塔では解釈してる。でも、この流れで1節を読む限り、行かなかった可能性もあると思う。他の3福音書も、この年の過ぎ越しの事は何も書いていない。
だとすると、イエスは律法よりもご自分の命を優先(それがご自分に対する神のご意志だったから)されたことになる。

そして、秋になり幕屋の祭りが近づく。

3,4節。
「兄弟たちは彼にこう言った。『・・ユダヤに入りなさい。・・自分を世に明らかにしなさい』」

兄弟たちはイエスに信仰を持っていたわけではなく、イエスの行なう奇跡を見て、こんな田舎じゃなくて中心地である大都市エルサレムに行って、世にアピールして有名になってくれ、って感じなのかなw。
それに対してイエスは、世はわたしのことを憎む、その業が邪悪なことを証するから、と答えられる。
善行が受け入れられず、かえって憎まれるって、あるよね。

17節。
「だれでもこの方(神)のご意志を行ないたいと願うなら、この教えについて、それが神からのものか、それともわたしが独自の考えで話しているのかが分かる」

つまり、神のご意志を行ないたいと願うなら、神の教えを見分けられる、とイエスは語っておられる。
当時のイスラエルでは、律法(神のご意志)を守りたいと願うなら、イエスの教えが神からのものだと分かったってことかな。殺人のこととか安息日のこととか・・あと、犠牲のことも(イエスの贖いの犠牲が必要だっていう)。
今日でも、神のご意志を行ないたいと願うなら、本当の教えを見分けられるのかな。

37節。
「最後の日、祭りの大いなる日に、イエスは・・叫んでこう言われた。『だれでも乾いている人がいるなら、わたしのところに来て飲みなさい。・・」

幕屋の祭りの間、毎日シロアムの池から祭司が水を汲んできて祭壇に流すという儀式が行われていた。(最終日には行われなかった)幕屋の祭りは、水の無い荒野での天幕生活を思い出させるものだった。(霊的岩塊として霊的水を供給されるイエス)この時にこの内容を話したイエスはさすがです。キャッチー&ベスト。

52節。
「・・預言者はガリラヤからは起こらないことを調べてみなさい」

ヨナはガリラヤ出身。イザヤも9章1,2節でガリラヤで輝く光を預言してる。分かっててガリラヤをバカにして言ったのか、分かってなかったのか。・・・自分たちが聖書なんだなぁと。

ヨハネ6章

2018-09-19 | 聖書
前半でヨハネは、イエスがガリラヤで行なった大規模な宣教(奇跡)のうち、2つだけを取り上げている。

1つは、4福音書全てに記されている唯一の奇跡、5000人に食事を与えたこと。
もう1つは、ガリラヤ(ティベリア)の海の上を歩かれたこと。(ルカは書いてない)

後半は、イエスが与える真のパン(天から下ってくる命のパン=イエスの犠牲としての肉)と真の飲み物(イエスの贖いの血)の話。その話に多くの弟子たちが躓いたことなど。

1節。ティベリアの海。ガリラヤ湖のこと。ヘロデ・アンテパスが西岸に築いた都市をティベリウス・カエサルにちなんでティベリアと命名されたことから。ヨハネが福音書を書いた頃にはこの呼び名で通っていたらしい。

5節~
食料を調達するのが難しい、いわば荒野のような場所で、奇跡的に5000人(女子供合わせればその2,3倍)に食事をさせたことと、ご自分が与えるパン(マナ)とは世の命のためのご自分の肉であると語られたことまで、すべて合わせて考えることが大切だなぁと思う。

群衆はイエスの奇跡のおかげで満腹になったから、イエスを王にしようとした。いなくなったイエスを探して、わざわざ湖の東側から西側まで追ってまで。

物質的な利ゆえに王を求めてる群衆に対して、イエスが語る霊的な話は、とても理解の及ぶものではなかった。

44節には、「父が引きよせてくださらない限り、だれもわたしのもとに来ることはできない」(ものみの塔はこの言葉を、選民意識を植え付けるような用い方をするから嫌い)とあり、続く45節には「父から聞いて学んだ者はみなわたしのもとに来ます」とあって、霊的なことがら(神のみ言葉)を理解しようとする姿勢が大切だとわかる。(自動的に選ばれるわけじゃない)

イエスが語る言葉に、(神から学んでいたゆえに)命の言葉を感じ取った弟子たちは躓かなかった。贖いの犠牲について、まだわかっていなかったにもかかわらず。

ヨハネ5章

2018-09-18 | 聖書
1節に書かれている「ユダヤ人の祭り」を、ものみの塔は31年の過ぎ越しとしているけれど、諸説あるらしい。

ユダヤ人の祭りは、ニサン14日~(3~4月)過ぎ越し、シワン6日(5~6月)ペンテコステ、ティシュリ15日~(9~10月)仮小屋、キスレウ25日(11~12月)献納、アダル14、15日(2~3月)プリム、の5つ。

エルサレムにまで行くのは、過ぎ越し、ペンテコステ、仮小屋の3つなので、そのうちのどれかだろうと。

5章はその祭りの時のエルサレムでの出来事。

ベツザタの池で、イエスが38年間病気の人を癒すと、それが安息日であったという理由で、ユダヤ人がイエスを迫害する。それに答えてイエスが、み父がしておられることを子も行なうこと、死んだ人々を生かすこと、復活があること、イエスには証があること(バプテストのヨハネ、イエスの業、父みずから、聖書=モーセ)などを語る。


ベツザタの池について。
4節は参照資料を見ると、「み使いが季節ごとにその池の中に下りて来て、その水を揺らすからであった。その時、水が揺れた後に最初に入った者は、その患っていた疾病がどんなものであれ、それから治って健康になるのであった」とある。5つの柱廊はそれぞれモーセ5書を表していたらしい。

普通に考えて、偶像崇拝っぽいと思うけど・・・イエスはそんな場所にも行かれて、病気の人を癒してるんだね。

17節。「わたしの父はずっと今まで働いてこられました」
神は7日目になって創造の業を休まれてるけど、創造物のためにずっと働いておられる。感謝です。

18節。「神を自分の父と呼んで、自分を神に等しい者としている」
なぜ、神を父と呼ぶと、神と等しい者になるのか・・・当時はそういう認識だったのかな。神を父と呼ぶなんて不敬だ、神の家族でもないくせに、ってことかしら。だとしたら、「天におられるわたしたちの父よ」と祈るように教えたイエスは、父に近づくように、神に個人的に近づくようにと、私たちを導いてくださったことがよくわかる。

39節から最後まで。
聖書を調べていても、律法主義に陥ってしまいイエスを退けてしまったユダヤ人。神への愛を抱いていなかったために、互い同士からの栄光を求め、イエスを信じることができなかった。モーセを信じているならイエスを信じるはずなのに。(ものみの塔によると、モーセは反逆者になっちゃったけどw)

聖書を調べるのは大事だけど、ユダヤ人のようにたくさんの規則を作って、それを守ることに必死になって、大切なことを見失わないようにしないといけないなと。(ものみの塔はその点で失敗してるよね)

でもって、イエスが言われたことが一番大切なことだと思うから、手紙類は参考程度でいいのかもしれないと思う。

ヨハネ3章

2018-09-10 | 聖書
今週の聖書朗読範囲から。ニコデモについて。


ニコデモは、ヨハネの福音書だけに出てくる、サンヘドリンの成員(ユダヤ人の支配者)でパリサイ人(律法の教師)。

西暦30年、イエスの宣教の最初の過ぎ越しの時、エルサレムで行なわれたしるしを見て、たくさんの人がイエスに信仰を持った、その中の一人。

夜の闇に乗じてイエスを訪問する。(身バレを恐れたか、その時刻ならイエスとゆっくり話ができると思ったか・・)

しるしゆえにイエスを神のもとから来た教師だと知った、と語るニコデモに、人の内にあるものを知っておられたイエスは、質問されたわけでもないのに、再び生まれなければ神の王国を見ることはできない、とお答えになる。(ニコデモが神の王国に入るにはどうしたらよいか聞きたくて来たって分かったからかな。もしそうなら、パリサイ人でも神の王国に入れる自信はなかったんだね。真理を追求しようとするニコデモの姿勢をイエスは喜ばれたんじゃないかな)

年を取ってから生まれることはできない、というニコデモの言葉から、彼はけっこう年配だったのかもしれないと思われてる。

イエスが霊から生まれることについて話すと、ニコデモは驚いた顔をする。イエスは風(ギリシャ語では同じ単語)をたとえにして、霊から生まれたものもそのようだと話す。ニコデモは理解できない。

イエスはその理解力の無さを憂えながらも、モーセが荒野で蛇を挙げたと同じように、人の子も挙げられねばならないこと、神は世を深く愛してご自分の独り子を与え、彼に信仰を働かせる者が永遠の命を持てるようにされたこと(クリスチャンならだれでも知っているであろう3:16の聖句)、そして、裁きの根拠となる、闇を愛するのではなく光に来るように(ニコデモは闇の中、光であるみ子のもとに来た)、と教えられた。

それに対して、ニコデモがどんな反応をしたのかは、何も書かれてないので分からない。
が、ニコデモはその後、イエスを弁護したり、イエスの埋葬のために没薬とじん香を持って来た。

伝承によると、この後キリスト教徒になり殉教したらしい(byウィキ)。
自分も、ニコデモは好意的に書かれてると思うので、さもありなんと思う。真理を謙遜に追求し、熟考し、出来る範囲で行動した。

ヨハネ2章

2018-09-04 | 聖書
ヨハネだけが書いていることとして。

イエスがバプテスマを受けられた後、
●ガリラヤに行ってカナで最初のしるし(水をぶどう酒に変える)を行なったこと。
●その後の過ぎ越しの祭り(30年)でエルサレムの神殿を清められたこと。(ニコデモに再び生まれることについて語る)
●その後ガリラヤに行き(途中スカルでサマリアの女に命の水について語る)またもやカナで2番目のしるし(王の従者の息子を癒す)を行なわれたこと。

ちなみに、マタイ、マルコ、ルカは最後の過ぎ越し(33年)での神殿の清めのことを書いている。

最初の2つのしるしはカナで行われたんだね。


●最初のしるしは、婚宴で水をぶどう酒に変えたこと。

ぶどう酒がありません、ってマリアがイエスに告げた時、イエスはすぐにその願いを聞き届けたわけではなくて、わたしの時はまだ来ていない、って答えてる。とりあえず必要な分だけ、どこかから調達してくることもできたかもしれないけど・・・そうではなくて、奇跡によって多過ぎるほどの上等のぶどう酒を、マリアの願いをはるかに超えて答えてくださった。
これを祈りに置き換えて考えると、聞き届けられるのにふさわしい時があることや、思ってたのと全く違う形で、思ってた以上に素晴らしい形でかなえられること、神はそんな風に私たちの日常に関する祈りにも関心を払ってもっと素晴らしい答えを用意されてること、などで祈る喜びを増し加えられるかなと。

バプテストのヨハネが荒野で禁欲的な生活を送っていたのとは対照的に、そのヨハネが証ししたメシアであるイエスは婚宴に列席したりして、普通に自然に生活を楽しんでおられた様子が伺えて興味深い。


●神殿を清められたこと。

いわば単なる一庶民のイエスが、神殿でちゃぶ台返ししながら鞭ふりまわして暴れまくっているわけで・・・ユダヤ人たちからしたら、「しるしを見せろ」というのもいたしかたないかなと思える場面。
この時に、イエスはユダヤ人たちに「神殿を壊してみなさい。わたしは三日でそれを建てます(ヨナのしるし)」って言われた。実際にイエスがこう言われたことを書いているのはここだけ。イエスは宣教の初めからすでに、彼らによってご自分が死ぬこと(神殿を壊す)、そして復活すること(三日で建てる)を、彼らに‘挑戦的’に語られたように感じられる。裁判や処刑の時に、この言葉が繰り返されていることを考えると、一つのキーワードだったんだろうなと。

ヨハネ1章

2018-09-03 | 聖書
ヨハネの福音書は、他3人の福音書とは違った趣を持っている。

書かれたのは1世紀の末頃で、すでにエルサレムは滅び、他の使徒たちもみな(多分・・)死の眠りにつき、会衆もほぼ確立されて予告通りの背教も進んでいた頃。イエスを実際に知っていた世代は過ぎ去り、会衆も世代交代が進んでいたであろう頃に書かれた福音書。

最初に4福音書を全部通して読んだ時に、ヨハネの福音書だけ違った印象を受けたので、そのことを研究司会者に告げたら、ヨハネが一番最後に書いたから他の人が書かなかった事を主に書いてるからじゃないか、と言われたことを覚えている。

それもあると思うけど、ちょっと違う。上手く言えないけど、他の3福音書で描かれているイエスが神の子の人間イエスであるのに対して、ヨハネが描くイエスは人の姿をした霊者イエスのように感じる。

出だしからして「初めに言葉がおり、言葉は神と共におり、言葉は神であった。」だし・・・これは創世記の最初の「初めに神は天と地を創造された」から続く天地創造のイエスバージョンみたいだ。命と光がテーマの、死と闇からの救出をもたらすイエスの新しい天地創造。

パウロはイエスが神と共に創造の業を行なったことを書いているけど、他の3福音書だけではその辺のところはよく分からない。でもヨハネが書いたことから、人間になる前のイエスのことが推察できる。イエスが神とどれほど親密な関係であったかも、ヨハネが一番多く書いているんじゃないかな。

ところで、バプテストのヨハネは、この福音書の中では単にヨハネと書かれている。筆者は自分の名を出さないで書いているから。

ルカ24章

2018-08-30 | 聖書
今週の聖書朗読の範囲から、イエスの復活と弟子たちとの交流について。

並行記述は、マタイ28章、マルコ16章、ヨハネ19,20章。

ルカはエルサレムでの出来事を中心に書いていて、ガリラヤでの出来事は書いていない。他の福音書筆者はガリラヤ湖を「海」と書いているが、ルカだけはわざわざ「湖」と書いているので、そのあたりの土地勘があまり無かったものとも思われる。
ちなみにガリラヤでの出来事はマタイとヨハネが書いている。

ルカが詳しく書いているのは、13節~35節、エマオへ旅する二人にイエスが現れた話。

この二人は、伝説によると、イエスの養父ヨセフの兄弟であるクレオパと、その息子シメオン(つまりイエスの従兄弟)。シメオンは、イエスの兄弟ヤコブの死後にエルサレムの2代目の監督になったとも伝えられている。
・・・なんだかなぁ・・・つまりはエルサレムに統治体があったという考え方は、カトリック教会の教皇制度となんら変わらないってことなんだなぁ・・・

クレオパがイエスに語ったことを読むと、イエスの復活に関して確信に達していなかったことが分かる。それでイエスは、聖書からご自分に関連した事柄を解き明かされるのだけれど、まだ信じられないでいる二人。イエスがパンを割いて渡した時にやっと「それを見て目はすっかり開け、だれであるかが分かった」とある。

ラザロが生き返ったことはすぐ信じることができたけど、イエスの場合はそうではない。イエスの復活が特別なものであったことがうかがえる。死んだ時と同じ様で生き返れば、すぐに信じられたんだろうけど、そうはされなかった。
今でも、イエスの復活を信じることは、それだけ特別なことなんだと思う。聖書にあるイエスに関連した事柄すべて解き明かされること。そして、目が開かれること。これはたぶん、信仰を持った時に神によって「目が開かれる」のかもしれない。

クリスチャンは、イエスの復活の証人なのだ。

ルカ23章

2018-08-29 | 聖書
今週の聖書朗読の範囲から、イエスの裁判と処刑、死まで。

並行記述は、マタイ27章、マルコ15章、ヨハネ18章後半~19章。

ルカだけが記している点として。

●ピラトがイエスをヘロデのもとに送ったこと。
●イエスがゴルゴタへ引かれて行くときに、付いてきた女たちに語ったこと。
●杭に付けられるときにイエスが言われたこと。
●共に杭に付けられた二人の悪行者とのやり取り。
●息を引き取られる前にイエスが大声で言った言葉。

3番目について。
ルカだけが「父よ、彼ら(ローマ兵たち)をお許しください。自分たちが何をしているのか知らないのですから」というイエスの言葉を書いている。
ルカはパウロと行動を共にしていたから、異邦人(テオフィロ様も含め)に対しての気遣いもあったのかなと思う。
ステファノが石打ちにされた時に「この罪を彼らに負わせないでください」と言ったことも、ルカは書いてる。この時の相手はサンヘドリン(ユダヤ人)だったけど、ステファノの捕縛の原因となったのは、異邦人とのやりとりだったようだし。

4番目について。
問題の聖句は43節。「今日あなたに真実に言いますが、あなたはわたしと共にパラダイスにいるでしょう」

「今日」という語が「言う」にかかるか「いる」にかかるか。教義では「言う」の方。つまり「今日言います」。でも自分は「いる」の方だと思う。つまり「今日パラダイスにいる」(こう訳している聖書も多い)。
だって、目が覚めたら(復活したら)パラダイスなんだから。

もひとつ。
イエスの右と左に杭に付けられた悪行者のことが象徴的だなと思ったこと。

全人類が羊とヤギに、イエスの右と左に分けられること。この悪行者二人は全人類の象徴かなと。死に面して、神への恐れを持ち悔い改めてイエスに信仰を表した者と、全く神を恐れずイエスをあしざまにいう者と。起きた出来事を見て、意味を悟る者と悟らない者と。(エリ、エリ・・・・というイエスの言葉は詩編22編の出だしの言葉。この詩編を知っていれば、イエスが予言を成就するメシアであることが分かったはず)
神から見れば、罪のうちに死にゆく人間はみなこの悪行者たちと同じ。そうであれば、大事なのは、バプテスマを受けていわゆる献身の生活を送ることではなく(そうするのも信仰心からであるなら良いことかもしれないけど)、神を恐れ悔い改めてイエスに信仰をもつこと、ただそれだけなのかもしれない。その心からの信仰心があることが一番大事なんだろうなと思う。


5番目について。
ルカは「父よ、わたしの霊をみ手に託します」と書いている。
マタイとマルコは大声で叫んだことは書いているけど、内容は書いていない。
ヨハネは「成し遂げられた」と書いている。

ルカ21章

2018-08-22 | 聖書
今週の聖書朗読の範囲から、気になった点。

終わりの日のしるしとして、ルカだけが記している(マタイもマルコも記していない)部分。


●ルカ21:8
「惑わされないように気を付けなさい。多くの者がわたしの名によってやって来て・・・『その時が近づいた』とか言うからです。そのあとに付いて行ってはなりません」

その時(終わり)が近づいたと言う者って、まさに、ものみの塔=エホバの証人。
これまで何回となく、終わりがいつ来るか予言しては外してきた。
最近では、二つの世代説まで打ち出して、終わりが近い近いと煽っている。

イエスは「そのあとに付いて行ってはなりません」と言われた。
やっぱり、この組織はやめた方がよさそう。



●ルカ21:24
「・・・そしてエルサレムは、諸国民の定められた時が満ちるまで、諸国民に踏みにじられるのです」

「諸国民の定められた時」の参照聖句。

新世界訳は、エゼキエル21:26,27、ダニエル4:25。
これらによって、1914年が導き出せるようになっている。

文語訳と新共同訳は、ローマ11:25。
そこには「・・一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり」(新世界訳では「・・諸国の人たちが入って来てその人たちの数がそろうまで、感覚の鈍りがイスラエルに部分的に生じ」)とある。

「踏みにじられる」の参照聖句。

新世界訳にはない。

文語訳と新共同訳は、イザヤ63:3,18、ダニエル8:13,9:26、黙示録11:2など。
「聖所が踏みにじられる」「都と聖所が荒らされる」「異邦人が四十二か月の間、聖なる都を踏みにじる」といった聖句があげられている。

新世界訳は、組織の教理ありきで参照聖句も決められているんだね。

騙されないようにしないといけないなぁ、と改めて思った。

諸国民の定められた時(異邦人の時)は、いつ満ちた(る)のか?
まだまだ考慮の余地がありそう。