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聖なる書物を読んで

現役JW29年目

ヨハネ16章

2018-10-24 | 聖書
前章に引き続き、イエスはこれから起こることに弟子たちを備えさせ、励まされる。

イエスが去って聖霊が来るのは益となる。聖霊は、罪と義と裁きに関する世の誤りを暴き、真理を明らかにし、イエスの栄光を表わす。イエスの復活によって、使徒たちの悲嘆は喜びに変えられ、その喜びはイエスの名によって求めるなら受けることで満ちる。イエスは世に勝利されたのだから、患難があっても勇気をもって立ち向かいなさい。

2節。「あなた方を殺す者がみな、神に神聖な奉仕をささげたのだと思う時が来ようとしている」
律法には偶像礼拝者や偽りの預言者を殺すようにとある。この律法ゆえに過去にも本当の預言者が殺されたりした。イエスも弟子たちも迫害されて殺されることにもなった。(イエスはご自分を信じない人々を糾弾されたけど、殺しはしなかった)
人は何が真実かを見誤ることが多々ある。統治体だってそう。新しい見解が出る度に、それが本当に神聖な奉仕なのかどうか、鵜呑みにしないで自分でよく考えないとね。

8節。「(聖霊は)罪に関し、義に関し、裁きに関して、納得させる証拠を世に与える」
この訳だと意味がよく分からないけど、「納得~」の部分が他の訳では、「世の人の目を開く」「世の誤りを明らかにする」「この世に誤りを認めさせる」などとなっていて、なるほどと思った(原語はもっと強く「世を糾す」「世を暴く、断罪する」の意)。
罪も義も裁きも、イエスの教えの本質を成す問題で、これから起きるイエスの贖いにすべて繋がってる事柄。イエスの贖いに信仰を働かせること(罪に関して)。イエスが復活されて天で王となられご自分の民を義と宣すること(義に関して)。イエスがサタンに勝利し死を無に帰せしめたこと(裁きに関して)。
これから聖霊が明らかにしてゆくこれらの真理(弟子たちの書簡による)は、律法による罪や義や裁きを信じてた世の誤りを暴くことになった。さらにそれは、14節にあるように「イエスの栄光を表わす」ことにもなった。

でもまだこの時には、弟子たちは何にも理解してなかったんだよね・・・・イエスはいなくなりそうだし、自分たちは殺されそうだしで、動揺してます。イエスは「あなた方の悲嘆は喜びに変えられる」と保証し、イエスの名によって「求めなさい。そうすれば受けます。あなた方の喜びが満ちるためです」と約束される。

過去の神の民の祈りは直接神に捧げられたけど、クリスチャンはイエスの名によって祈り求めることになった。(国民や組織に属することではなく)イエスだけが神への道。

27節。「父の代理者として来た」
代理者なんて言葉は他の聖書にはない。「父のところから出てきた」「神の御許から来た」「神からの出」「神のもとから出てきた」などとなってる。17:8にも代理者ってあるけど、あからさまにひどい意訳。これでいいのか新世界訳。

31節。「今のところ信じているのですか」
英語ではat lastが使われてるので、前節の弟子たちの信仰告白を受けて、やれやれ今やっと信じるのかい、という感じかなw。印象が違うよね。イエスは弟子たちの信仰告白を喜んではいただろうけど、弱さを知っていたのでこの先の弟子たちの行動を預言し、負けてしまわないようにさらに励ましを与えた。

33節。「勇気を出しなさい! わたしは世を征服したのです」
カッコイイ言葉で大好きな聖句なんだけどぉ・・・まずこのビックリマークは付け足しだよね。当時こんなマークはない。それと、「世を征服した」というより「すでに世に勝っている」という方が正しいみたいだね。
・・・感情に訴えるにはいい場面ではあるけど、こういう訳し方は如何なものかと。自分、すっかりダマされてましたよ・・・なんだかなぁ。

イエスがこれらのことを語ったのは、弟子たちが患難にあってもイエスによって平安を得るため。
今は、イエスもおられず、当時のような聖霊もないけど、聖書がある。聖書からイエスによる平安を得ることができる。なので、出来るだけ正確な意味をつかむためにも、新世界訳だけじゃなく、様々な聖書を比較することって必要ですね。

ヨハネ15章

2018-10-23 | 聖書
ゲッセマネの園へ向かう途上でイエスは、これから弟子たちに臨む迫害に備えさせる話をされる。

イエスは真のぶどうの木。父(神)は耕作者。あなた方(弟子たち)はその枝。
これまで、神が植えたぶどうの木はイスラエルだったけど、この言葉で真のぶどうの木がイエスに取って代わられたことが分かる。教義ではペンテコステの時にそうなったとしていて、実を結ぶ枝とは油そそがれた14万4千人だとしているけど・・・なんか納得できないなぁ。イエスがそんな区別(差別)するかなぁ。

ものみの塔は、実(霊の実と唇の実)を結ばなければ切って捨てられるってやんわり脅すけど、イエスがここで強調されてるのは、ご自分と結びついたままでいるなら、実を生み出す者になれる(良い栄養分がとれるから、自然に良い実を結ぶ)ということ。そのために必要なのは、互いへの愛(命をなげうつほどの愛)のうちにとどまるという、イエスの言葉(戒め)を守ること。ただ主人の命令(律法)に従う奴隷ではなく、主人(神)の意思を知る友(イエスの)として。あなた方を選び任命したのはわたし(イエス)なんだから、実を結び続けるためにあなた方がわたしの名によって何を求めても、父は与えて下さるから、実を結び続けられるよ、と。

イエスはここで、弟子たちの喜びが満ちるために話してくださっている。やんわり脅すためじゃない。ものみの塔を読んでても喜びがないのは、イエスの言葉じゃないからなんだろう。

続いてイエスは、弟子たちが世から憎まれ迫害されることを話される。
イエスの言葉を守り行なうものは、いつの世も迫害される。今の日本はそれほどでもないけど、いわゆるキリシタンの迫害とか、戦時中はクリスチャン(エホバの証人じゃない)が解散させられたり、投獄されて亡くなったりもしたと聞いた。

自分がクリスチャンではなかった頃、そんな話を聞くと、命を懸けてまで守りたい信仰ってどんなものなんだろうと、興味が湧いたりもした。互いに対する愛ゆえに戦争に加わらない、神を愛するゆえに偶像を拝まない、というのは世からは憎まれる行為だけれど、それによって引き寄せられる人もいるのだろうと思うと、イエスと結びついているなら実を結ぶことになる、というのが分かる気がする。

宣教によって実を結ぶことばかり強調される(枝として認められてないほかの羊にも!)のが、エホバの証人=ものみの塔。聖書を学んでいるようで、なんかズレてる。エホバの証人は、自分たちだけが真理を持ってるなんて不遜なこと言ってないで、もっともっと深く深く聖書を勉強するべきなんじゃないかと思う今日この頃。自分も中途半端な知識で伝道していたんだなぁと反省してます。

ヨハネ14章

2018-10-18 | 聖書
イエスが11弟子に、これから起こるイエスの死への備えをさせるために、ご自分と父との関係や弟子たちに助け手である聖霊を与えることなどを語る。

前章最後の部分でイエスは、ペテロが三度否認する、と予告する。
それに続きこの章は、心を騒がせてはならない、という言葉からはじめられる。

2節。「父の家には住むところがたくさんある。・・・あなた方のために場所を準備しに行こうとしている」
教義では、イエスが天に準備されるのは、14万4千人の油そそがれた者たちのための場所。でも「たくさんある」っていうのに、14万4千人分ってなんか違和感あるよね・・・油そそがれた弟子たちは「小さな群れ」ってことなのにね。

5節。トマスの質問。「あなたがどこへ行こうとしているか分からない。どうしてその道が分かるか」
6節。イエスの答え。「わたしは道であり、真理であり、命です。わたしを通してでなければ、だれひとり父のもとに来ることはない」
言い換えれば、イエス以外に神に至る道はないし真理もないし命もない。でもこれって、神の民イスラエル人の忠実な11人の弟子たちだけに語られた言葉なんだよねぇ・・・イエスを知りえなかった(今も知りえない)全世界の人に当てはまる言葉なのかなぁ・・・

8節。フィリポの願い。「父をお示しください。それで十分です」
9節。イエスの答え。「わたしを見た者は、父を[も]見たのです」
この[も]は新世界訳の付け足し。三位一体じゃないことが分かるように付け足してる。他の聖書は「父を見た」になってる。続く聖句(10,11,20節)に「結びついている」という言葉が何回か出てくるけど、これも三位一体じゃないという印象操作の意訳。他の聖書は「いる」「おる」「中におる」「内におる」などになってる。13節の「父が子との関連において栄光をお受けになる」も、他の聖書では「父が子によって栄光を~」となってる。
この章には、他にも三位一体じゃないことを示すための意訳がいくつもある。これじゃあ新世界訳が聖書じゃないって言われても文句言えないよなぁ・・・
自分は三位一体を支持するわけじゃないけど(三位一体もアリかなとは思う)、聖書を書き換えてまで否定するってオカシイと思う。いろんな解釈が出来る余地を神が良しとされてるのなら、違う解釈を受け入れることも必要なんじゃないかなと。信じるかどうかは別にして。

22節。ユダの質問。「わたしたちにはご自分をはっきり示そうとされ、世に対してはそのようにされない、これは何が起きたのか」
23節。イエスの答え。「わたしを愛するならわたしの言葉を守り行ない、父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て住まう」
神とイエスが来て住まうのは、やっぱり組織じゃなくて個人。助け手(法的に味方になってくれる弁護者の意)である聖霊も個人に働く。信者同士で集まり合うのは必要かもしれないけど、組織は必要ないように思う。

最後に一行はゲッセマネの園に向かう。

ヨハネ13章

2018-10-15 | 聖書
最後の過ぎ越しの途中でイエスが12弟子の足を洗う。

エホバの証人の組織ではこの部分、イエスが謙遜さの際立った模範を示した、としている。誰が一番偉いかを競い合っている弟子たちに謙遜さを教えるために、イエスの実物教育、という言葉まで使って。イエスが居なくなった後のことを思って。

自分はそれにいつも違和感を感じていた。謙遜さの模範というだけではどうもしっくりこない部分があって。

7節の「わたしのしている事を、今は理解していないが後に理解するようになる」とか、8節の「わたしが洗わないならあなたはわたしと何の関係もない」とか、10節の「水浴びした者は足を洗ってもらう必要があるほかは全身清い。それであなた方は清い」とか。

今回いろいろ調べて(もちろん組織の出版物ではありません。組織以外のキリスト教です)、腑に落ちたことがたくさんあって、いったい自分は今まで何を学んで来たんだろうと。
エホバの証人は聖書を全く理解してないことがよく分かったです。

で、何が分かったかというと・・・上手くまとめられないので列挙します。

イエスが弟子たちの足を洗ったのは、謙遜さを示すと同時に、弟子たちの日々の歩みで付いてしまう汚れを洗う、つまり日々犯す罪をイエスによって洗い清められなければならないことも示していた、ということ。
そしてそれはイエスの愛の表明(贖い)でもあり、ペテロのように拒んではいけない(拒むのは高慢)こと。受け入れて神の愛を知り、それに倣って他の人を謙遜に愛すること。
さらに、水浴びした者、つまりイエスがメシアであるという信仰を抱いた者はすでに清い者であるけど、日々の歩みで足に汚れが付くのでイエスに足を洗ってもらう(贖いに基づいて許しを祈り求める)必要があること。
ユダは信仰を失ってしまっていたので、イエスは「すべての者がそう(清い)ではない」と言ったこと。
などなど。

これらが分かって読むとヨハネの書いてることって深いなぁと。聖書ってやっぱいいなぁと。

ついでに、組織の出版物から分かったことも1つ。
21節。「イエスは霊において苦しまれ・・・」とある。前の18節でユダの裏切りに関してイエスは詩編41:9を引用された。それはダビデがアヒトフェルの裏切りについて書いたものらしい。アヒトフェルは首をくくって自殺した。聖書に記されてる2つの自殺のうちの1つ目。2つ目は・・・イエスがユダの行く末のことを思って苦しまれたことがわかる。

分からなかったことも1つ。
32節。節の頭にあるはずの「神が彼によって栄光をお受けになったのであれば」という言葉が、新世界訳では「また」という言葉に置き換えられてる。神が彼によって栄光を受けては何かまずいことでもあるのかな。これって三位一体を否定したいがための書き換えじゃないのかな。

聖書は信頼できるか

2018-10-13 | 聖書
自分的には聖書は信頼できると思ってる。

まず全体の印象として、学生の頃に読んだ神話とはどこか違ってるなぁと思う。作り話にしてはあまりによく出来過ぎてるなぁと。
組織がよく言ってるけど、真実の響、を個人的には感じた。

言語がこんなに多い理由はバベルの塔だとか、地球の表面の大半が水なのはノアの日の洪水だとか。

人間だけがなんで服着てるのか。人間にはなんで良心があるのか。
地球にだけなんで命があるのか。

聖書は結構いろんな疑問に明快に答えてると思う。

他の宗教書は読んだことないけど、今のところ聖書で満足しちゃってるかな。

ヨハネ12章

2018-10-10 | 聖書
マリアがイエスの足(マタイとマルコでは頭)に香油を塗った話。

ユダが「どうして香油を三百デナリで売って、貧しい人に施さなかったのか」と言ったのは、貧しい人を気にかけていたためではなく、彼が盗人で、金箱に入れられる金を常々くすねていたから。

ここを読んでて思った。この組織(エホバの証人の上層部)って、まさにユダだなぁ。

信者にとって貴重なものを、イエスに捧げるより、組織に捧げるように要求してくる。

資産にしても、色んな寄付の方法を示して、貧しい人たちのためとか災害救援のためとか言ってるけど、実際は何に使ってるのか全く報告されない。(うすうす気付いてることもある。上層部贅沢費とか児童性虐待隠蔽用とかとか)

常々金箱からくすねていたユダはどうなったか・・・・・・この組織もユダのように滅びに向かっているんだろうなぁ。ともに滅びることを望まないなら彼女から出なさい、ってことかなぁ。


さて、この話はイエスが亡くなる6日前のこと。

世界中どこでも良いたよりが宣べ伝えられる所では、この女のしたことも彼女の記念として宣べ伝えられる、とイエスは言われた。それほど重要なことをマリアは行なったわけだけど・・・・なぜそれほど重要だったのかがどうもよくわからない。で、自分なりに考えてみた。

ヨハネはこの話を過ぎ越しの6日前として書いてる(エルサレム入場の前日)けど、マタイとマルコはユダの裏切り行為(過ぎ越しの2日前)の前に挿入するように書いてる。とすると、この話もユダの裏切りに深く関係していた出来事だったから重要だったのかもしれない。
この時ユダは良いこと言って、それに賛同する者もいたのに、イエスはマリアの肩をもってユダを叱責された。ユダの中で何かがぷっつん切れちゃって、裏切り行為に走ることになっちゃった、という出来事なら重要だよね。
でもこれだとマリアの記念というより、ユダの記念になっちゃうかw

もう一つ考えたのは、ルカが書いてる類似の出来事との関係。
罪人の女がマリアと同じことをイエスにした時、イエスは「このことによって、彼女の罪は多いとはいえ許されたのです。彼女は多く愛したからです。わずかしか許されていない者は、わずかしか愛さないのです」って言われた。
その話を聞いていたマリアが、自分の方がもっともっともーっとイエス様を愛してるのよっっっ、とばかりに高価な香油を塗ったんじゃないか、なんてね。(頭だけじゃなくて足にも塗ったってところがあやしいよねw)
それをイエスが良い方に解釈されて、愛から出た行ないとして褒めてくださったんじゃないかと。


ということで・・・・・自分、あんまりマリアのことが好きじゃないんだなぁと思いました。(マルタの方が断然好きです)

ヨハネ11章

2018-10-09 | 聖書
ラザロの復活の話です。

最後の過ぎ越しが近付いていた頃。ご自分が贖いとなって最後の敵である死を無にきたすという、イエスご自身の死も近付いていた頃。

「あなたが愛情(フィリア)を抱いてくださる者が病気です」とあるので、それまでにイエスが復活させた人たちとは、イエスとの関係性が違うことがわかる。人間イエスとしては、すぐにでも病気を治したいと思ったかもしれないけど、「この病気は死のためのものではなく神と子の栄光のため」と言われ、遠くからでも癒せるのにそうなさらず、なお2日そのまま留まられる。
イエスは「彼らを愛して(アガペー)おられた」とある。フィリアとアガペーでは出てくる行動が違うってことなんだろうなぁ。愛情を抱く者の死を、癒す手立てをお持ちなのに、ただ待っているのってどんな思いだったんだろうなぁ・・・

マルタがまずイエスを出迎えに行ったのは、ユダヤ人たちがいっぱい来ていて、特にマリアを慰めていたのもあるんだろうな。マルタがイエスに「ここにいてくれたら死ななかったでしょう」と言ったときは、幾分非難口調だったかも(心の声「なんですぐ来て癒してくれなかったのよぉ。ひどいじゃないのぉ。終わりの日に復活することぐらい知ってるわよぅ」みたいなw)。それに答えてイエスは、ご自分が復活であり命であることを信じるようにと言われ、マルタは信じてるとは言うけど、すぐに復活が起きるとは思ってなかったんだろうな。

マリアは同じ言葉をひれ伏してから言ってるから、悲しみと嘆きの方が強かったのかな。だからか、それに対するイエスの反応がマルタの時とは全く違う。ユダヤ人たちも泣き悲しんでいるのをご覧になって、新世界訳では「霊においてうめき、また苦しみを覚えられた」(33節)となってる。

黒崎註解によると、「霊においてうめき」で用いられてるギリシャ語はエンブリマオマイで、専ら憤怒の情(マルコ14:5)を表す。厳しく戒める意味(マタイ9:30マルコ1:43)に用いられている。単に愁傷の意味ではなく何かに対する反対の激情を意味する、とある。「苦しみを覚える」はタラッソーで、心騒ぎ(ヨハネ12:27、13:21のイエスの霊肉が苦闘の状態であるのと類似)。

他の訳では、「激しく感動し、また心を騒がせ」「心に憤り、かつ興奮して」「心になげき、激して」「心に憤りを覚え、興奮して」「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて」などとなっている。

ものみの塔ではこの部分、イエスが心から深い同情心を表され涙したとしているけど・・・それがどうもピンとこなかった理由が少し分かった気がする。

イエスは憤っていたんだね。これほど人々を苦しめる死というものに対して。ずーっと人類史の最初から死を見てきたけど、この時は状況がちがった。あえて死ぬにまかせた友人。死に対しての人間の無力さも実感したのかもしれない。だから涙を流された。ご自分の感情ゆえの涙だったと捉えた方が自分的にはしっくりくる(同情心もあっただろうけど)。これからご自分が行おうとしている贖いの死が、人間にとってどれほど価値のあるものかも改めて実感されたかもしれない。(大げさに泣いてるユダヤ人や、不信仰なユダヤ人に対しては、別の意味での憤りもあっただろう)

死後4日経つと肉体も腐り、3日間近くをさまよっていた霊も離れて、完全に死んだとユダヤ人の間では信じられてたとか。だからイエスは4日後に来たんだね。復活はありえないと思われた死後4日経ったラザロが、イエスの声を聞いて復活した。

信じるなら神の栄光を見る。

神の栄光を見てから信じるのではなく。見ても信じない者が多い中で、信じる者は神の栄光を見る。


さて。ずっと疑問に思ってることがある。

死の苦しみを経験した者を復活させて、もう一度死の苦しみを経験させるというのはどうなんだろうと。

死は思ってるほど苦しいものではないのかなぁ。まぁ・・生きてるから苦しいのであって死んでしまえば苦しくはないだろうけど、死に至るまでの痛みや苦しみは2度も経験したくないよねぇ。そこんところどうなんだろう。
まぁ、若いうちは未来があるから復活はいいことかな・・・年取ったら、また死ぬのに復活って・・いやだよねぇ・・・(産みの苦しみと同じかなw産んでしまえば覚えてないっていうw)

ヨハネ10章

2018-10-02 | 聖書
イエスはりっぱな羊飼い。

ものみの塔によると、イエスは羊の3つの囲いについて話されてるそうな。1~6節では律法契約下のユダヤ人がいる1番目の囲い。戸口番であるバプテストのヨハネがイエスに対して戸を開け、イエスはその囲いの中からご自分の羊を導き出すそうな。んでもって7~15節では、イエスは新しい契約下の2つ目の囲いの戸口となって、そこに羊を導き入れてりっぱな羊飼いとして養うそうな。んでもって16節の3つ目の囲いには、ほかの羊である地的希望を持つ人々を連れて来て、一つの群れ、一人の羊飼いになるそうな。(合ってるかな?)

これだと、異邦人の居場所がないよね。

9章の続きだから、イエスはパリサイ人たちに語ってるわけで、1~6節の解釈はまぁいいとしても、7~15節はご自分が羊の戸口であり、りっぱな羊飼いであること、盗人でも雇われ人でも(これらはパリサイ人のことかな)ないことを語ってるわけで。8節で、「羊は彼ら(盗人)の言うことを聴きませんでした」とあるから、9章で盲目を癒された人のことを暗に言ってるんじゃないかと。イエスはイスラエルの失われた羊のために遣わされたことも考え合わせれば、続く16節のほかの羊は異邦人のことだと、普通に読めばそうなると思うんだよね。

天的希望と地的希望を分けて考える必要なんかないと思う。
イエスの声を知っている羊は、イエスの後に付いて行く。イエスはりっぱな羊飼い。

ヨハネ9章

2018-10-01 | 聖書
まるまる1章、生まれつき盲人の目を開けるという奇跡(ヨハネの書いた6番目の奇跡)のこと。

前章8:12で、ご自分を「世の光。わたしに従う者は・・命の光を持つようになる」と述べたイエス。この章では、それを業によって証明されたことがわかる。
癒された者は、実際の光だけでなく、霊的な光(命の光)も持つようになった。

さかのぼって6:28,29で、神の業をするため何を行なったらよいか、という質問にイエスは、神の遣わした者に信仰を働かせることが神の業だ、とお答えになっている。

この者が、イエスに信仰を働かせるようになって行く過程が興味深い。

イエスは、どんな方法でも(言うだけでも、触るだけでも)癒せるけど、この時は粘土を作って目に塗り、行ってシロアムの池で洗うようにと指示された。
イエスの言葉を聞いてそれに従うこと(特に自分ではどうにもできないこと)で、実際に良い結果を得られたことが、信仰の始まりになる。

その前に「この人が罪を犯したのでも、その親たちでもない」と述べているイエスの言葉に心動かされたんだろう。さんざん、お前のせいだ親のせいだ、と言われてただろうから。イエスが従い易くしてくださってることも分かる。そうでなかったら、目が見えないのにシロアムの池まで行こうとはしなかったかもしれない。

ヨハネがわざわざ、シロアムの意味を「遣わされたもの」と書いているのも、イエスが遣わされた者であるという信仰が関係しているからなんだろう。(新世界訳は「送り出された」となっているので、そこが分かりにくい)

この者がイエスについて語る言葉は、まず人々に「イエスという人」⇒パリサイ人には最初「彼は預言者です」、2回目には「神からの人」⇒そしてイエスに「主よ」となっていく。

神の業は奇跡的に癒されることだけでなく、その事実(経験や知識)に基づいて、追放されても、親から見放されても、イエスに信仰を働かせるようになっていく、これが神の業なんだなぁと。

3節でイエスは、この人が盲人として生まれたのは「神のみ業がこの人の場合に明らかにされるため」と述べている。その通りになった。

そしてイエスは、パリサイ人たちに「盲目であったなら罪はなかった。あなた方は『見える』と言う。あなた方の罪は残る」と言われる。
盲目であること(=罪人であること)を自覚するのが信仰への第一歩。これを考えると、パウロの回心の過程が興味深い。一度盲目にされてから、視力を回復されてる。彼が与えられたとげ(視力に関することらしい)は、このことを忘れないようにという戒めでもあったのかな。

ものみの塔をいくら研究しても、今回のようなことは学べない。これは、いわゆる世のクリスチャンたちがネットに載せてくださっていること(感謝です)をまとめたもの。

聖書をものみの塔解読のための辞書のように使っているエホバの証人は、もっと聖書そのものを勉強する必要があるとつくづく感じた次第です。

新世界訳(ウィキ)

2018-09-28 | 聖書
以下ウィキペディアからの引用です。

本書を正当に聖書と呼ぶことができるかについては、この訳がさまざまな箇所に変更を加え、自らの教理との矛盾を避けて訳されたことなどが、しばしば問題となる。

本書の特色として「エホバのみ名」が用いられているとのことであるが、少なくとも新約聖書では、原文にはその名はない。・・・・エホバの証人の組織の判断で「どこにも根拠のない」“復元”がなされたのである。
エホバの証人によれば、現存する最古写本は三位一体確立以降の西暦3世紀のものであって、それまでに(み名の)削除が行われていたというが、実際には最古写本の年代は紀元66年であることが学術的に確定している。

統治体の成員を11年間勤めたのち排斥された(脱退した)レイモンド・ビクター・フランズによれば( レイモンド・フランズ著・樋口久訳、『良心の危機 ―「エホバの証人」組織中枢での葛藤』)、「新世界訳聖書翻訳委員会」は次の4名からなり、すべて統治体の成員であるという。組織の最上層部による翻訳といえる。
ネイサン・ホーマー・ノア (第三代会長)
フレデリック・ウィリアム・フランズ (第四代会長)
アルバート・D・シュローダー
ジョージ・D・ギャンギャス
同著によれば、この中では聖書の言語について、この種の翻訳をするための知識があるのはフレッド・フランズだけだった。フレッド・フランズは、シンシナティ大学でギリシャ語を二年間学んでいたが、ヘブライ語は独学だった。
すなわち「言語知識があったのはひとりだけ」であり、「聖書を理解している人たち」が訳したというエホバの証人側の主張はこれと矛盾する要素を含んでいる。

テサロニケの信徒への手紙二1章12節(本書表記では『テサロニケ人への第二の手紙』)においては本書のほか、キリスト教の聖書では新共同訳聖書と口語訳聖書が「神とキリスト」の読みを採用しているが、新改訳聖書は「神であるキリスト」の読みを採用している。新共同訳は美しく自然な日本語が評判で広く用いられており、また口語訳も終戦直後から長く愛されてきたのであるが、新改訳は聖書原典にひときわ忠実であることで支持されており、面目躍如である。 ペトロの手紙二1:1(本書表記では『ペテロの第二の手紙』)においては本書と新共同訳聖書と口語訳聖書が「神とキリスト」の読みを採用し、新改訳聖書が「神であるキリスト」の読みを採用している。 テトスへの手紙2章13節においては本書と新アメリカ聖書(英語)、現代英語の新約聖書(英語)が「神とキリスト」の読みを採用し、新共同訳聖書と口語訳聖書と新改訳聖書が「神であるキリスト」の読みを採用している。


以上ウィキペディアからの引用です。


教義に合わせて聖書を書き換えることって、きっと歴史を通じてずーっと行なわれて来たことなのかもしれないなぁ、なんて思いました。正典として採用されるものも、宗派によって違うようだし(エホバの証人はプロテスタントから引き継いでるのかな)。
パウロが書いたとされてる手紙も、半分くらいはパウロじゃないかもしれない、とか、啓示も(裁きに関する部分は)ほとんどが書き加えられたものだ、とか。

こうした事柄に、神のご意志がどこまで関わっているのか。聖書の大筋は変わらないんだろうけど・・・こんな風に、いろいろ解釈できるってことが何を示しているのか。なぜ、誰が読んでもはっきりとした教義を導き出せるようになっていないのか。(三位一体もありかなぁ・・・なんて思ったりw)
聖書ってほんと興味の尽きない本です。
でも自分、それほど熱心でもないし、勉強家でもないので、適当にやって行こうと思ってます。