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聖なる書物を読んで

現役JW29年目

人々(の)賜物

2018-08-14 | 聖書
エフェソス4:8 「・・彼は人々(の)賜物を与えた」

(の)は、訳文の意味を明確にするための補足。
他の訳では、「人々(に)賜物を与えた」となっているものが多い。

(の)と(に)じゃ、だいぶ違うよね。

その先の文脈を追うと、イエスがある者を使徒、ある者を預言者、ある者を福音宣明者、ある者を牧者また教えるものとして与えたこと、それは聖なる者たちをさらに調整して、キリストの満ち満ちた丈の高さに達するためであること、偽りに振り回されたり、あちこち運ばれたりせず、キリストの体の各部すべてが調和し協働し、それぞれが機能を果たすことで成長すること、などなど語られていく。

とすると、人々(の)賜物を、会衆において、長老だけに当てはめるのは荷が重すぎじゃないかなぁ。
というか、本当に長老のことなのかなぁ。

当時の聖霊がそそがれてた会衆での話を、今の会衆に当てはめること自体、間違ってる気がする。

もし、これを今に当てはめるとするなら、会衆のすべての人がそれぞれ神から与えられてる賜物を生かすことで、会衆の一致と成長に資する、ということでいいんじゃないかなぁ。

これまでも組織に散々言われてきたから、
人々の賜物=長老=敬意を示す、みたいな図式が頭に構築されちゃってるけど、

長老を特別扱いするような聖句の用いられ方に、違和感いっぱい。

十人のらい病人

2018-08-08 | 聖書
イエスにらい病(今は、重い皮膚病、というらしい)を癒された十人のうち、サマリア人一人が神の栄光をたたえながら戻って来て、イエスの足元にうつ伏して感謝した。

この出来事から学べること。

感謝を表すこと・・が主眼じゃないと思う。
もちろん感謝を表すこともとても大切だけど。


ここでのポイントは、神の栄光をたたえる、他国の人、信仰。

イエスは、ご自分をメシアだと認め、神の栄光をたたえたのが、ただ一人、この他国の人だけだったことを嘆いてるんだと思う。
ご自分が遣わされたのは、まずはイスラエル人を救うためだったのに。

イスラエル人は、自分たちは神の民だという選民意識が強く、謙遜さに欠けていた。(前の文脈を見ると、奴隷がすべきことを行なった・・・という例えがでてくる)
それが、純粋なメシアへの信仰を阻むものになっていた。

他国の人が表す信仰を見るたびに、イスラエル人の信仰の無さを、イエスは嘆かれたんだろうな、と思う。

自分がこのらい病人の一人だったらどうしただろうな、と考える。
組織の考え方(イスラエル人)に染まってたなら、きっとそのまま祭司に見せに行っただろうな。
でも、神への信仰をしっかり持っていた(他国の人)なら、イエスのもとに感謝しに行けたかも。


さて。

この記述から、感謝について何が学べるか、と組織は問う。
そして、感謝を抱くだけでなく、表す「べき」であると強調する。

大事なのは、「すべき行ない」を強調することではなく、「行いたいという動機づけ」を与えることだと思う。

あれをすべき、これをすべき。
それができていれば、是認される。

こんなんじゃ、信仰もへったくれもないじゃないかぁ・・

2018-08-06 | 聖書
ノアの日の洪水でできた海。

啓示(黙示録)21:1
・・わたしは新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去っており、海はもはやない。

地球は、創造の初めの状態に戻されるのかな。
きっと、今みたいな水浸し状態ではなくなるのかもしれない。

ロトの妻は、塩の柱になった。
物質を他の物質に変えることは、物質を創造するより易しいだろう。

人が地に満ちるのに、どれくらいの年月がかかる予定だったのかな?
地に満ちたら、人口は何人になる予定だったんだろう。

物質宇宙は果てしなく広い。
人は宇宙に思いを馳せ、宇宙旅行を夢見る。

地に満ちたら、宇宙旅行も夢ではないのかもしれないな。


宇宙の海はオレの海♪

神からの武具

2018-08-05 | 聖書
エフェソス6:10~20

神が与えてくださる完全にそろった武具。
軍で支給されるように、これも自分でそろえる物ではない。

武具を見ればすぐどの軍か分かるのと同様、
神からの武具も、クリスチャンであることを見分けるものだろう。

イメージとしては・・・
軍の先頭に立つキリスト・イエス。
その後ろで、武具を身にまとい整然と立ち並ぶクリスチャンの軍隊。

向かえる敵は、サタンと邪悪な霊の勢力。
キリストから離れては、とうてい戦うことのできない相手。

エフェソスは悪霊崇拝の都市だった。
(アルテミスの神殿、魔術の本を燃やしたことなど)
神話の天使たちが、天での支配や権威をもっていると思われていた。
なので、キリストの高められた地位が強調されている。

そして、キリストと結びつき、霊において一致すること、
新しい人格を着けること、日々の生活において示すべき行状、
などなど記され、最後に神からの武具に言及されている。


真理を帯として腰に巻く。
 サタンの偽りを退けるために。

義の胸当てを着ける。
 不義が心に入り込まないように。

平和の良いたよりの装備を足にはき、しっかり立つ。
 争いや混乱を招く者たち(人も霊者も)に惑わされないため。
 神との間、人との間の平和を広めるため。

信仰の大盾を取る。
 サタンの攻撃から全身が守られるように。

救いのかぶとを受け取る。
 知力を守るために。
 (キリストによる救いは、すでに成し遂げられているので、希望が失望に至ることはない)

霊の剣(神の言葉)を受け取る。
 唯一の攻撃用の武器。(サタンもこれには詳しい)

注)受け取ったかぶとと剣はちゃんと装備しよう!

さらに、祈ることの大切さが語られている。
あらゆる機会に祈ること。


実際に聖書を読んで受ける印象と、ものみの塔研究から受ける印象の、
なんと違うことかと。

霊の実

2018-07-26 | 聖書
ガラテア5章22~23節。
「霊の実は、愛、喜び、平和、辛抱強さ、親切、善良、信仰、温和、自制です」

 平和⇒平安
●辛抱強さ⇒寛容
 親切⇒慈愛、仁慈(なさけ)
 善良⇒善意
●信仰⇒忠実、真実、誠実、忠信
●温和⇒柔和
 自制⇒節制

色々な訳を見てみると興味深い。
特に、黒丸●の訳語は、新世界訳独特。

温和と柔和は、ぎり受け入れられるとして。

辛抱強さと寛容では、随分と意味が違う。

信仰に至っては、全く意味が変わってしまっている。
いったいどこから、信仰という訳語が出てきたんだろう?

信仰を抱いて祈る者に、神は聖霊を与えてくださるのであって、
聖霊が信仰という実を生み出すわけじゃないと、自分は思うんだけど。

ものみの塔や洞察で、いくら言葉の意味を補ったとしても、
聖書を読んだ時に受ける印象が違ったら、訳としては、なし、でしょ。

さて、この霊の実。
前の節で書かれている、肉の「業」は、行ない、であるのに対して、
この、神の聖霊の実は、「実」なので、自然と生み出されるもの。

ヨハネ15章でイエスが語った言葉を思い出させる。

ぶどうの木(耕作者はエホバ神)であるイエスに結びついているなら、
実を結ぶ枝になれる、という話。

この霊の実に、人は惹かれて集まって来るんだろうと思う。

ネフィリム

2018-07-25 | 聖書
人が地に増え始めると、神の子らは、人の娘たちを妻にめとっていく。
生まれた子たちが、ネフィリム。

このことが始まったのは、ノアの時代よりかなり前なのかも。

「女の胤によって頭を砕かれる」という神の裁きを受けたサタンが、
その胤を無くそうと試みたことが考えられるから。

「わたしの霊が人に対していつまでも働くことはない。彼はやはり肉であるから」
という神の言葉は、ネフィリムに当てはまるのかもしれない。
そうすると、「したがってその日数は百二十年となる」と続くので、
ネフィリムは、当時としては短命だったのかも。

異種間の交配で生まれた動物は、短命だったり、生殖力がなかったりするらしいから、
あながち間違ってないかも。

それでも、ノアの時代になる頃には、力ある者たち、名ある人々となっていて、
地を損ない、暴虐で満たしていた。
彼らの父である神の子たちの影響も、多々あったと思う。

神の子たちには、性別が無いけど、あえて言うなら男性だろう。
たぶん、エバがアダムのあばら骨から創造された時には、
アダムが羨ましい~~~オレも女欲しい~~~と思ったかもしれない。
これは余談だけど。

そんなこんなで、めちゃくちゃになっちゃった地。
エホバ神は、大洪水でネフィリム共々悪を一掃して、地を清められた。
罪を犯した神の子たちは、タルタロスに投げ込まれて、
もう二度と、こうした悪さができないようにされた。

神の子たちは、地球に対して、人間に対して、なんでこんなに興味津々なんだろう?

預言書

2018-07-24 | 聖書
イザヤからマラキまでの預言書。
内容はよく分からないけど、好きだ。

エホバ神が、人々をどれほど愛してくださっているか、
どれほど救いたい、助けたいと思っておられるかが、
痛いほど伝わってくる。

滅びの預言は、救いの預言でもある。

旧約聖書の神は、戦いが好きな残忍な神だって言われるけど、
預言書を読むと、そうは思えない。

神の活動する力

2018-07-22 | 聖書
創世記1:2 「地は形がなく、荒漠としていて、闇が水の深みの表にあった。そして、神の活動する力が水の表を行きめぐっていた」

そして、神が言葉を発するたびに、地が形創られていく。
そして、七日目に神は業を完了して休まれ、七日目を祝福し神聖にされた。

神の活動する力が、今も地の表を行きめぐっているといいな。





ヨナ

2018-07-21 | 聖書
いきなり、「そして、・・」から始まるヨナ書。
この前に、どんな記述があったのか、気になる。
この始まり方からして、この書は狂言かな、と。

嵐の時、深く眠り込むヨナ。
イエスも、嵐の時、眠っていた。

ヨナを助けたいと思った船員たち。
でも、神はますます海を荒れさせ、船員たちにヨナを海に投げ込ませる。

なぜ、ヨナは自分から海に飛び込まなかったのか?
イエスの処刑と対比させる意味があったのか、単に自殺はダメだからか・・

船員たちは、罪のない血を私たちに帰させないでください、と神に呼ばわってる。
イエスも、杭に付けられたとき、彼ら(ローマ兵?)をお許しください、と言ってる。

三日三晩、魚の腹の中にいたヨナ。
足かけ三日、墓の中にいたイエス。

魚の腹の中で、ヨナは祈る。
命は、エホバ神に全く依存していること。
救いは、エホバ神のものであること。

歩いて回ると三日かかるニネベ。
その都市に入ったヨナは、歩いて一日(だけ)、しきりにふれ告げる。
すると、人々は神に信仰を置くようになり、あれよあれよと話は広まって王に達し、事態はどんどん進んで、あっという間にニネベ中が悔い改める。

40日後に滅ぶはずだったニネベ。
ヨナは不満たらたら。

ひょうたんのくだりも狂言ならでは。
エホバ神の手のひらの上で転がされちゃってるヨナは、愛されキャラだね。

復活

2018-07-09 | 聖書
誰が復活するのか。

ヨハネ5:28 「・・記念の墓の中にいる者がみな、彼の声を聞いて出て来る時が来ようとしている・・」
ルカ7:14 ・・イエスは言われた、「若者よ、あなたに言います、起き上がりなさい!」
ルカ8:54 ・・「少女よ、起きなさい!」と言われた。
ヨハネ11:43 ・・イエスは大声で叫ばれた、「ラザロよ、さあ、出てきなさい!」

イエスの声に応じる者が復活してる。

ヨハネ10:4 「・・羊はあとに付いて行きます。彼の声を知っているからです」
ヨハネ18:37 「・・真理の側にいる者はみなわたしの声を聴きます」

イエスの声(真理)を知っている人は、その時、声を聞いて復活する。

でも、
イエスの声を知らないで死んだとしても、その時、その声に答え応じるならば、
復活するんじゃないかな。若者や少女のように。

罪の報いは死、死んだ者は自分の罪から放免されている。

死者すべて(聖霊に逆らった者以外)に、等しく、復活の機会があると信じたい。