goo blog サービス終了のお知らせ 

聖なる書物を読んで

現役JW29年目

使徒たちの活動9~11章(追記あり)

2018-12-04 | 聖書
ここでは、キリスト教が異邦人に伝わって行った様子が描かれる。

9章では、サウロの改宗。(諸国民への使徒となる)
10章では、異邦人コルネリオの改宗。(ヨッパに居たペテロが呼ばれ、カエサレアに行って)
11章では、エルサレム会衆が異邦人の改宗を受け入れ、アンティオキアに初めて異邦人(無割礼)の交わる会衆が設立される。

9章。

3~9節。サウロの改宗は、弟子から教えられてという宣教の結果ではなく、イエスが光の中から直接話す(ダマスカスへの途上)という特殊なものだった。この出来事はこの書の中で3回も言及されてる(22:6~16,26:12~18)。ルカはパウロの使徒職を確立したかったんだろうな。
そして、学識のあるサウロが理論によってではなく、直接イエスの顕現によって回心に至ったことは興味深い。3日飲み食いしなかった間に、サウロはどれだけのことを考えたんだろう。

14~16節。「み名(イエス)を呼び求める者」「わたしの名(イエス)を・・携えていくための選びの器」「わたしの名(イエス)のために・・苦しみを受ける」。(21節「この名を呼び求める者たち」)
キリスト教は、エホバじゃなくイエスの名を担ってる。ここ大事。

17~18節。ダマスカスに居た弟子のアナニヤ(使徒ではない)が、サウロの上に手を置く。ここでは聖霊が下ることより、目から鱗のほうが強調されてる。サウロの中での変化を象徴してるようで、これも興味深い。

19~25節。サウロはすぐにダマスカスの会堂で、ユダヤ人たちに宣べ伝える。かなりな日数の後、ユダヤ人たちに殺害されそうになり、夜の間に城壁から籠でつり下げてもらってエルサレムへ。
サウロの改宗から最初のエルサレム行きまでに、3年間ある(ガラテア1:17,18)。この間にサウロはアラビアに行って、またダマスカスに戻って来てる。それがいつなのか、なぜなのかは分からない。

26,27節。サウロは「ペテロを訪ねるためにエルサレムに上り、彼のもとに15日間滞在した。他の使徒には会わず、主の兄弟ヤコブに会っただけ」と書いている(ガラテア1:18)。
弟子たち(サウロを恐れている)と交わろうとしているサウロを、ペテロたちに引き合わせたのはバルナバ。バルナバはサウロを知ってたのかなぁ。

28~30節。サウロはエルサレムでもヘレニストたちに宣教した結果、殺されそうになってタルソスに送り出されてる。(22:17~21によるとサウロ個人にも、エルサレムから出るように、という啓示があった)

31節。ユダヤ、ガリラヤ、サマリアの平和な時期。サウロが去ったから? 

32~43節。ペテロが各地の聖なる者(すでに改宗してた)のところを回る(エルサレム会衆の権威を示すためだったりしてw)。アイネアをいやし、タビタをよみがえらせる。イエスがしていたやり方とよく似てる。「起きて自分の寝床を整えなさい」。皆を外に出して「タビタ、起きなさい(タビタ、クミ?w)」。

ここまでで、サウロは異邦人には宣べ伝えていないんだね。

10章。

14節。ペテロはこの時もまだ律法を守ってた。伝統や慣習を変えるのは難しい。イエスが「外から入って行ってその人を汚すことのできるものは何もない」(マルコ7:15)と言われたことは分かっていたはずなのに。そして諸国民に宣べ伝えなければならないことも分かっていたはずなのに。
エルサレム会衆はかなりユダヤ教におされてたのかもしれない。サウロが殺されそうになったのも、そのあたりが理由だったのかも(ユダヤ教を完全に捨て去った)。

11章。

2,3節。エルサレム会衆のユダヤ人は、ペテロが異邦人にバプテスマを施したことではなく、割礼を受けていない者たちの家に入って一緒に食事をしたことを咎めてる。なんと選民意識の根強さよ。
そして18節。ペテロの話を聞いて、神の偉大さの前で取り敢えずは黙るけど、この後も割礼の問題が論争になっていくんだよなぁ。

でもこれでなんとか、ユダヤ人も異邦人を迎える準備はできた。

20~21節。アンティオキアで異邦人への宣教が始まる。(これもヘレニストたちが行なったのであって、使徒たちではない)

22節。エルサレム会衆からアンティオキア会衆に遣わされたのは、バルナバ。ヘレニストだったからというのもあるだろうけど・・・なんで使徒たちじゃなかったんだろうね。・・・なんかね、バルナバさん、体よく追っ払われちゃったんじゃないかな、なんてね。目立ち過ぎ~(24節)みたいなw。まぁ使徒より目立ってるのは確かだよね。(土地を売って全額寄付し、食料分配の7人に選ばれ、サウロを助ける)

26節。バルナバはサウロを探し、タルソスからアンティオキアに連れて来る。二人はそこで1年間教える。弟子たちがクリスチャンと呼ばれたのは、ここアンティオキアが最初。
ふ~む・・エルサレムが最初ではないということは、エルサレムではイエスを前面に出すことはしてなかった(統治体みたいw)とか。・・まぁバルナバとパウロは、思いっきりユダヤ教を離れてイエスだけを宣べ伝えられただろうけど。

30節。救援のためにエルサレムへ上ったことは、ガラテア書の中には書かれていない。単に省略しただけかもしれないけど・・


組織が主張しているように、エルサレムに統治体があったという前提で読んでると、確かに統治体はあったと思えるようになってきた。伝統や慣習(人間の作った規則)に凝り固まった選民意識の塊が。ただそれは、今の統治体とは違って、人間的な弱さに起因するものなのかなとも思われる。



追記(田川建三氏の新約聖書 訳と註 ヨハネ福音書p474より)
ヘレニスト・クリスチャンはユダヤ教右翼によってえげつなく弾圧され、彼らの代表的な立場にあったステファノスは惨殺され、ほかのヘレニストたちもエルサレムにいられなくなって、亡命し、パレスチナの中でも、ユダヤ人勢力の薄いサマリアや、海岸のヘレニズム的諸都市に逃れた。そしておそらくそこから更に他の土地に、たとえばフェニキア海岸の諸都市にキリスト教を伝えたのも彼らであっただろう。つまり弾圧、亡命後の彼らの活動も目覚ましい物ではあったが、その最初にえげつない弾圧にさらされ、生命の危険にもさらされたということを忘れるわけにはいかない。そして、その時、エルサレム教会の「指導者」、つまり・・ペテロたち一派は何をしたか。何もしなかった。自分たちは「ヘレニスト」の信者たち(つまりユダヤ教のあり方、特に神殿を至上の場所として崇め奉る宗教体制を鋭く批判したが故に弾圧された人たち)とは関係がないとばかりに、この時、まったく何もせずに、手つかずに無事にエルサレムに根を張り続けていたではないか。つまり、イエスが何者であり、イエスを本気になって信じようとしたヘレニスト信者たちが何者であろうと、ペテロたちは無事おとなしくユダヤ教権力ににらまれないようにエルサレムに安住していたのである。

ヨハネ福音書 訳と註

2018-12-02 | 聖書
新約聖書学者の田川建三氏の著作、「新約聖書 訳と註 ヨハネ福音書」を図書館で借りて来て読んでいる。

ちょうど自分なりにヨハネ福音書の考察(といえるほど偉そうなものではないけど)を終えたところだったので、とても興味深く読ませて頂いている。


田川氏によるとヨハネ福音書は、「一人の非常に独特の個性のある、いろいろ癖はあるがまことに面白い著者の作品が、後の編集者たちによって、正統主義的ドグマを表明する文章があちこちにはめ込まれていった」ものだという。

著者(使徒のヨハネではない)は、「イエスが神の子である、つまり、世を絶対的に超越した神的存在である」こと、それを「(パウロと違って)宗教理論、宗教信仰として言い立てるのではなく、神の子である者が本当に人間として我々の世界に姿を顕したのだ」ということが言いたかった。
そして「ペテロたちが形成したキリスト教の実態に対する極めて鋭い批判」、「ユダヤ教批判」なども。

まだ12章までしか読んでないけど、編集者たちが挿入したという部分は、言われてみると確かに「ドグマを表明する」もので、前後の文章とつながらなかったり、矛盾してたりもする。

これはかなり、目から鱗。

聖書が初期から、教義に合わせて改竄されてきたとなると・・・・・う~~~~ん。

使徒たちの活動6~8章

2018-11-27 | 聖書
ここでは、使徒たちではなく(ちょこっとペテロとヨハネは出て来る)、ステファノとフィリポ(二人ともヘレニスト)の活動が描かれる。

食物の分配のために選ばれた7人のうちの二人。
ステファノは、ユダヤ教徒たちに聖書から証し(なんと3ページ分も!)し、クリスチャン最初の殉教者となった。それによって迫害がおき、弟子たちはエルサレムから散らされ、福音が各地に広まることになる。
フィリポは、サマリア人やエチオピアの宦官(聖霊を受けてないから、天には行かない人ってこと?? だとすると、当時も天に行かない人っていっぱいいたかも)に宣明し、さらにカエサレアに着くまで、行く先々で宣明する。天使や神の霊の導きで。そしてカエサレアに定住し、後に(56年頃)そこで、3回目の宣教旅行を終えてエルサレムに向かう途中のパウロを迎えた。

6:2で「十二人の者」と書いてるルカ。十二使徒って書かなかったのは、パウロのことを思ってか、マッテヤを使徒と認めてなかったからか。

6:2~4「食物の分配のために神の言葉を差し置くのは喜ばしくない」とか、「わたしたちのほうは祈りとみ言葉の奉仕とに専念する」とか。・・・まぁ、信者が増えて仕事も増えてたんだろうけど、なんかね、選民意識を感じる言葉だよね。今までは何とも思わなかったけど、ルカが描く使徒たちってなんだかちょっと変(自分の意識が変わったから?)。ルカは使徒たちがあんまり好きじゃなかったのかなぁ。

6:5「アンティオキアの改宗者ニコラオ」と、わざわざアンティオキアと書いてる。後のエルサレム会衆とアンティオキア会衆の確執を感じさせる。(考えすぎ?)

6:7「その結果、神の言葉が盛んになり」とあるから、この7人の選出は神に祝福されたってことなんだろうな。でも面白いのは、続いて書かれてるステファノとフィリポは、食物の分配人としてではなく、イエスの福音宣明者として書かれてるんだよね。で、使徒たちはというと、その後、イエスの福音宣明者としての活動など、ほとんど書かれていない。ペテロ(とヨハネ)のことは少しあるけど、イエスの福音宣明者としてというより、すでに宣明されたところに行ってる感じ。コルネリオ以外は。・・・なんかね、エルサレムの使徒たちと統治体が、良くない意味でかぶるんだよねw。やっぱり1世紀にも統治体(の精神)はあったのかも・・・www。

7:23,30。モーセの40歳のときと80歳のときと、年齢がわかるのはステファノのこの言葉から。

7:46。[特権]という言葉を補ってるけど、新世界訳の付け足しによる意訳。特権大好き統治体。

7:56「神の右に立つ」。ここだけ立つ。他は座る。ステファノが見たイエスは、立ってたんだね。

8:1。エルサレムに迫害が起きて、使徒たちのほかは皆、散らされるんだけど・・・使徒たちは何でエルサレムに残ったの????? 率先して地の果てまで宣べ伝える精神は持ってなかった????? 中央に陣取ってみんなの報告を待ってるだけ????? ・・迫害の中、エルサレムで宣べ伝えてたのかなぁ(善意の見方)。

8:2。ステファノを葬ったのは使徒たちじゃないの?????

8:18「霊が与えられるのを見た」ということは、当時は誰にでも見える仕方で霊が下ってたってことだよね。なのになぜか今は自己申告w。

8:25「徹底的に証しをして」。「徹底的に」は新世界訳の意訳。教義に合わせて意訳し放題。

8:37。形式的信仰告白が洗礼の条件になった後の時代に、「フィリポ『あなたが真心から信じるなら』と言うと、宦官『イエス・キリストは神の子であると信じます』と答えた」といった言葉が付け加えられたらしい。
新世界訳ではここは抜けてる。なのにバプテスマの時に2つの質問に「はい」と答えさせる。それが聖書的じゃないってことが分かってるのか、分かってないのか・・・

使徒たちの活動4,5章

2018-11-20 | 聖書
聖霊で満たされた弟子たちは、癒しを行ないながら、エルサレムの神殿(ソロモンの柱廊)で宣べ伝える。

イエスの復活についての証しは、サドカイ人には特に鬱陶しいもの。それでサドカイ人の苛立ち(4:2)によってペテロとヨハネが捕えられる。

7節の「どんな権限で、まただれの名において、このことを行なったのか」は、申命記13:1~5節「しるしや不思議を行ない、他の神に仕えようと言う預言者は、殺されなければならない」という律法によって彼らを裁くための質問だったのだろう。

2人は、イエスが神の定めた救い主であることを、聖句を用いて巧みに答える。祭司長の中庭でイエスを3度も否認した時との違いたるや。これが聖霊の力なのかな。

13節の「無学な普通の人」に関しては、読み書きできなかったという可能性もあるとは思うけど、宗教学校に行ってなかったというものみの塔の解釈でもいいのかなと思う。

「この名によって語らぬように」という脅しに、2人は「自分の見聞きした事柄について話すのをやめるわけにはいかない」と答える。・・・そう、彼らは実際に自分で見たり聞いたりした事柄を宣べ伝えてたんだよね。それも、聖霊に満たされた状態で。今の自分とは全く違う。

そして、初期の弟子たちの生活の様子が描かれる。

祈り。(神が創造者であることを思うなら恐れる必要などない。聖書の言葉を思うなら物事の本質が見えて、神がすべてを支配しておられることが理解できる。聖霊を祈り求めるなら与えられる)

共有。(バルナバの善。アナニアとサッピラの偽善。集会から偽善=サタンを除くことが初期には特に必須だったのかも。初期のこの、規則や強制ではなく、善意による共同体が、本来のキリスト教の会衆なんだろうなと思う。エホバの証人もこれを目指してるんだろうけど、今の世では無理だよね。聖霊に満たされてないし、アナニアとサッピラものさばってるw)

さらに、信じる者が大ぜい加えられていく。

サドカイ派は(苛立ちを越え)ねたみに満たされて(5:17)、使徒たちを捕らえる。でもみ使い(サドカイ派は復活やみ使いを信じない)によって自由にされ、神殿で宣べ伝えているところを、サンヘドリンに連れて行かれる。

29節(32節も)の「(自分たちの)支配者として」という言葉は他の訳にはない。かっこいいけどね、ない言葉を加えちゃダメ。
この話の流れ(特に5章)の中でのポイントは、「人か神か」だと思う。4節でも「人にではなく神に対して虚偽の振る舞いをした」とあるし、この後に出てくるガマリエルも「人間からなら覆されるが神からなら覆すことはできない」と言っている。ここでも、「人間より神に従わねばならない」と。

「従わねばならない」と訳してるのと「従うべき」と訳してるのがある。ちょっとニュアンスが違うよね。ものみの塔は「ねばならない」が多くてうんざりする・・・

サドカイ人によって捕まった使徒たちを、解放するために立ち上がったのが、パリサイ人のガマリエルだったというのも興味深い。パリサイ人は復活を信じてたから。使徒たちがイエスの「復活」についての証人だったことがよくわかる。(ちなみにガマリエルの述べた2つの事例は、宗教的なものと政治的なものだった)

使徒たちの活動1~3章

2018-11-13 | 聖書
イエスは、復活されて40日間、弟子たちに現われた。そして弟子たちに「父が約束されたものを待つように」と言われて昇天された。それから10日後、ペンテコステの時に120人ほどの弟子たちが、聖霊で満たされる。(ヨエルの預言の成就と言われてることからも、使徒たちだけではなく、いつも集まっていた120人ほどが聖霊に満たされたんだろうと思う)

その10日間、弟子たちはひたすら祈り続ける。また、ペテロの言葉によってくじが引かれ、ユダの代わりにマッテヤが使徒とされる。

聖霊で「満たされる」というのは、「注がれる」よりずっと濃いニュアンス。聖霊でバプテスマを受けるのだから、水のバプテスマで浸水するように、全身聖霊に満たされる感覚なんだろう。もしかしたら、外側だけでなく内側も満たされるのかもしれない。

弟子たちの宣教は、そのような状態で行なわれた。それまでイエスが行なってきた業を、聖霊が弟子たちを通して行なうようにと、引き継がれたようなもの。「使徒たちの活動」とあるけれど、この記録は「聖霊の活動」の記録だとも言われている。

そう考えると、やっぱり今はそういう聖霊は働いていないんじゃないかと思う。少なくとも自分には。
だから宣教は、自分に聖霊が働いている、自分は聖霊に満たされている、と確信できる人に任せればいいんじゃないかなと思う。(もしいつか自分がそう確信できたら、宣教するようになるかもv)


3:15 イエスを「命の主要な代理者」と訳している新世界訳。
他の訳では「いのちの君」「命への導き手」「生命の導師」「命の先達」など。「命の先導者」「命の創始者」などの意味もある、とのこと。洞察には、ギリシャ語では「(命の)主要な指導者」を意味している、と。
代理者っていう表現は、復活も裁きもイエスが神の代理として行う、という教義に基づいた意訳だよね。
ペテロがここで言いたかったことは、単純に、イエスが命への導き手なんだよ、ってことだけなんじゃないかと。それを仰々しく、命の主要な代理者、なんて言葉を使うから、分かりにくいったらありゃしない。

新世界訳は分かりやすい、なんて言われてたけど、とんでもないですね。他の訳の方がよっぽど分かりやすい、ということに最近気がついた次第です。使徒たちの活動(使徒行伝)も、他の聖書を読んだ方がよく分かります。

ヨハネ21章

2018-11-08 | 聖書
ヨハネ福音書の最後の章。ヨハネは、出版するに当たりこの章を書き加えたと言われている。確かに、20章で終わったとしても違和感はない。

イエスの復活後のガリラヤでの出来事。

み使いは、墓に来た女たちに「彼(イエス)はあなた方に先立ってガリラヤに行きます。あなた方はそこで彼を見るでしょう」と告げる(マタイ28:7、マルコ16:7)。それで弟子たちはガリラヤに行く。

ガリラヤは弟子たちの故郷でもあり、イエスが活動の拠点とされていた場所で、イエスと共に過ごした日々、ここでたくさんの神の栄光が表された記憶が、弟子たちにはよみがえったことだろう。迫害におびえるエルサレム近辺に居るのとは、心持が違っただろうと思う。イエスはそれもわかっていて、弟子たちをガリラヤに行かせたのだろう。

弟子たちは、イエスの現われを待つ間に漁に出る。ものみの塔は、漁師に戻ったと言ってるけど、自分はそうではないと思う。これからに備えての、資金調達のため(捕った魚を売る)だったのではないかと。聖ペテロの魚(セントピーターズフィッシュ)とかいう名の魚もいるらしいw。

漁師の彼らが、夜じゅうかかっても何も捕れなかったのに、イエスの言葉に従って網を投じると、154匹もの魚が網も破れることなく捕れた。これだけあれば当面の資金にはなるよね(魚がくわえたスタテル硬貨にも通じる)。お腹も満たされるしね。イエスは物質的必要もちゃんと備えて下さる方。

イエスはペテロに「これら以上にわたしを愛していますか」と質問する。「これら」を魚(過去の仕事)のことだとものみの塔は言うけど、ほかの弟子たちのことだとする見解も多い。自分も後者だと思う。

ペテロは「ほかのみんながつまずいても、わたしは決してつまずかない」と豪語した。なのにイエスを3度も否認してしまった。イエスからこの質問をされたペテロは、間違いなくそのことを考えただろうと思う。でもイエスへの愛情は心からのものだった。

ペテロの答えは「愛情を持っていることを、あなたは知っておられる」。以前のように自信過剰ではない。3度目には悲嘆して「あなたはすべてのことを知っておられる」と付け加えてる。

ちなみにイエスは3回この質問をしてるけど、はじめの2回はアガパオー(新世界訳では「愛して」)を用い、最後はフィレオー(新世界訳では「愛情を持って」)を用いてる。ペテロは3回ともフィレオーを用いて返事している。(フィレオーの方が通常用いられてることばだったらしい)

イエスはペテロの答えを聞いた後、わたしの「子羊たちを養いなさい」「小さな羊たちを牧しなさい」「小さな羊たちを養いなさい」と微妙に違う言葉を出してる(他の訳には「小さな」はついてない)。それに意味があるのかどうかは分からないけど、イエスがペテロを(大きな失敗をしたにもかかわらず・・・いやその経験があったからこそ)牧者として任命されたことはわかる。

23節。「彼は死なないと言われたのではなく」
この頃には、イエスの再来までヨハネは死なない(ヨハネが死ぬ前にイエスが再来する! みたいなw)、という話が広まっていて、それを訂正したかったんだろうな、と。イエスが言われたことを踏み越えて、(ものみの塔みたいに)預言したり期待したりしたらダメだよという教訓。

ヨハネ20章

2018-11-06 | 聖書
イエスの復活を見たのは、イエスを愛していた弟子たち。人を恐れてたり、どうしていいか分からなくなってたり、信仰が弱くなってたりしていた弟子たちに、時には個人のために現われた。

一人は、マリア・マグダレネ。
ヨハネは、最初にイエスの墓に行った女性たちのうち、このマリアに焦点をあてて書いてる。最初に復活したイエスに会い、それを証しした者として。
マリアは7つの悪霊に取りつかれていた。イエスに救われるまでの生活は悲惨なもの(普通の人間らしい生活はできなかったかも)だったかもしれない。マリアはイエスを信じ追従してきた。頼れる人が他にはいなかったとも考えられる。イエスの死の時も近くにいた。
復活したイエスに、マリアはすがりつく。イエスは「すがりつくのはやめなさい。わたしはまだ父のもとへ上っていないから」と言われる。今後も目には見えなくても、いつでもそばにいるんだよ、ということをマリアが理解できるように。

もう一人は、トマス。
「(目で見るだけでなく)指をくぎの跡に差し入れ、手をその脇腹に差し入れない限り、決して信じない」というトマスのために。8日後にイエスは、「(実際にそのようにして)信じる者となりなさい」、そして「見なくても信じる者は幸いです」と言われる。
信じないと言いながらも、トマスは8日後にも弟子たちと一緒にいた。自分もイエスに会いたい、という気持ちを知っててイエスは現われてくださったんだろうなと。

復活したイエスが、父のもとへ神のもとへ上ったこと。
目に見えなくても信じること。


21,22節。「わたしもあなた方を遣わします」「聖霊を受けなさい。あなた方が人の罪を許すなら、それは許されています」
宣教するには聖霊を受ける必要があること、なぜなら宣教には罪の許しが関係しているからだ、ということがわかる。
1世紀と違って、聖霊を受けていない(自称油そそがれた者はいるらしいけどw)状態で、イエスの命令に従うためだからと理由をつけて宣教を行なうのは、もしかしたら傲慢で間違ってることなのかもしれないなぁ・・・・・と読んでて思った。

今は聖書がある。聖書を(神やイエスを)知ってもらうために語るのはいいけど、聖霊が注がれた自覚もないのに、弟子たちと同様の宣教を(エホバの証人のように)しているつもりになるのは、思い上がりなんじゃないかと。
啓示の書には、中天を飛ぶみ使いが良いたよりを全地にふれ告げてる、ってあるし、刈り取る業はみ使いが行なうんだしね。

エホバの証人のみなさん、宣教しなくても大丈夫ですよ~





グアテマラで、宣教に入っていた日本人の2人の若い姉妹が、強盗に襲われて1人亡くなりました。NHKニュースでも扱われました。
組織はどうするんでしょう・・・また無かった事にするのかな。今回はそうもいかないかな。
日本支部は「心が痛みます」とは言ってるけど「信者が自主的に外国で布教活動することが多く、今回も自主的に滞在していたのではないかと思われる」とのこと。

宣教はすべて自己責任。エホバの証人のみなさん、エホバは宣教しなさいなんて言ってませんよ~言ってるのは組織ですよ~

ヨハネ19章

2018-11-01 | 聖書
ヨハネの福音書に書かれていないこと。

キレネ生まれのシモンに苦しみの杭を運ばせたこと。
苦しみの杭から下りて自分を救ってみろと愚弄されたこと。
第6時から第9時まで全土に闇が垂れこめたこと。
聖なる所の垂れ幕が上から下まで真ん中から2つに裂けたこと。
祭司長とパリサイ人たちが警備隊で墓の守りを固めたこと。

ヨハネの福音書だけに書かれていること。

5節。「見よ、この人だ!」。ピラトは何度もイエスを釈放しようと試みる。イエスの鞭打たれた姿(これで絶命することもあるほどの、自白を促すための拷問だったらしい)を見せる。
しかし11節でのイエスの答え「上から与えられたのでない限り、何の(杭に付ける)権限もない。わたしをあなたに引き渡した人にはさらに大きな罪がある(ピラトの罪の意識を軽くしたんじゃないかと思う)」と、12節のユダヤ人たちの叫び「釈放するならあなたはカエサルの友ではない」は、ピラトの背中を押すものとなった。
裁きの座でピラトはユダヤ人たちに、イエスのことを「あなた方の王だ」(14節)「わたしがあなた方の王を杭につけるのか」(15節)と言う。そして祭司長たちの「カエサルのほかに王はいない」という言葉を聞いて、16節「彼らに引き渡し」、「彼らはイエスの身を引き取った」。
実際に処刑はローマ兵が行なったのだから、「イエスの身を引き取った」というのは、比喩的な意味なんだろうと思う。11節でイエスが言われたこと、イエスをピラトに引き渡した人たちに引き渡し、引き取ったということで、いわばここでピラトの手を離れた。

この一連のピラトとのやり取りを読んでると、ピラトにはイエス処刑に関しての罪はほとんどなかったんじゃないかと思う。

21,22節。杭の上に掲げられた罪名に関するやり取り。ピラトはイエスをユダヤ人の王として認めていたのかもしれないなぁと。

25~27節。母をヨハネに託す。「婦人よ」と呼びかけてる。カナの婚宴での呼びかけと同じ。ヨハネの福音書に母マリアが出てくるのはこの2か所で、マリアの名は書かれてない。なぜだろう。カナでは「わたしはあなたとどんな関わりがあるのか。わたしの時はまだ来ていない」とイエスは言ってるけど・・・
(もしかしたらその当時すでにマリア崇拝があって、ヨハネはそれを否定したくて名前を書かなかったのかもしれないな)

28節「わたしは乾く」30節「成し遂げられた」。

34節。「血と水が出た」。新世界訳のマタイに、イエスの死の前に付け足しとして書かれてるけど、省いてる聖書が多い。突き刺されたのは死の後だろう。35節以下にヨハネの証の言葉が続く。

39節。ニコデモが没薬とじん香を持って来たこと。(ヨハネだけがニコデモのこと3回も書いてるw)

ヨハネ18章

2018-10-31 | 聖書
ヨハネの福音書に書かれていないこと。

ゲッセマネの園の名。園でのイエスの祈りとそれに関連する出来事。
ユダが口づけしたこと。ユダのその後と自殺のこと。
大祭司カヤファの家での尋問。
ペテロが外に出て泣いたこと。(その代わりに21章でイエスとペテロの感動的な記述を)

ヨハネの福音書だけに書かれていること。

4~9節。イエスが弟子たちを守ったこと。「一人をも失わない」という預言(17:12)の成就でもあり、イエスの弟子たちへの愛でもある。
特に5節、「わたしが[その者]です」。ギリシャ語ではエゴーエイミーで、神のみ名「わたしは在る」を意味する言葉。イエスがここでみ名を用いて弟子たちを守ったことが興味深い。
6節には、彼ら(イエスを捕えに来た兵士の一隊や下役たち)が「後ずさりして地面に倒れた」とある。イエスの発したたった一言の威力たるや。これを、イエスが神である証拠とみるかどうか。ヨハネが伝えたかったことを、深く考えてみる必要がありそう。

10節。ペテロがマルコスの右の耳を切り落とした(2人の実名を記録)こと。そろそろ実名書いても大丈夫、って時代になったのかなw。

11節。ゲッセマネの園でのイエスの祈り(この杯を取り除いてください)を書かなかった代わりに「父がわたしにお与えになった杯をぜひとも飲むべき」と。

13,14,19~24節。まずアンナスのところに引いて行かれ、尋問されたこと。ここでもイエスは弟子たちを守られてる。「弟子たちや教えについて」質問されて、無言でも良かったのに「公に話してきた。聞いた人たちに質問しなさい」と答え、弟子たちに手が及ばないようにされた。
アンナスは大祭司カヤファの舅なので、同じ家に住んでいたのではないかと考えられている。でないと、15~18節の大祭司に知られた弟子(ヨハネ自身という意見が多い。その兄弟のヤコブではないかとも言われてる。裕福な父ゼベダイの関係か)がペテロを大祭司の中庭に招き入れたこと、そこで起きたペテロの3度の否認と合致しない。

28節。「彼らは・・総督の官邸内に入らなかった。身を汚さずに過ぎ越しの食事をしようとしてであった」。律法のより重大な事柄を無視して、細かい規定に従うことの愚かさが浮き彫りにされてる感じ。
物事の本質が見えてないって、時に怖いを通り越して滑稽にも見える。排斥・断絶者への無視ってそんな感じ。無視しといて、愛だ愛だ言われてもね・・・

31節。「わたしたちが人を殺すことは許されていない」。死刑執行の権利はローマ政府に取り上げられていた。

32節。「イエスがどんな死を遂げることになっているかを示して言われた言葉が成就するため」。ユダヤ人の死刑は石打。その後、のろわれたものとして(見せしめで)杭(もしくは木)にさらされることもあった。
イエスはご自分が挙げられることを預言していた(3:14,12:32)。そして、単に石打で殺されるんじゃなく、杭に挙げられた(のろわれたもの、見せしめ)。
十字架か杭か・・・どっちかなぁ。どっちでもいいような、よくないような・・・これもまだよくわからない。

33~38節。ピラトとの会話。ここで争点となってるのは、神への冒とくではなくローマへの反逆。ユダヤ人たちは冒とくの罪でイエスを死刑にしようとしてるのに、ピラトへの訴えはこれなんだから、ずるいよね。
イエスはここでも弟子たちを守ってる。「わたしの王国はこの世のものではない」から、弟子たちは戦わないと。
そして「真理について証しするために世に来た」と、異邦人であるピラトに宣べ伝えてる! ピラトの反応は無関心。「真理とは何か」と言ってるけど、知りたいわけじゃなく、軽く馬鹿にしてる感じかな。霊的な会話が成り立たない感じ。
(このへんのやり取りをヨハネがどうして知ったのか・・・後に信者になったローマ人の目撃者から聞いたのか、聖霊が教えたのか)

イエスが弟子たちを守っているのとは対照的に、ペテロは詰問されて自分を守るためにイエスを否認してしまう。それでもイエスは最後まで弟子たちを愛された。

ヨハネ17章

2018-10-25 | 聖書
ご自分を贖いの犠牲として捧げる前に、全ての人の大祭司として神に祈られたイエスの言葉。
1~5節はご自分のこと、6~19節は弟子たちのこと、20節~は弟子たちの言葉(聖書含む)によって信仰を持つ者たちのことを。
栄光を、保護を、聖別を、一致を、愛を。

・・・深いです。何を書いても上っ面になりそうです。なので、今まで学んでこなかった点や、新世界訳を読んだだけでは分からなかった点を書いておきます。

1,5,11,21,24,25節。「父よ」=「アバ」。「アバ、父よ」って言うのが油そそがれた者だけだとしたら、自分は「父よ(アバ)」って祈ったらダメって事になっちゃわないかなぁ・・・やっぱり油注がれるってよく分かんないなぁ。

1節。「時は来ました」。ヨハネは「時」について何度も書いてる。いよいよその時が来た。

3節。ご自分のことをここで初めて「イエス・キリスト」と言われた。神に遣わされたキリストとしてのイエスを知るように、ということだね。

5,24節。教義では「世がある前」「世の基が置かれる前」とは、人類誕生の前となっている。それでもいいのかなとは思うけど、天地創造の前としているものも多い。どちらであっても大切なのは、イエスが神の傍らで栄光ある存在だったこと、再びその栄光を得て弟子たちもその栄光にあずかるようにと祈ってくださってること。

6,26節。「み名を明らかにする」「み名を知らせる」。イエスは「み名」に拘っていたわけじゃなくて、み名の表わしている本質を明らかにし、知らせた。(弟子たちはすでに神の名を知ってた)

8節。新世界訳の「代理者」という言葉は付け足し。
神がイエスに与えてくださったことばを「受け入れ」、イエスが神から出て来たことを「知り」、神がイエスを遣わされたことを「信じた」。これが弟子になって行く過程だとわかる。

11,12節。新世界訳「み名のために彼らを見守る」。他の訳「み名によって彼らを守る」「あなたの名で彼らを守る」。だいぶ印象が違う。他の訳の神は、新世界訳の神よりずっと積極的に、まさに父親のように守ってくださるように感じる。

15節。新世界訳「見守る」。他の訳「守る」。サタンから、見守るのと守るのとじゃ、雲泥の差が出ると思うんだけど、どうなんだろうね。

15~18節。邪悪な者のいる「世のものではない」ことと、み言葉真理によって神聖なものとされることが、対として書かれている。イエスが足を洗ってくださったこと(日々の罪を贖っていただくこと)とも通じる。世に居る限り、日々、世の影響を受けるのは必至なわけで、それを取り除くために聖書と祈りは不可欠だとわかる。

21,23,26節。「結びついて」。すべて付け足し、もしくは意訳。

23,26節。イエスを愛した神の愛が弟子たちのうちにもあることを世が知る。イエスを愛した神の愛によって一致する。
キリスト教がどれほど分裂していても、大切なのは一人一人が神とイエス(とその愛)について知る(知識としてではなく、いわば父や兄弟や友として)ことなのかなと感じた。