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聖なる書物を読んで

現役JW29年目

ガラテア (3)

2019-06-05 | 聖書
昨日の記事、長くなったので分けました。

6:16
「神のイスラエル」。この言葉、新約で出て来るのはここだけ。
普通はキリスト教会のこと(この組織では霊的イスラエルつまり14万4千人の油そそがれた者たち・・・油そそがれたっていう言葉も使わなくなったんでしたっけ・・・選ばれた者たち?)であると解釈されてるけど、パウロがユダヤ人以外をイスラエルと呼ぶことはありえない、と田川氏は書いている。

なので田川訳では「この基準の側に並ぶ者すべてに平安が、また憐みがあるように。そして神のイスラエルにも。」となっている。
改訂版は「この指針に従ってきちんと歩む人すべてに、つまり神のイスラエルに、平和が与えられ、憐みが示されますように。」

田川訳では、「並ぶ者」と「神のイスラエル」が別物であることがわかるように訳されている。パウロは自身の民族であるユダヤ人のことを(クリスチャンであろうとなかろうと)いつも気にかけていた人。だから、こう付け加えたのだろうと。

写本がいろいろ違ってたり、言葉の意味の取り方や構文の解釈の仕方が幾通りもあったりする場合、どう訳すかを考えた時、田川氏は、作者の考え方や思想や言葉の使い方などを考慮した上で訳されている。
組織は、まず教理ありきで意訳している。だから、こういう違いがあちこちに出て来る。

どちらを好むかは人それぞれだろうけど、訳し方として正しいのは田川氏の方だと思う。

まぁ、この部分を見るだけでも、組織が説教材料として引用するなら、改訂版の方がずっと使いやすいだろうなと思われるw。

上にも少し書いたけど、改訂版では「油そそがれた」という言葉が「選ばれた」もしくは「(エホバが)選んだ」という言葉になっているんですね~~ちょっとびっくりです。
これも意訳ですよね。油をそそぐって、選ばれること以外にもいろんな意味を含んでいると思うんですよ・・・モーセ時代からの儀式ですもんねぇ(人だけじゃなく物にも油そそぎしてますし)・・・そのまま訳した方がいいよねぇ・・・

今後、選ばれた者たち、という言葉が使われる度に、潜在的にクリスチャン内の格差も増し加わっていくんでしょう。これも一種のマインド・コントロール。ヤダヤダ・・・

ガラテア (2)

2019-06-04 | 聖書
4:22~31
24節の、新世界訳での「象徴的な劇」ですが、改訂版では「別の意味」と訳されてます。
田川訳では「アレゴリーとして説明すると」となっています。

26節の、新世界訳での「上なるエルサレム」(田川訳も)は、改訂版では「上にあるエルサレム」。ということは、これも改訂版のほうの言い方に変わるんでしょうね・・・めんどくさ・・・

この部分は、パウロが、旧約時代の出来事をアレゴリー化して解釈しようとしてる(ハガル=旧約 サラ=新約)、ということ。
でも、サラに適用しようとしたイザヤの聖句(54:1)は、良く考えるとサラには全く当てはまっていません。パウロの旧約引用の仕方は、滅茶苦茶なことも多いです。(なんとなくそれらしいけどw)

27節の、新世界訳「うまずめ」田川訳「石女(うまずめ)」を、改訂版では「不妊の女」と訳してます。
差別用語を気にしたのかもしれないけど(あるいはもう死語だからかな?)、聖書にそういう用語が書いてあるんだから、どんな書物かを知らせる意味でも、そのまま訳すべきだと思う。

29節に、イシュマエルがイサクをからかった(弾圧した)、とあるけど、これはサラを正当化するためにラビたちの考えが入り込んだのでは、とも言われている。イシュマエルとイサクは一緒に遊んでいただけで、それを見たサラが二人の異邦人を追い出した、というだけの話なのだと。
それを、パウロはラビたちの伝承に詳しかったから、こんな風に解釈したんだろうな。

この組織は、いわゆる油そそがれた人たちとほかの羊を差別(区別では決してない)して、ほかの羊を蚊帳の外に置くことが多いので、ほかの羊である自分には、聖書の言葉が遠く感じることが多かったです。この部分もそう。
でも、パウロはそんな差別をしたりしてないんです。組織は、当時のクリスチャンは皆油注がれてたからだ、とか言うでしょうけどね。聖書が神からの手紙であるのなら、そんなん、納得できませんよ。
結局それって、一般民衆から聖書を取り上げた中世の宗教指導者と同じ精神ですよね。彼らを通してでなければ、神に近づけないと。そして、聖書を自分で読んで理解し、組織に疑問を呈する者を、異端者扱いして排除する。完全忌避なんて精神的拷問に等しいですよ・・・で、霊的に死んだ者とされる・・・
組織に都合の良い改訂版聖書を与えて、それ以外は聖書じゃないと排除するのもそう。
なんだかなぁ・・・

気を取り直して。

6:4
以前も書いたけど、田川訳は分かり易いです。「それぞれが自分の業を自分で検証すべきである。その時には、誇れるのは自分に対してだけであって、他に対して誇ることはできないだろう」。

簡単に言えば、偉そうに自慢するんじゃないよ、大したことやってないんだから、ってことかなw。新世界訳だと(改訂版も同じ)、他と比べてじゃなく自分ができたことを喜べよ、って感じだけど。
訳でこんなに違っちゃうんだね。

6:12,14
新世界訳(改訂版も同じ)「苦しみの杭」、田川訳は「十字架」。

ギリシャ語のスタウロスは、棒、杭、を表わす語だけど、後に、ローマの磔に用いられた木のことをスタウロスと言うようになった、とのことです。両手を打ち付けたので、十字かT字だったと考えるのが普通。
この組織が拘るように、この語は棒を意味するから、磔も棒だったなんてことはまずないでしょうね・・・なので、十字架で良いと、自分は思います。

6:16
「神のイスラエル」。新約で出て来るのはここだけ。パウロがユダヤ人以外をイスラエルと呼ぶことはありえない、と田川氏は書いている。

ガラテア (1)

2019-05-27 | 聖書
パウロが最初に書いた書簡。初期のパウロの宗教思想がわかる。「信からの義」(信仰義認)の主張がはっきり出て来る。

この書簡でパウロは、ガラテアは内陸の高原地方で、住んでいる人々も文化的に遅れている野蛮人、とみなされていたからか、他の書簡に比べてかなり相手を見下した言い方をしている、とのこと。

コリント書簡はケンカ腰で、ガラテア書簡は軽蔑的。(パウロ~~)

新世界訳(他の訳もそうかな?)だと、そういうニュアンスが全く伝わらないから、そんな風に思ったこともなかったよ。

例えば。

1:6「私はあきれている」。元は「驚く」から来ているが、あきれたものだ、という感じの語。
1:11「あなた方に知らしめる」。「知らせる」の意だが、三人称で用いられるものを一人称で用いているので、ずいぶん横柄な言い方になっている。
3:1「ああ、間抜けなガラティア人よ」。ものを知らない、理解力が無い、という趣旨のバカにした失礼な表現。
5:2「見よ、私パウロがみずからあなた方に言う」。いばりくさってるw。

結局のところ、パウロはユダヤ人優越主義だったし、他民族を見下したりもしていたわけで。パウロ自身は、そういった偏見を取り除こうと努力していたのかもしれないけど、根深い偏見は言葉にも態度にも表れていたんだろうな、と推測されます。

今週のワークブックで3:1が取り上げられていて、「パウロがガラテアの人々を『無分別』だと言ったのはなぜか」と質問されてますが・・・

この書簡を書いた目的が、他のユダヤ教系宣教師によって、救われるために割礼を受けなければならないのかと疑問を持ったガラテア信者に、救いは「キリストの信」のおかげであって、割礼(律法)という「行為」によってではないと、伝えるためだったから、洞察にあるように「(悪)影響を受けるままにしていた」という答えでもいいんだけど・・・

それより、パウロはガラテアの信者を馬鹿にしていたから、っていうのが本当の答えかもw。

ペテロ②3:9

2019-05-24 | 聖書
ペテロ②3:9

新世界訳「エホバはご自分の約束に関し、ある人々が遅さについて考えるような意味で遅いのではありません。むしろ、ひとりも滅ぼされることなく、すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので、あなた方に対して辛抱しておられるのです」

同改訂版「エホバは約束を果たすのが遅いと考える人もいますが、そうではありません。神は、一人も滅ぼされることなく、全ての人が悔い改めることを望んでいるので、皆さんのことを辛抱しているのです」

終わりが遅れてる理由として、以前はよくこの聖句が引用されていたけど、最近あんまり出て来ないような気がする。(違ってたらすみません)

もし、エホバの証人以外が全て滅ぼされるとしたら、現状として、一日遅れるごとに滅びる人がどんどん増しているわけで。

いくら組織が、人口増加の多い発展途上国でエホバの証人が増えていると宣伝したところで、ちょっと考えれば、この聖句を当てはめることがいかに現状と矛盾しているかは、簡単にわかることで。

だからこの聖句、あんまり使われなくなったのかな。

ウィキによると、1914年頃の世界人口は20億に満たなかった。でも今は70億超え。一方、エホバの証人は記念式に参加した人で考えても、今で2000万ほどしかいない。

1914年に終わりが来てれば、滅びる人は20億に満たなかったのに、今だと69億8000万が滅びることになっちゃう。

神の辛抱によって、滅びる人が日ごとにどんどん増してるとなると・・・・・神の辛抱っていったい何なんだろうね、ってなるよね。

この矛盾を解消するためには、エホバの証人以外の人口を減少させるしかない、ってことになる。(なんか怖いこと想像しちゃう~~)

いずれは人口減少に転じるだろうとも言われているけど、それを待つとしたら、終わりはまだまだ先ってことで。

さて、この聖句の田川訳です。

「一部の人々は遅れだと思っているが、主は約束を遅らせるような方ではない。あなた方に対して寛大であろうとしておられるのである。(主は)一部の人が滅びることではなく、すべての者が悔改めへと向かうことを望んでおられるのだ」

ちなみに、ペテロ書簡はペテロが書いたものではない、と考えられている。(詳しくはウィキで)

この訳だと、会衆内での事柄を扱ったものだということがよくわかる。会衆内で真理が冒瀆されるようなことが起きていたから、会衆内のすべての人が悔改めに向かうよう、神は寛大であろうとしておられる、ということで。

この組織の聖句の読み方、当てはめ方がおかしいよ、という例でした。

コリント② (4)

2019-05-08 | 聖書
6:11~13「コリントス人よ、我々の口はあなた方に向かって開かれている。我々の心は広く開かれているのだ。あなた方は我々のところで狭くなっているのではない。あなた方自身の心の中で狭くなっているのである。同じ対応を---子どもに対するように申し上げるが、あなた方も開かれなさい」

パウロが回りくどい嫌味な言い方をする人だとよくわかる部分。
我々はあなた方に対して心を広げているのに、我々を批判するあなた方は心が狭い(我々が勝手にそう思っているのではなく実際にそうだ)、ものわかりの悪い子ども(親に対する子どもというより大人に対する子ども)に言うように言って聞かせるが、あなた方も、我々があなた方に取ってるのと同じ態度を我々に対して取りなさい、と。

こんな風に、「我々」と「あなた方」を分けて敵対関係にあるみたいにケンカ腰で上から語られたら、コリントの信者はますますパウロを受け入れられなくなっただろうなぁと推察される。

6:14~7:1
この部分は、パウロの文章ではないものが紛れ込んだのだろうと考えられている。ユダヤ教文書の言葉遣いや発想が多い(が、まったくパウロ的ではないとも言い切れない)。6:13は7:2につながる。

6:16~18
旧約の様々な箇所(5ヶ所?)からの引用での表現。ユダヤ教学者の間で見られる技術。(パウロも用いたがせいぜい2~3ヶ所の組み合わせ引用)

え~と、つまり、2:14~7:4に別の書が入り込んでいて、その中の6:14~7:1が別の文章の紛れ込み、ということになる。コリント②はなんだか分かり辛いなぁと思っていたけど、こういうことだったんだね~
それが分かって読むと、ずいぶん分かり易くなった~

(聖句は田川訳、田川建三氏「新約聖書 訳と註」パウロ書簡①を参照させていただきました)

コリント② (3)

2019-05-07 | 聖書
5:4,8
信者の復活に関して、コリント①15章で書いたことでは説得できなかったのか、またあれこれと例えを用いて説明しようとしている。結局、この身体を脱ぎたいんだか脱ぎたくないんだか、訳分からなくなってる。簡潔に書けないってことは、パウロも良くわかってなかったんだろうな・・・。

5:7「我々は直接見える仕方ではなく、信によって歩んでいる」

パウロは永遠の世界で主と共にあることを願っていた。でもまだ直接それを見ることはできないから、その時が来ることを信じて歩んでるんだ、という意味。
改訂版では「見えるものによってではなく・・・」とあって、これだと目に見える現実世界のものによってではなく・・・みたいな感じになって、パウロがここで考えている趣旨とずれる。

5:10「我々は皆キリストの裁きの座の前で顕わにされ、それぞれが身体によってなしたことを、良いことであれ悪いことであれ、なしたことに応じて償わねばならないからである」

パウロは基本、信仰義認(人間が義とされるのは、律法の実践によるのはなく、神の側が罪人である人間を救おうと決めてくださったからだと信じること)の人。なのに、信者を脅す時にはその信仰と矛盾したことを言うんだよね。なんだかな。
どんな罪人であってもイエス・キリストを信じるなら救われる(魅力的な宗教に思えただろう)、と宣教して信者を集め、信者になった人には自分の基準を押し付けて、そうしないと裁かれるよと脅す。これって、まんまこの組織だよねw。
でも実生活をおくる上での指針は必要だから、ある程度はこういう矛盾も仕方ないのかなぁ・・・。
ちなみに、ここで言う「悪いこと」の原語の意味は、悪というより、軽率な、不注意な、といった感じ。

5:12,13
パウロは、コリントに自分に敵対する者(イエス幻視に関してパウロを正気じゃないと言う者)がいて、信者をたぶらかしていると思っていたのかもしれない。

5:16「我々は、今から後は、誰をも肉によって知ることはしない。もしも(以前は)キリストを肉によって知ったとしても、今はもはやそのように知ることはしない」

パウロが、かつて生きていたイエスを知ることを拒絶しているとして有名な箇所。パウロはここで、福音書に書かれるようなイエスの話(伝承)などどうでもいい、自分は自分に現われた復活のイエスだけを知るんだ、と宣言した。まぁ、売り言葉(本当にイエスを知ってるのか証拠を出せ)に買い言葉的な宣言だったのだろうけど。
マルコがパウロと別れ、福音書を書いた理由は、このあたりにあったのかもしれない。

改訂版は「肉によって」を「人間的な観点で」って訳してる(訳じゃなくて勝手な解釈だよね)けど、これじゃ文脈上意味がわからないよ。この聖句だけ抜き出して都合よく適用しようという魂胆かな。

5:20「我々はキリストに代わって願う、あなた方は神と和解しなさい」

パウロは、和解はすでに生じた事柄で、信者はすでに神と和解したのだ、と言ったそばから続く節でこういう矛盾したことを言う。パウロが考えているのは、神の和解の言葉を伝える私の使徒職を疑ってるうちは神と和解したことにはならない、私の権威を認めることによって神と和解しなさい、ということだろう。
改訂版は「あなた方は」という語を省いて、一般人への言葉と受け取れるよう訳されてる。矛盾を解消しようとしたのかもしれないけど、これじゃ、パウロとコリントの確執が伝わらない。


(聖句は田川訳、田川建三氏の「新約聖書 訳と註」パウロ書簡①を参照させていただきました)

(新世界訳は、改訂版だけと比べていきます。この訳、変なところいっぱいありすぎw。4:5なんて「皆さんに一生懸命仕えている」ですよ。ふきそうになりましたw。子ども相手としか思えない訳です~)

コリント② (2)

2019-05-06 | 聖書
4:4「此の世の神が不信者の思いを盲目にして、神の姿であるキリストの栄光の福音の輝きを見えないようにした、ということなのだ」

パウロがここで「此の世の」と言っているのは興味深い。(他では、例えばヨハネ14:30とかエフェソス2:2とかヨハネ①5:19とかでは、神ではなくて支配者)
パウロにとって神と呼べる存在は唯一であるはずなのに、その神以外に此の世の神が存在すると考えてるってことで・・・組織はそれがサタンだとしてるけど、はたしてパウロがそのつもりで言ったのかどうか。

4:4~6あたり、パウロはダマスカス途上でのイエス幻視体験を念頭に置いているものと思われる。

4:7「我々は陶器の器にこの宝を持っている。力のあふれは神のものであって、我々から出て来ているわけではない(ということがわかる)ためである」

器だから「あふれ」という語が使われてる。これで意味が通じるのだから、解釈を混ぜた意訳(新世界訳は「普通を超えた力」)をする必要はない。

4:15「より多くの人々によって恵みが増えていき、その恵みが、感謝を増やして神の栄光へといたるためなのである」

より多くの人が信者になればその分「恵み」が増えるから、その「恵み」が働いて感謝を増やしてくださってる、ということ。
「(神の)栄光へといたる」というのもパウロの好む表現で、終末の救済時に神が人間をその栄光が輝くところへいたらせてくださる、ということ。

改訂版だと、我々の感謝の祈りが神の惜しみない親切を豊かに引き出す、みたいな感じになっちゃってる。神中心のパウロの考え方とも合致しないし、なんだかちっちゃい神(人間に左右される)になっちゃってる。意訳どころかひどい改竄。

4:16,17「だから我々はさぼることをしない。外なる人は朽ちても、我々の内なる人は日々新たにされている。すなわち、現在の軽い患難が働いて、栄光という永遠の重みを満ちあふれるばかりに圧倒的に我々に得させてくれるのである」

「さぼる」は「怠慢でいる」ということ(1節にも出てくるので、この章で意識されてること)。改訂版の「諦めない」という意味はない。(今週の集会の話の主題が「わたしたちはあきらめません」だけど・・・主題からして間違ってるよ~~~)
「朽ちる」はコリント①15:53,54で「朽ちる」という意味で出て来た形容詞の、接頭語(強調)の付いた動詞形。死ねば朽ちるということで、外面が歳と共に衰えるという話ではない。(ずーっとそう思ってたよ。これも間違ってるよ~~~)
「現在の」は「しばらくの」が直訳だが、永遠の来世に比べれば今生きてる現世はほんの一時のようなものだ、という意味。(現在、しばらく⇔来世、永遠)


(田川建三氏の「新約聖書 訳と註」パウロ書簡①を参照させていただきました。聖句も田川訳からです)

コリント② (1)

2019-04-30 | 聖書
パウロは、コリント①を書いた後、②を書く前に、短くコリントを訪れたと考えられる。(その訪問のことは使徒行伝には書かれていない)

なぜなら、2:1に「再び苦痛をもって行くことはすまい」とあるが、最初の訪問は「苦痛」を伴うものではなかったから。また12:14,13:1にも「三度目に行く」とある。
この「苦痛」は「悲しみ」という語とは違って具体的な打撃を表わす言葉。この書き方では、苦痛を与えに行くのか与えられに行くのか分からないが、その訪問ではどちらかあるいは両方だったのだろう。
2:2に「私があなた方に苦痛を与える」とあるので、苦痛=罰とも考えられる。つまり何らかの違反を犯した信者にパウロが罰を与えることで、どちらも打撃を受ける(受けた)ということかもしれない。

2:4に「多くの涙をもって(手紙を)書いた」とある。これは、①のことか、あるいは①と②の間に書かれた中間書簡(「涙の書簡」と言われている)があるのかもしれない。

1章でパウロは、旅行行程を変更したことの言い訳をぐだぐだしている。
①の16章で計画していた行程(エフェソス→マケドニア→コリント冬→エルサレム)を変更(エフェソス→コリント→マケドニア→コリント冬→エルサレム)したのは、コリントとの関係が上手く行ってなかったことと、コリントでエルサレムへの献金問題が大きくなっていて(なぜそんな献金が課せられるのか、なぜパウロ御一行様の旅支度まで負わせられるのか)募金が集まっていなかったから、まず発破をかけようと思ってのことだろう。
そうした下心を誤魔化すために、手紙を書き出すにあたって最初に患難の話を持ち出し、自分がどれほど患難を受けたかを書く。そして、この変更は肉に従って計画したわけじゃない、自分の都合なんかじゃないとイエス・キリストまで持ち出して言い訳するという・・・まぁパウロにとっては真剣な状況だったのかもしれないけど。
結局は、エフェソスで大騒動(8節の患難。使徒19:23~)が起きてしまって、コリントに行けずにマケドニア回りで行くことになった(1:23、2:12,13)。

新世界訳の1:3には「慰めの神」とあるけど、この「慰め」の原語は「呼びかけ」の意。
慰めたり、励ましたり、訓戒を与えたり等の趣旨で呼びかけるので、文脈に合わせていろいろな語に訳されている。この場合は「慰め」が分かり易いのだろうけど、パウロが好んで用いている語なので、「呼びかけ」と統一して訳す方が分かり易いと思う。(田川訳はすべて「呼びかけ」になってる)

2:14~7:4は別の書(中間書簡?)が入り込んだという説がある。実際、話がいきなり飛んでいて、マケドニアの話2:13は7:5に続いている。

2:14にある「凱旋行進」も、もし挿入であるのなら、その前に書かれていたことが分からないので、パウロがこの言葉で何をどう例えていたのか分からない、というのが正しい理解になる。
「凱旋行進」が神の勝利の行進であるのなら、我々が捕虜として引き連れられてるのはなぜなのかも、この文章だけでは分からない。
さらに、知識を「匂い」に例えているのは、その前からの続きかもしれないし、ここからかもしれない。これも不明。


(田川建三氏の「新約聖書 訳と註」パウロ書簡①を参照させていただきました)

パウロって

2019-04-28 | 聖書
コリント①16:21,22(田川訳)
「パウロが自分の手で挨拶を記す。主を愛さない者がいるなら、呪われよ。マラナタ」

口述筆記が終わり、自分の手で挨拶を書くにあたって、まずは呪いの言葉で始めるパウロって、どうなん?

自分を批判してきた(あるいは、単に質問してきたのを自分への批判と受け取った?)コリントの信者に対して、かなり苛立っていたんだろうな、って推察される。

自分が救ってやったのに、自分の持つ神の権威を認めないとは何事かと。そんな奴は呪われろと。(そこまで酷くはないかもしれないけどw)

まずはそう一言、言わないでいられなかったってことで、パウロも人間だということです。聖人なんかじゃなくて。

人間パウロが書いた手紙なんだと思って読むと、今まで組織から学んでいたのとは違った景色が見えてきて、楽しいです。

ちなみに「マラナタ」というのは、アラム語で「我らの主よ来たり給え」といった意味で、信者が唱えていた言葉らしいです。

結局、お決まりの文句を唱える、ということが組織宗教には欠かせないことなんだね。

この組織には、そういう決まった文句はないけど、兄弟姉妹と呼び合うこととか、手紙の書き出しが「親愛なる~」で、終わりが「クリスチャン愛と共に」とか、いわゆるエホバの証人用語とか、それらしいことはいくつか見受けられる。

組織に属するって、そういう組織の色に染まるってことで。

・・・そう考えると、染まりたくないなぁ、と思う。何にも染まらないで、純粋に神を崇拝できれば一番いいんじゃないかなぁと。・・・具体的にどうすればいいのか分からないけどw。

終わりはいつ来るのか

2019-04-26 | 聖書
パウロは、自分が生きている間に終わりが来る、と思っていた。それは、テサロニケ①4:15~17やコリント①15:51~53などから分かる。

ちなみに、パウロ書簡は書かれた順に、テサロニケ①、ガラテア、コリント①②、ローマ、フィリピ、フィレモン。

ついでに、疑似パウロ書簡(パウロの死後、パウロ派の者たちがパウロの名前を利用して書いた)が、エフェソス(コロサイを利用して書かれた)、コロサイ、テサロニケ②、テモテ①②、テトス。(テモテとテトスの3つの書簡は牧会書簡と呼ばれる)
それ以外の書簡は公同書簡と呼ばれる、ヤコブ、ペテロ①②、ユダ、ヨハネ①②③。
ヘブライと黙示録は書簡ではない。

つまり、1世紀当時からずーっと、終わりは近い終わりは近い、と言われ続けていたわけで・・・

エホバの証人の解釈だと、1914年が終わりの時の始まりになるんだけど・・・1914年かどうかは別としても、確かに前世紀あたりから世界の様子がそれまでとは一変してきていると思えるので、人間が地を破滅させてしまう前に神が介入されるという意味で、終わりが近いのではないか、とも思えたりした。

実際、世も末だね、なんて言葉を普通の会話の中で時々耳にしたりもする。本気で言ってるのではないにしても、やはり誰でもが心のどこかで良い変化を望んでいるのだろうと思う。

悪や苦痛が終わる、というのはとても魅力的なことだし、そのことが神の言葉といわれる聖書に書かれているのだと、創造者である神が存在するという論拠と共に提示されると、ホントなのかなって。・・・で、夢物語を信じたくなってしまったという。

でも聖書は矛盾だらけの書物だということが分かって来て、どこまでが神の言葉なのか、そもそも本当に神の言葉なのか、最近では疑問になって来てる。

パウロは本当に終末論を信じていた。自分にキリストが現れてくださったと信じていた。自分が「朽ちぬ者に変えられ不死を着る」と信じていた。そしてそれは、神の側からのキリストによる恵みなのだと(人間の側の善行とかではなく)。

どうなんだろうなぁ・・・終わりは来るのかなぁ。



(田川訳より)
テサロニケ①4:15~17「事実、我々があなた方にこのことを言うのは、主の言葉においてである。すなわち主の来臨の時まで生きて残っている我々が、すでに眠った人たちより先になることはない。すなわち、主御自身が大天使の声と神のラッパの合図とともに天から下って来る。そしてキリストにある死者たちがまず復活する。それから、我々生きて残っている者たちが彼らとともに雲の中へと連れ去られ、空中で主と出会うことになる。こうして我々は常に主とともに居ることになるのである」

コリント①15:51~53「見よ、秘儀をあなた方に申し上げよう。我々みんなが死ぬわけではない。しかしみんなが変えられるであろう。瞬時に、またたく間に、最後のラッパが鳴る時に。すなわちラッパが響くと、死者たちが朽ちぬ者として甦らされ、我々の方は朽ちぬ者に変えられる。というのは、この朽ちるものが朽ちぬものを着ることになるからである。この死すべきものが不死を着るのである」