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聖なる書物を読んで

現役JW29年目

コリント人への第一の手紙14章

2019-04-17 | 聖書
14章。

12節。新世界訳改訂版「皆さんも,聖なる力による贈り物を熱心に求めているのですから,会衆を力づける贈り物を豊かに頂けるように努めてください」。
田川訳「あなた方もまた霊に関して熱心であるのなら、教会を建てることを目的として(霊の賜物を)求めるべきである。そうすればあなた方はより豊かになろう」。

原文には「頂く」という語は無い。

改訂版の聖書用語集なるものを見ると、「聖なる力」とは今までの「聖霊」のこと。で、「聖霊」「霊」という項目は無いから、それは使われなくなったのかな・・・。おかげで、「霊の賜物」で済んでいた部分が、この節では「聖なる力による贈り物」、続く14~16節では「聖なる力による能力」となった。
なんと、「霊的な人」は「聖なる力に導かれる人」(2:15,3:1)。「導かれる」なんて語、どこから出てくるん? どうなってるん?? いいのかこれで??? パウロの意図が全く伝わらないよ、これじゃ。
ちなみに、マタイの28:20も「父と子と聖なる力の名によってバプテスマを・・・」と。もう、キリスト教とは一線を画したいのかな、この組織は。

22~25節。新世界訳改訂版「さまざまな言語を話すことは,クリスチャンのためではなく,クリスチャンではない人のためのしるしです。一方,預言は,クリスチャンではない人のためではなく,クリスチャンのためのものです。 会衆全体が1つの場所に集まって皆がさまざまな言語を話している時に,普通の人やクリスチャンではない人が入ってきたなら,その人は皆さんのことを正気ではないと言うのではないでしょうか。しかし,皆さんが預言している時にクリスチャンではない人や普通の人が入ってきたなら,その人は皆から戒められて詳しく調べられたと感じます。そして心の中の秘密が明らかになり,その人はひれ伏して神を崇拝し,「神は確かに皆さんの中にいます」と言います」。

パウロは「クリスチャン」という語は使わない。これじゃ、パウロが「クリスチャン」という語を使ってたように誤解する。ここでも「信者」「非信者」という語を使ってるんだから、そう訳すべき。

「異言」は「さまざまな言語」になったんだね。「異言を話す」の原語は「舌で話す」。直訳して脚注で解説しとけばいいのに。

22節で、非信者のためのしるし、といっているのに、23節では、正気ではないと言う、と。ここでもパウロは、論理が矛盾してることに気付いていないらしい・・・。

32節。新世界訳改訂版「預言者は,聖なる力による贈り物を秩序正しく用いるべきです」。
田川訳「預言者の霊は預言者に服従するものである」。

「秩序正しく用いるべき」って、どこから出て来た? 意訳というより改竄だよ、これ。ここの意味は、元は同じ神の霊なんだから、順番を守る上でそれぞれの霊がそれぞれの預言者に服し合うものだ、みたいなことだよね。(きっと統治体は、聖なる力による贈り物を秩序正しく用いることができてないんだろうなぁ。だからこんな改竄しちゃうんだろうなぁw)

34,35節。パウロの女性差別発言。会衆内での預言の順番について述べた後に「女は黙っていろ」と。どんだけ女嫌いなのよっ。困ったパウロさんです。

エホバの証人がこのパウロの女性差別を擁護するのは、きっと他のキリスト教会が現代の事情に合わせて、このパウロ発言を排除しようとしているからなんだろうなぁ。
でも新世界訳改訂版では、かなりやわらげて「女性は会衆の中では黙っていてください」となってる。逆に権威がなくなっちゃった感じのパウロさんです。(お願いしちゃってるw。いつも上から目線の偉そうなパウロさんがこんな言い方するわけないのに)

頭の権に関するパウロの見解、それが神の見方として正しいのかどうかというと、正しくないだろうと思います。でも、組織はパウロのように女性蔑視ではないし、確かに男性中心組織ではあるけど、それなりにちゃんと秩序は保ってると思われるので、これはこれでアリ(神の見方に適ってる?)なのかな、と思ったりもします。(日本は特に男性が少ないから、上手い具合にバランスが取れてるだけかもしれないけど・・)

37節。「(私が書いたことは)主のおきて」とある。この「おきて」という語は旧約律法を指す語。7章ではまだ主の指示と自分の意見を分けようとしていたのに、ここでは、このパウロ様の言うことが主のおきてなのだと居直った。(女嫌いが爆発しちゃって自制がきかなかったのかなw)


以上、田川建三氏「新約聖書 訳と註」パウロ書簡①を参照させていただきました~

コリント人への第一の手紙12,13章

2019-04-11 | 聖書
12章からは霊の賜物の話で、13章に愛の定義を挟んで、14章へと続く。

13章は、パウロの言葉使い(単語や構文)や考え方とは異なった表現が多い上に、霊の賜物に関して論じている間に強引に割って入っているように見えるので、後世の挿入なのでは、とか、パウロの別の時の文章が紛れ込んだのでは、とか言われているらしい。(ただパウロは、突如として話があっちに飛んだり戻ったりと一貫しない書き方をする人でもある)

12章。

23~25節。新世界訳「また、体の中でほかより誉れが少ないと思える部分、これをわたしたちはより豊かな誉れをもって包みます。こうしてわたしたちの見栄えのしない部分に他より豊かな麗しさが添えられ、一方、麗しい部分は何も必要としません。しかしそうではあっても、神が体を組み立てたのであり、欠けたところのある部分に誉れをより豊かに与えて、体に分裂がないように、その肢体が互いに対して同じ気づかいを示すようにされました」。
田川訳「また身体の中の無価値と思えるところに、我々はむしろますます価値を付与する。そして我々の中の格好悪い部分が実はより良い姿を持っている。格好の良い部分はわざわざそうする必要はない。神はより劣っている部分に価値を与えて、身体を一体化させたのである。それは身体の中で分裂が生じたりせず、肢体がそれぞれお互いのために同じように配慮するためである」。

「無価値、価値」がこの語の基本の意味。抽象的な意味で「誉れ」とも訳されるが、それで通じるのだからそのまま訳すのが良いと思う。

「格好悪い部分が実はより良い姿を持っている」が直訳。パウロは、一見「格好悪い」と思えるものこそ本当はみずから「良い姿」を持っている、と言っている。格好悪い人たちがそのままじゃかわいそうだから誉めてあげましょう、ってことではない。

「一体化させる」の原語の動詞は「まぜる、こねる」の意。「ともに」という接頭語が付いて強調されている。直訳は「まぜあわせる」。それぞれ別の要素を「組み立てる」のではなく、全体が分離せず一つに融合するように「まぜあわせる」動作。

パウロの、信者に対するこういう見方はとってもいいなぁと思う。
どの賜物も神から価値が与えられてるのだから優劣なんて無く大切なんだ、それぞれの賜物を出し合って協力し合いなさい、というね。
ところが、最後の31節で「より大きな賜物を熱心に求めてゆきなさい」って言っちゃうんだよね。
この一言で、それまでの良い話がけしとんじゃった。結局優劣つけるんかい、って。パウロは良いこと言ったつもりなんだろうけど。

13章。

4~8節。愛の定義。訳によっていろいろ違うなぁ、と。特に気になっていた一か所だけ。

7節。新世界訳「すべての事を忍耐します」。

すぐ前に「すべての事に耐え」とあるのにまた忍耐が出てくる、愛はなんと耐えることが好きなんだろう(ドMか)、と思ってたけど、ここは「人様を先にたてる、お先にどうぞどうぞ、という態度」。田川訳では「すべてゆずる」。(まぁ・・ドMであることに変わりはないか)


今回も田川建三氏「新約聖書 訳と註」パウロ書簡①を参照させていただきました~

コリント人への第一の手紙10,11章

2019-04-10 | 聖書
10章。

4節。新世界訳「自分たちに付いて来た霊的な岩塊から飲んだ」。

水を出す岩が荒野を放浪する民に付いて来てくれた、というのはラビの律法解釈の中に見られる。

1~4節。パウロは出エジプトの奇跡の物語をアレゴリー化している。当時すでにキリスト教において重要な式典となっていた洗礼と聖餐にあわせて、霊的なものとして。(旧約の出来事を予型とし、新約の出来事を対型とする考え方。それをさらに現代に当てはめようとして失敗しちゃったのがこの組織。さらなる対型なんてあるわけないよねぇ・・・聖書は完成してるし、1世紀のクリスチャンに倣ってるんだからw)
パウロは、自分たちキリスト教徒を、イスラエルと同様に神に選ばれた民であるとして、ユダヤ教徒であった時と同様の選民意識を抱いていた(組織はこれに倣ってる)。イエスはそういう二分論的考えを退けたのに・・・

8節。「二万三千人」。

民数記には数字がいっぱい出て来るんだから、パウロの記憶違いっていうのが一番可能性が高い。(次の章の26:62にはレビの男子の数が二万三千人とある)
聖パウロ様に、聖書に間違いがあるはずない、っていう立場で考えるから、これは概算だの、頭たちの数が入ってないだのと、無理な屁理屈こねなきゃならなくなるw。

11節。新世界訳「わたしたちに対する警告のためです」。

「警告」と訳されている原語の意味は、理性(知性)に置くこと、つまり理性的に正しく考えること。テサロニケ①5:12,14で「訓戒する」と訳されてる語の名詞形。「警告」と訳すのはキツ過ぎる。「諭すため」とか「考えを正すため」といった感じ。
「事物の体制の終わり」だからって「警告」にすることないのにね。脅したいんだねぇ・・・。

13節。新世界訳「人に共通でない誘惑があなた方に臨んだことはありません。しかし、神は忠実であられ、あなた方が耐えられる以上に誘惑されるままにはせず、むしろ、あなた方がそれを忍耐できるよう、誘惑に伴って逃れ道を設けてくださるのです」。
田川訳「あなた方をおそった試練で人間的でないものはない。神は信実であって、あなた方が耐えられないような試練をあなた方に容認することはない。試練とともに、それを耐えることができるような出口を用意して下さるであろう」。

「人間的でない」が直訳。パウロが「人間的」という語で何を考えていたかは分からないが、「神的」との対照だろう。つまり、神による逃れられない刑罰とは対照的に、人間の世に普通に起こり得ること。
新世界訳のまどろっこしい分かり難い文章に対して、田川訳(ほぼ直訳)の分かり易いこと(文章も短いし読み易い)。
ほとんどの訳が「試練」「試み」なのに、新世界訳では「誘惑」。サタンを連想させるように訳されてるなぁと思うのは自分だけかしらん?

14~33節。パウロは、偶像礼拝を避けよと(8章の犠牲として捧げられた肉の問題の続き)。そして、神殿の場所そのもので、犠牲に捧げられた肉をこれ見よがしに食べる(8:10)のは止めた方がいいと。それは、悪霊と交わることになるからだと(ユダヤ教的なパウロの視点からすると)。
すべてが許されているが、すべてが益になるわけじゃない(6:12と同じ言い方)。だから、市場で売っている肉を食べてもいいが、、自分ではなく他の人の良心と益を考え、すべてを神の栄光のためにせよと。

パウロは、地とそれに満ちるものは神のもの、とか、自分が感謝して食べるものに関して人からつべこべ言われる筋合いはない、とか、口先ではカッコいいこと(真理)を言いつつ、結局本音は、偶像に犠牲として捧げられた肉なんぞ食うな、って言いたいんだよね。それを回りくどく、他の人のためだとかなんだとか言ってごまかしてるだけ。(どこぞの組織と同じくダブルスタンダード)

11章。

1節。新世界訳「わたしがキリストに見倣う者であるように、わたしに見倣う者となりなさい」。

謙遜だったら「わたしに見倣う者となりなさい」とは続けないよね。「あなた方もキリストに見倣う者となりなさい」になるよね。パウロに見倣った結果、上層部の方々は不遜にも「わたしに見倣いなさい」って雰囲気になっちゃったんだねぇ・・・ある意味、聖書的だよなぁ・・・

2節。新世界訳「わたしのことを思いに留め」。

パウロの事を気にかけてくれている、という意味ではない。パウロの言ったことを一々すべて覚えている、という皮肉。「あなた方をほめます」も皮肉。

3~15節。一々わたしが伝えた伝統を細かく覚えていて、それをもとにわたしを批判するのなら、次のことも覚えておけよ、という感じでパウロは、頭の権と女が頭を覆うべきだということをくどくど言う。(出た、パウロの男尊女卑)

女性差別を神の名において行なうパウロ。これが本当に神のお考えなのか、パウロの偏見から出た言葉なのか。少なくとも、イエスはこんな男女差別はしなかった。
たとえ3節の頭の権を認めたとしても、4,5節の頭覆いの件を論理的に導き出すのは無理。パウロは、ユダヤ人女性が頭覆いを着けていたという風習をキリスト教にも持ち込んで、なんとしてでもそれを押し付けたかったんだろうな。
10節に「女はみ使いたちのために頭に権威のしるしを着けるべき」とあって、これはノアの洪水前のことを指して、女は特定の男に従属するという権威のしるしを頭に着けていないと、悪い天使に誘惑されるよ、という脅し。
11節の「主にあっては、女も男なしにあるのではなく、男も女なしにあるのではありません」は、現実の社会生活では男女は差別されるべきだが、信仰においては同じだ、ということ(7章の奴隷と同じ理屈。ガラテア3:26~28)。
15節では論理が破たんしている。「女の髪は頭飾り(覆いのことをごまかして訳してる)の代わりに与えられている」のなら、髪を長くしてれば覆いはいらないってことになるよね。なのに6節では「髪を切ったり剃ったりするのが恥ずべきことであるのなら覆いを着けろ」と。・・・矛盾に気がついてないのかな、パウロ。

こんな滅茶苦茶なパウロの意見をもとにして、どんな時に女性の奉仕者は覆いを着けるのか、こんな場合はどうなんだ、ってくそ真面目に規則を作ろうとしている、この組織。滑稽だよなぁ・・・

20~34節。主の晩餐に関して。
当時は儀式ではなく、本当に一緒に食事をしていた。だから、それぞれが自分が持って来たものを食べてしまっていたり、持参していなかったり、帰ってから食事しようと思ってて空腹だったりして、それじゃ共通の食事にならないから主の晩餐にあずかることにならないじゃないか、と。これはイエスの記念なのだから、ふさわしい仕方で行なえと。

30節でパウロは、ふさわしくない仕方で主の晩餐にあずかっているから、あなた方の中に病気や死んだ人が多くいるのだ、と言っている。つまり、間違った仕方で主の晩さんにあずかると病気や死を招くことになる、とパウロは考えていたわけで、コリント信者をそのように脅してる。
31節では、自分自身をわきまえていれば裁かれない、つまり、ちゃんとわきまえていれば病気になったり死んだりしなかっただろうに、と。
32節では、つまり、現在このように裁かれているのは主による懲らしめであって、(最終的に)世と共に罪に定められないためだ、と。
残念ながら、新世界訳ではここまで読み取れない。でも実際に書かれてる内容はこういう事なんだよね。なんだかなぁ・・・まぁこれじゃあまりに呪術的過ぎるから、それが分からないように上手く訳し、こうしたことにはふれずに聖パウロ様らしい解釈をするという・・・(う~ん・・・聖書って何なん?)

この後、主の晩さんの儀式化が進んで行ったんだろうな。この組織の記念式もその一つ。


またまた田川建三氏「新約聖書 訳と註」パウロ書簡①を参照させていただきました。

コリント人への第一の手紙8,9章

2019-04-04 | 聖書
8章。(聖句は新世界訳より)

偶像にささげられた肉についての、コリント信者からの質問に答えるパウロ。

たぶん前書簡で、そういう肉は食べるな、と主張していたのだろう。でもコリント信者から、偶像は無きに等しいものなのだから、そういう肉を食べたところで汚れるわけじゃないだろう、なぜ食べたらだめなのか? と質問してきたと思われる。(市場で売られている肉は、ほぼそういう肉だった)

パウロは答える前にまず、「知識は人を思い上がらせる。知識を習得したと考える人はまだ、知るべきほどにも知っていない。知識より愛だ」と言う。(やなかんじ。問題をはぐらかしてる上に、相手を下に見てるよね。お前らはオレから知識を受けたんだぞ、オレを批判できる立場じゃねーだろ、みたいなw)

コリント信者の知識は正しい(パウロも分かってる。自分が教えたんだから。4節)から、実際はそういう肉を食べたところで問題はないのだけど、パウロとしてはなんとかして、そういう肉を食べるのは良くないことだという主張を通したい(ユダヤ教的精神が残ってる)から、良心の弱い人に配慮しなさい(愛を示しなさい)という話に持っていく。(コスイね)

弱い人の良心が築き上げられてそういう肉を食べるようになったとしても、実際は一向に構わないわけで。(偶像の神殿で食事の席に着いて食事したって構わないってこと)
その人は知識を得て強くなるわけだし、その知識は正しいのだから破滅することもないしね。(つまりパウロは、自分の言ってることが論理的に破たんしてることに気付いてないw)

パウロが言うように、知識より愛を示して兄弟姉妹をつまづかせないように、っていうのは良いことなのかもしれないけど・・・なんかこう・・・すっきりしないんだよね。
まぁ、パウロはカッコつけて言ってるだけなんだろうけど。(説教がお上手~)


9章。(聖句は新世界訳より)

口調が変わって、パウロは自分が使徒であることの弁明に入る。8章の続きは10章に飛ぶ。

コリント信者にエルサレム会衆への多額の献金を募ったこと、それに対してコリント信者が疑問を持ってること、などもパウロの念頭にあったんだろうな。

パウロは宣教者として、当然受けるべき報酬(金銭的援助)を自分は受けなかったんだと、くどくどくどくどくどくど。

あまりにそのことに拘っちゃってるもんだから、「そうする(報酬を受ける)くらいなら死んだ方がましだ、これが自分の誇りなんだ、良いたよりの宣明は必要が課せられている(義務)のであって誇りではない、宣明しないのは災いなんだ、自分から進んでやってるんじゃなくて神の家令の仕事が託されてるんじゃい、報酬受け取らないのが報酬じゃい」、みたいな話になっていくという。

で、自分がどれほど頑張ってきたかを自慢する。「より多くの人を勝ち得るためにすべての人の奴隷になったのだ、良いたよりのために何でもするんだ」と。そしてそれは、自分が福音の側の存在になる(新世界訳は「分かち合う」となってるけど、この動詞は「そちらの側に加わる」の意)ためだと。

でもって、コリント信者を励まそうと思ったんだろうけど、「ただ一人だけが賞を受ける」競争に例えてしまうという失敗をする。(あるいはパウロは、自分一人だけが賞を得ているんだとでも言いたいとか・・・?まさかね)

最後の部分だけ比較。

26,27節。新世界訳「わたしの走り方は目標の不確かなものではありません。わたしの打撃の仕方は空を打つようなものではありません。むしろ、自分の体を打ちたたき、奴隷として引いて行くのです。それは、他の人たちに宣べ伝えておきながら、自分自身が何かのことで非とされるようなことにならないためです」

口語訳「わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。すなわち自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない」
新共同訳「わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです」
田川訳「私は曖昧ではない仕方で走る。空を打たないような拳闘をする。自分の身体に的確にパンチをくらわして、従わせる。他人に対して宣教しながら、自分自身が失格者とならないためである」

「失格者」と訳されてる語は、「本物であることが検証され証明された者(合格者)」という語に否定の接頭語をつけた形容詞。パウロがこの語を用いて、お前は合格者(11:19)だのなんだのと言うもんだから、パウロの語っているキリストが本物かどうか証明してくれ、とコリント信者から言われることになる。

新世界訳がいかに原文のイメージと異なってるかが分かるんじゃないかと。
パウロは結局、自分の事しか考えていないんだよね・・・コリント信者のこと気遣ってるようで。


以上、田川建三氏「新約聖書 訳と註」パウロ書簡①を参照させていただきました~

コリント人への第一の手紙7章(追記あり)

2019-04-01 | 聖書
パウロが男尊女卑で、極端に性的禁欲主義者だったことが特によく分かる章。
でも、聖なる書物にこんなこと書いてある訳がない、聖人パウロ様がこんなこと言う訳ない、という前提のもとに様々な解釈や改ざんが過去にも行なわれてきたようだ。
でもって、新世界訳ではもとのパウロの言葉とは全く意味が異なる訳になってしまっている。

7章。

1節。直訳は「人間にとっては、女に触れない方がよい」。
パウロの中では人間=男(新世界訳も「男」と訳している)。無意識に性差別的言葉遣いが出てしまっている。

2節。新世界訳「淫行がはびこっていますから」。
他の訳では「不品行に陥ることのないために」「みだらな行いを避けるために」「淫行を避けるために」など。
(「はびこってる」って・・・・なんじゃそれ)

3節。新世界訳「当然受けるべきものを与えなさい」。
他の訳では「その分を果たすべきである」「その務めを果たしなさい」「義務を果たすがよい」など。
パウロは性行為を夫婦間の義務とみなしているだけ。

5節。新世界訳「互いにそれを奪うことがないようにしなさい」。
他の訳では「互いに拒んではいけない」「互いに相手を拒んではならない」など。

5~7節。本当はみんながパウロのように一生独身で性的禁欲を貫くのが望ましいけど、神からの賜物がそれぞれなので、パウロのような禁欲能力の賜物を持っていない人は、無理に禁欲するとかえってサタンに誘惑されるので、結婚して夫婦の性生活を保ちなさいよ、それでも時々は中断して祈りに専念しなさいよ、というパウロの意見。

10,12節。「わたしの指示」と「主の指示」にこだわっている。
コリントの信者が、パウロの自分勝手な主張をイエスの命令だとすることに疑問を持って質問してきた、ということが分かる部分。パウロは、わたしの指示と主の指示を区別することで、切り抜けようとしている。

12,13節。新世界訳「ある兄弟に信者でない妻がいて・・・信者でない夫のいる女・・・」。
男の信者を「兄弟」、女の信者は姉妹ではなく「女」。15節では兄弟姉妹とあるのに、ちょっとしたところで男尊女卑が出ちゃうパウロ。
(でもまぁ、そうした考え方を克服しようと努力してたのかな、なんて良い方に捉えてみたり)

16,17節。たとえ夫婦であっても自分が相手(配偶者)を救えるわけはない。もしも他を救うなどという、おこがましいことができないのであれば、おとなしく自分の分を守っていなさい、ということ。相手を改宗させようと強引に引き留めて、平和を失うようなことをせずに。
(あらら・・救える=信者になるかもしれないから離婚しないで頑張りなさい~ってことだと思ってた。そんな風に教えられたよね)

21節。新世界訳「自由になることもできるなら、むしろその機会をとらえなさい」。
他の訳「自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい」「たとえ自由になりえても、奴隷状態を利用なさい」など。

パウロが奴隷制を擁護しているとして有名な箇所。聖人パウロがそれでは困るので、反対の意味に訳す動きもあった。口語訳「自由の身になりうるなら、むしろ自由になりなさい」。新世界訳もこちら。でもここは「たとえ・・・であっても、そうするな」の逆接文(「もし・・・であったら」ではない)。さらに「むしろ」と念押ししている。加えて17節以降パウロは「自分が神によって招かれた時の状態にとどまれ」と言い続けている。ここだけ反対の意味ではありえない。
(パウロはきっと22、23節「奴隷の時に召された人は主の自由民、自由な人の時に召された人はキリストの奴隷、代価をもって買われた、人間の奴隷になるな」新世界訳より)をかっこよく決めたかったから、こんなこと言っちゃったのかもしれないなぁ、なんて思ったりも)


(以下追記です)

25節。新世界訳「忠実であるよう主から憐みを示された者として」。
他の訳「主のあわれみにより信任を受けている者として」「主に恵まれて信実であるようにされた者として」など。

パウロは、自分はキリストの代行者という神からの特別の恵みを受けている、自分は神と同等の特質(信実)を持っているのだから、私の意見は神の意見だと思え、と言っている。
(これは私の意見だよ、って言えばいいだけの事なのに、上から目線で命令したいんだね)

26節。新世界訳「現状による必要性を考慮して・・・今あるままでいるのがよい」。
他の訳「今危機が迫っている状態にあるので・・・現状にとどまっているのがよい」「現在の逼迫した状態の故に・・・そのようにあるのはよい」など。

パウロは終末のことを考えている。その重要な審判の時を目前にしているのだから、童貞であるのは良いことだ、と言っている。でも新世界訳だと、コリント会衆の現在の必要を考慮して、と受け取れる上に、童貞であるのは良いことだと2回も繰り返されてるのが、今あるままでいる(童貞なら童貞で、結婚してるなら結婚したままで、みたいな)のがよいこと、の意味に受け取れるようになっちゃってる。ダメじゃん。

27節。新世界訳「妻につながれている・・・妻から解かれている・・」。
他の訳「妻に結ばれている・・・妻と結ばれていない・・」「女に縛られている・・・女から解放されている・・」

ヨーロッパの諸語は「妻」と「女」(「夫」と「男」)を区別しない。ここは実質的には妻の意味。パウロにとって、結婚しているとは「女に縛られている」ことであり、結婚していないとは「女に煩わされず解放されている」ということ。
(パウロ、屈折してるなぁ・・・)。

28節。たぶん前書簡で、信者は結婚しないのがよい、結婚なんて誘惑に負けて罪を犯すも同然だ、とでも主張したのかも。で、コリント信者からの反撃にあって、ここでは少し譲歩して、結婚そのものが罪だとは言ってない、みたいに言い訳してるw?

新世界訳「自分の肉身に患難を招くでしょう」。田川訳「肉体に苦悩を持つことになろう」。

パウロがここで言っているのは、性行為など経験しなければ性的欲望はまだ我慢しやすいが、結婚してそういうことをしていると性的欲望の火が燃え盛って困ったことになるよ、ということ。性的欲望を持つことがパウロにとっては苦悩だったので、どうやってその苦悩から解放されるかが関心事であって、家計の心配とか口うるさい妻がいたら大変だとか言ってるわけじゃない。

新世界訳「あなた方がそれに遭わないですむようにしているのです」。田川訳「あなた方に遠慮してあげているのである」。

パウロはここの動詞を、人を表す語を属格に置いて「遠慮する」「相手に譲歩する」の趣旨で用いている。つまり、あなた方に遠慮して自説を主張しないでおく、と恩着せがましく言っている。

30節。新世界訳「買う者は所有していない者のように」。
常に貧しい者の方に眼が行くイエスと、こうした事柄を列挙するのに「買う者」にしか頭が行かないパウロ。

32~34節。新世界訳「是認を得る」×3。他の訳「喜ばれる」「喜んでもらう」×3など。
(是認を得るって・・・カタイなぁ・・・感情がないなぁ・・・)

36節。新世界訳「しかし、人が自分の童貞性にふさわしくない振る舞いをしていると考え、若さの盛りを過ぎており、しかもそれが当然の道であれば、その人は自分の望むことを行ないなさい」。

口語訳「もしある人が、相手のおとめに対して、情熱をいだくようになった場合、それは適当でないと思いつつも、やむを得なければ、望みどおりにしてもよい」
新共同訳「もし、ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を制御できないと思うなら、思いどおりにしなさい」。
田川訳「もしも誰かが自分の処女に対してさまにならないことをしていると思うのなら、彼女がすでに十分に成熟しており、かつそうするべきであるのならば、その欲することをなすがよい」。

訳によって全然違う。少なくとも、新世界訳のように、自分自身の童貞性のことを言ってるんじゃなさそう。
当時、自分の娘(もしくは婚約者の少女)が適齢期になったのに、結婚させない(しない)ぞと頑張るとしたら、それは正しくない(さまにならない)と世間から言われる、つまりここは、「彼女が十分に成熟しているのに結婚しないでいるのは正しくない、と思うなら結婚すればいい」と言っている。「正しくない」と言えば済むのに、「さまにならない」という屈折した語を用いたので、様々に解釈されてしまった。
十分に成熟している(単語の意味は「頂点に達している」)=結婚適齢期、ということだから、彼女だけでなく自分(男性)がとも考えられる。新世界訳のように、若さの盛りを過ぎており、なんてことは言ってない。

37節。新世界訳「童貞性を守ろう」。

口語訳「相手のおとめをそのままにしておこう」。
新共同訳「相手の娘をそのままにしておこう」。
田川訳「自分の処女を守っておこう」。

つまり結婚相手を処女のままに保つ、ということ。それをりっぱな行動だと言うパウロ・・・。

38節。新世界訳「結婚して自分の童貞性を離れる」。

口語訳「相手のおとめと結婚する」。
新共同訳「相手の娘と結婚する」。
田川訳「自分の処女と結婚する」。

36~38節の新世界訳は、ぜんぜん意味が違うんだけど・・・いいのか?これで。「自分の童貞性」っていう訳が間違った解釈を生んじゃったんだろうなぁ・・・しかもこれらの聖句に、若者信者たちは随分振り回されてるよねぇ・・・組織の罪は大きいぞ。

39節。こういう時に女の側だけ言うパウロ。男尊女卑が無意識に出てる。

新世界訳「ただし主にある者とだけです」。(「者と」は補足)

原語は「ただし主にあって」。ただし結婚相手はクリスチャンに限る、という解釈が多い。でもパウロの「主にあって」という表現は、クリスチャン的、キリスト教的、という広い意味なので、再婚する場合も彼女自身はクリスチャンとして振る舞いなさい、という解釈もできる。(この聖句にも、信者は振り回されてるよね。恋愛もできなかったり、特権はく奪されたり・・・)

40節。新世界訳「自分も神の霊を持っていると確かに考えている」。

イエスの教えではなく、自分の偏った意見を主張してるという自覚があったパウロが、言い訳してるw。


以上、田川建三氏の「新約聖書 訳と註」パウロ書簡①を参照させていただきました~

コリント人への第一の手紙4~6章

2019-03-27 | 聖書
5:9からパウロが、この手紙の前にコリントへ手紙を書いていたことが分かる(現存していない。学者たちからは「前書簡」と呼ばれている)。

その内容は、5:10から分かるように、淫行の者や偶像を礼拝する者などと一切つきあうな、とか、7章以下から分かるような(結婚するな、肉食うな、女は黙ってろ、みたいな感じかな)ことで、それをパウロは、自分の言うことこそ神(イエス)の言葉なんだぞ、と上から目線で書き送ったのだろう。

パウロ以外からキリスト教を知ったコリントの信者は、はたして本当にイエスがそんなことを言ったのかと疑問に思い、7:1にあるように、質問の手紙をパウロに送ったということかな。

パウロはそれを自分への批判と受け取り、返事を書くにあたってまずは、コリント会衆で起きていると伝え聞いた良くない事(分派とか、淫行とか、訴訟とか)を取り上げ、真偽も確かめずに、けしからんことだと文句を言うところから始めるという・・・(お子ちゃまだね~w)。

で、コリント信者の質問に対する実際の返答は、7章から(5:9~11も)になる。

4章。

1節。「人(つまりコリント信者)は我々(つまりパウロ)を・・・神の秘義の管財人とみなすべきである」。
15節。「キリスト・イエスにあって、福音によって、私があなた方を生んだのだ」。
16節。「私を真似る者となりなさい」。
17節。「あなた方にキリスト・イエスにおける私の道を思い出させてくれるだろう。私があらゆるところで、あらゆる教会で、どのように教えているかを」。
以上田川訳。

これらの言葉だけでも、パウロがとても排他的で自分を絶対視する教祖様だということが分かる。このパウロの精神を取り入れ受け継いだ結果、宗教改革以降プロテスタント諸派が分裂を繰り返し、自分たちこそ神の代理者で真理を教えているんだと主張して、他を排除しあうようになっていった・・・・・エホバの証人もまた、その中の1つでしかないんだろうな。

5節。新世界訳「主が来られるまでは、何事も裁いてはなりません」。

この「裁く」は3,4節で「調べる」と訳されてる動詞(「批判する」の意)から接頭語を抜いたもの。「批判する」「判断する」の意味だが、裁判用語として「裁く」の意味に用いられる。パウロのよくやる語呂合わせ。
3節で、あなた方に批判されようがどうでもいい、と言っておきながら、そのすぐ後で、裁くな(つまり、オレのことを批判するとは何事か)、と言ってる訳で。

6節。新世界訳「『書かれている事柄を越えてはならない』という定め」。

旧約に書かれていることではなく、先の手紙でパウロが書いた内容を指す(「定め」は余分な付け足し)。書かれていることだけをしっかり受け取って、それ以上つべこべ言うな、と。

8節。新世界訳「王として支配しはじめた」。直訳は「王である」。

宗教思想において、到達しうる最高の状態を「あらゆるものの上に立つ」という意味で「王になる」と呼んでいる(グノーシス主義的発想。プラトン、ストア派などの「賢者」のこと)。さらに上の段階として「休む」もあるとか。
う~ん、王として支配すること、って実際なんなのか分からなくなってきた。14万4千人が天でキリストと共に地を支配する、っていう考えなどパウロは持っていなかったように思えるなぁ・・・。啓示の書でそれが明かされたとも言えるのだろうけど・・・この14万4千人の教理はどうもピンとこないなぁ。

5章。

1節。新世界訳「ある人が自分の父の妻を有している」。

単に「持つ」という動詞。「女を持つ」という表現は「結婚する」と同義(法的かどうかは関係なく)。自分の母親ではなく、父親の再婚相手(まだ若い)と、おそらく父親が亡くなった後に結婚したとも考えられる。(当時は若くして亡くなる人も多かったし、早婚だったし)
「諸国民の間にさえないほどの淫行」とあるのは、ローマ法では父の妻との結婚が禁止されていたからか。
まぁ、パウロは性道徳に関して極端に保守的で、伝統的な型にはまった男女の関係以外は認めたくない、いやそれさえどちらかといえば認めたくない人なわけで。
とすると、そんなに騒ぎ立てるほどヒドイ事態でもなかったんじゃないか・・・と思われる。(まぁ、自分を批判してきた相手のささいな欠点をあげつらってるだけなんじゃないかと)

3節。新世界訳「すでにきっぱりと裁きました」。

4:5で人には「裁くな」と言ってるのに、矛盾だよね。

11節。新世界訳「共に食事をすることさえしないように」。

「汚れた者」と一緒に食事をするとその汚れが自分たちにも伝染する、という古代人的(特にユダヤ教律法的)な発想がある。だから一緒に食事をするなと言ってるだけで、みんなでシカトしろと言ってるわけじゃない。つまり、もしこの言葉に従うとなると、逆にサタン的だ(いわゆる迷信に従ってる)ってことになるんじゃw。
パウロは以前、ペテロが異邦人クリスチャンと一緒に食事をすることから離れて行った時、厳しく批判しているのに、ここでは「淫行の者」等と一緒に食事をするな、と言う。これも矛盾だよね。
イエスは、罪人と非難されてる人たちと一緒に食事をすることについて、そういう考え(罪が伝染する)を憤りを込めて批判した。
パウロはそれと対照的に、自分の教会を自分的な形で保ちたかっただけ。

これは、組織の排斥の根拠となる聖句でもあるけど、こうした背景を考えると、果たしてパウロのこの言葉を額面通りに受け取って、神の言葉として当てはめるのはどうかなと思う。

12節。新世界訳「あなた方は内部の人々を裁き」。

田川訳は「あなた方は内部の者を裁いてないとでもいうのか」。ここは論理的に通じない文。文脈からすれば「我々は内部の者をきっちり裁くのがよい」とならなければ通じない。でもここもパウロの自己弁護と捉えれば、あなたは外部の人々まで裁いてしまおうというのか、という前書簡への批判に対して、誰もそんな事は言ってない、あなた方こそ内部の人(パウロ)を裁いてるじゃないか、と切り返したのだと考えられる。

6章。

1~7節。この部分も、事実そういうこと(訴訟問題)があったのか、それとも仮定の話なのか、分からない。

9節。新世界訳「不自然な目的のために囲われた男」。

直訳は「柔弱な者」。この形容詞は「柔らかい」の意。人間には褒めた意味ではなく、悪口に使われる。(ホモセクシャルの女役を指しているという解釈もある。次の「男どうしで寝る者」の対として)

15~17節。新世界訳「二人は一体となる」。

同じ旧約の言葉を引用した、パウロとイエスの違いが表れている部分。パウロは娼婦を汚れた存在(人間扱いしていない)とみなし、そういう汚れたものに触れるのはよくない、と言っているが、イエスはそういう仕方で娼婦を排除する(古代社会では特に、社会から排除された女がやむをえず娼婦になった)世論に対して、文句をつけた。
イエスは、排除された者の側の視点に立ってものを言い、パウロはその排除を前提としてものを考える。


以上、今回も田川建三氏「新約聖書 訳と註」パウロ書簡より、引用、参照させていただきました。

コリント人への第一の手紙1~3章

2019-03-21 | 聖書
新世界訳の独特な言葉。この1~3章の中にもたくさん出てくる。

「神聖な奥義」「この事物の体制」「過分のご親切」「苦しみの杭」「贖いによる釈放」「会衆」などなど。

エホバの証人だけが用いる、いわゆる隠語的な言葉(開拓奉仕とか時間を入れるとか)はたくさんあるけど、新世界訳聖書もそれにまみれてる。
独自の解釈による独自の言葉が多用された聖書。次の特別集会で今度こそ改訂版が出るだろうと期待されてるみたいだけど、ますますエホバの証人色が強くなった聖書なんだろうなと思うと、なんだかもう読む気も薄れてきた。

解釈本をたくさん出すのは勝手だと思うけど、聖書自体に解釈を持ち込んじゃダメだと思う。

まぁ、組織側としては、聖書読めば教理が分かるように改訂しちゃうのが一番近道なんでしょうけど。


では、コリント①1~3章いきます。

1章。

20,21節。田川訳「・・神が此の世の知恵を愚かにしたのではなかったのか。すなわち此の世は神の知恵の中で神を知恵によって認識できなかったので、神は宣教の愚かさによって信じる者を救うのがよいとされたのである」

ここ、新世界訳では何言ってるのかよく分からなかったけど、この訳だとよく分かる。
人間は、神の知恵の所産である創造物の中にいて、しかも認識できる知恵を持っていたのに、神を認識できなかった。だから神は、そういう理性(知恵)による認識をあきらめて、宣教の愚かさの方を選んだんだよ。
・・と解釈すればいいんだね。


2章

2節。新世界訳「・・しかも杭につけられたキリスト以外には何をも知るまいと決めたのです」。

つまり、生きていた時のイエスが何をして何を教えたかなんて知らない、というパウロの宣言。
パウロにとってのキリストは、贖いによる救済信仰の対象であることと、復活して自分に現われてくれたことのみ。生前のイエスを知る宣教者たちに聞くことを嫌った(ガラテア1:11,12)。
なのでコリントの信者たちから、パウロのキリストは本物なのかどうかという疑問が出て、結果コリント会衆に分裂を引き起こすことになったのに、この後のパウロの言葉ときたら・・・

このオレ様こそ神の霊を受けて神の知恵を語る者であり、あなた方と違って物事を正しく判断できる霊的な人、キリストの思いを持った者なのだ、と。(どこぞの統治体とそっくりw)

「わたしたち」という語にごまかされちゃうけど、この語をパウロとその側の人たちだけを指すと考えて読むとこうなる。つまり解釈が全然違ってくる。この書の書かれた目的を考えると、こっちの方が妥当。

6節。新世界訳「円熟した者たち」。田川訳「完全な者たち」。

当時、それぞれの思想の流れの中で最もすぐれた水準に達した人を「完全な者」(一つの概念として)と呼ぶ、一種の流行語。パウロはそれを、3:1で「霊的な人」と訳されてる語と同じ意味で、自己流に用いている。「円熟した者たち」は、訳ではなく解説。

他にもグノーシス的な概念として、「知恵(ソフィア)」6節、「秘義」1,7節、「認識する」8節(名詞がグノーシス)など。パウロも当時の流行語的なものに乗っかってた、ということでw。

3章

10,11節。田川訳「私に与えられた神の恵みによって、私は知恵ある建築家として土台を据えた。ほかの者がその上に建物を建てる。それぞれがどのように上に建物を建てるかは、自分で気をつけるべきである。すでに置かれてる土台以外に誰も土台を据えることはできない。その土台はイエス・キリストである」

新世界訳は「賢い作業監督」としてるけど、「知恵」の問題がここでも続いてることが分かるよう直訳すべき。

新世界訳だと、イエス・キリスト以外の土台は据えられない、という意味になるけど、他の訳だと、すでに据えられている土台以外に土台は据えられない、となる。
つまり、土台を据える(据えた)のはパウロだけだ、という排他的なパウロ教宣言。

新世界訳では続く13節に、土台の上に建てられる各人の業はその日に火によって証明される、ってあるけど、つまりパウロは、パウロのキリストが本物であるかどうかなんて批判してる場合じゃないぞ、各人の業の本当の証明は最後の審判の火でなされるんだぞ、って脅してるってことだよね。(どこぞの組織みたいだねw)

21節。人間を誇るな、神にあって誇れ、と言ってる割にパウロ自身は、かなり自分を誇ってるという・・(新世界訳だとその辺が読み取れないので、田川訳をお勧めします)


いつのもように田川建三氏の「新約聖書 訳と註」パウロ書簡を参照させていただきました~

ローマ人への手紙15~16章

2019-03-12 | 聖書
15章。

パウロ、上から目線で偉そうなこといっぱい書いちゃった(筆記したのはテルテオだけど)もんで、この章では、言い訳っぽいこと書いてますね。でもやっぱり偉そうw。

1節。新世界訳「強くない者」。直訳は「できない人たち」。単に「強くない」ではなく、「強くなることができない」という意味。

2節。「各々が善を行なって隣人を喜ばせる」のではなく、原文では「各々が隣人を喜ばせて、善へといたる」の意。なので、この「善」は各々が行なうことに限定されず、もっと大きな全体の善。

4,5節。新世界訳「忍耐と聖書からの慰め・・・忍耐と慰めを与えてくださる神」。田川訳「忍耐と、書かれてあることの呼びかけ・・・忍耐と呼びかけの神」。
「書かれてあること」は複数形。パウロは「聖書」という時、「書物」の単数形を用いる。なのでここでは、まるごと聖書を指すのではなく、書かれてある個々の言葉のことを指していると考えられる。「以前に書かれたこと」と対応する。
「呼びかけ」は字義通り。実質的には、忍耐せよ、自分の主張を通そうとするな、という訓戒を意味している。「慰め」と訳すのは無理。

7節。新世界訳「神の栄光となることを目ざしつつ、キリストがわたしたちを迎え入れてくださったように、あなた方も互いを迎え入れなさい」。田川訳「キリストもまたあなた方を神の栄光へと受け入れて下さったように、あなた方も互いに受け入れよ」。
わたしたちが神の栄光となることを目ざすんじゃなくて、キリストがわたしたちを受け入れて神の栄光へと導いて下さるんです。訳で意味がこんなに違っちゃうという。

8,9節。文体的には、わたし(パウロ)が言うのは「キリストは割礼に仕える者となった」ことと「異邦人は神に栄光を帰するようになった」ことだ、となる(「神の真理の故に」と「神の憐みの故に」が対応する)。
でもドグマ的には、「キリストが割礼に仕える者となった」のは「父祖たちの約束を確かなものとするため」かつ「異邦人が神に栄光を帰するため」だ、の方が都合がいいのでそう解釈して訳す。新世界訳もこちら。

9節。詩18:49の引用。神を認識しない異邦人の中に居ても、私(ユダヤ人の信仰者)は神を告白し賛美する、という詩。ところがパウロは、詩篇作者とは正反対の、異邦人も神を告白している、の趣旨で引用した。(ものみの塔がやってることと同じだね・・・パウロよ、おまえもか・・)

14~16節。未知の相手に失礼なことを書き過ぎたかな、と気付いて言い訳してる。ローマにも立派な信者が大勢いらっしゃることを信用してないわけじゃありませんよ、と。さらに自己弁護的に、私は神によって特別な「恵み」を与えられているのだから上から命令する権限があるんだ、と。しかもそれは、あなたたちのためなんだ、と。(どこぞの統治体と同じだね・・・)

18節。ここでの表現のみそは「わたしを通して」。パウロは、イエス・キリストについてほかのことを語りたいのではなく、自分パウロに直接働きかけてくれたキリスト以外は何も語るつもりはないよ、と言っている。
かつて現実に生きていたあのイエスという男のことなぞ自分は相手にするつもりはない、自分が出会ったと信じている幻のキリスト、自分の頭の中に働きかけてくれていると信じ込んでいるキリストのことだけを福音として宣教するのだ、という居直り。
パウロのキリストは、パウロに奇跡的な力を付与してくれる存在であり、また霊の力によって語ることを与えてくれる存在であるという。
パウロが自分のなした奇跡行為を鼻にかけて誇っているのは明白。自分はキリストのことを語るのだ、と言いながら、自分が実現したさまざまな奇跡行為のことしか頭にない。

20節。キリストの名がすでに唱えられている所では宣教しない、とあるが、これは事実に反する嘘。エフェソスでもコリントでもパウロ以前にすでに宣教活動が行われていた。(さすがにここは解釈でごまかすことはできなかったかぁ・・・w)

22節。新世界訳「そのためにも(あなた方のもとへ行くことを何度も妨げられてきた)」。田川訳「だから」。
20,21節を受ける(すでに宣教されているから)か、19節を受ける(エルサレムからイルリコを回る宣教で忙しかったから)か、挿入句と見て23節につなげる(宣教されてない所で宣教したいからローマへ行きたい)か。
後者ならパウロには、ほかの人たちはキリスト教の指導者の名に価しない、自分がローマで初めて本物のキリスト教を伝えるのだ、という自負があったことになる。20節での嘘も、もしかしたらパウロにとっては嘘じゃなくて、エフェソスやコリントも自分こそがその地で最初に本物のキリスト教を伝えたんだ、と思ってたのかも。(もしそうなら、組織とそっくりだなぁ・・・)

24節。新世界訳「途中まであなた方に付き添ってもらってそこに行こうと希望してます」。田川訳「あなた方によって更にスペインへと送り出してほしい」。
見送りに来てほしい、という話ではなく、スペインへの大規模な伝道旅行の準備(費用含め)をよろしく、と言っている。(いやぁ~統治体みたいだぁ)

26節。本当はパウロが彼らに献金を依頼した(強引に頼み込んだ)のに、ここでは彼らがみずから進んで発案したかのように言っている。(このへんも、組織みたいだぁ~)


16章。

未知の相手、しかも帝国の首都ローマに宛てた手紙、パウロはやたらと張り切って、知ってる限りの名前を並べたと考えられる。

17~20節。パウロの自筆。自筆の書き添えになったとたんにひどく嫌らしい警告を記すのはパウロの癖。

21~23節。口述筆記したテルテオの書き加え。

ここまでで、本文は終わる。

24節は、20節後半と同じ祝福の言葉。(新世界訳は省略)

25~27節は、後世の写本に付け足されたドクソロギア(神の栄光を賛美する言葉)。


今回も、田川建三氏の「新約聖書 訳と註」パウロ書簡②を参照、引用させていただきました。

ローマ人への手紙12~14章

2019-03-06 | 聖書
今回も田川建三氏の「新約聖書 訳と註」(パウロ書簡2)を参照、引用させていただきました。

12章。

1節。新世界訳「理性による神聖な奉仕」。直訳では「理性的(ロゴス的)な仕えること」(「霊的」とは違う)。古代人の考え方は、「理性」とは本質的には神の事柄であり、人間が神に対して取るべき態度は理性的でなければならない、というものだった。だからパウロは、取るべき態度としてこの語を用いただけで、今の日本語にあるような意味で用いているのではない。

3節。新世界訳「自分に与えられた過分のご親切」。1節同様、パウロは自分が神から特別な恵みを与えられた権威ある存在だと思い込み、神になりかわって教えているのだ、と思い上がっている。初期の手紙のテサロニケ①4:10,5:14の呼びかけは複数で言っているのに、ここでは1人称単数になり、パウロ個人が神をこの世で代表してるつもりになっている。

3節。新世界訳「自分のことを必要以上に考えてはなりません」。字義「思うべきことを越えて思ってはならない」。解釈として「自分を過大評価してはなりません」という訳が広まっているけど、パウロがこの表現で何を意味しているのかは分からない。解釈を訳に持ち込むべきではない。
新世界訳「健全な思いを抱けるような考え方をしなさい」。「健全な思い」の原語は、ギリシャの倫理思想の最重要概念のひとつで、死すべき人間がその則を越えて思い上がらない、という趣旨で用いられる。パウロは「思うべきことを越えて思う」の反対語としてこれを用いている。
パウロは3節で「思う」という語の単語遊びをやっている。名詞の「思い」は「横隔膜」のことで、ギリシャ人は横隔膜を人間の思いを司る内臓だと思っていた。

3節。新世界訳「神が各々に信仰を分け与えてくださったところに応じ」。個々の信者が持つ「信仰」のことではない。神がある者には大きな信仰を、他の者には小さな信仰を与えることはない。パウロにとって、個々の信者の違いは彼らが成す働きであって、「信」はすべての信者に共通する事柄。なのでここは、信者として何をどのように考えるのが正しいかという物差しを、神がそれぞれ皆に同じ「尺度」を与えてくれた、という意味。

8節。新世界訳「惜しみなく(分け与え)」。この語に「惜しみなく」の意味はない(教会に寄付すること、と解釈したための訳)。この語は「純粋な心で」の意(慈善行為は見返りを期待せずに、ということ)。

9節。新世界訳「愛を偽善のないものにしなさい」。原文は「愛(主語)非偽善的(形容詞)」。表題として「愛は偽善的ではない」と宣言した後、この章の終わり(ないし14節)まで具体例を列挙している構文、とも考えられる。

11節。新世界訳「エホバ(主)に奴隷として仕えなさい」。パウロにとって神に仕えるのは根本的なこと。ここでは倫理、宗教実践などの諸項目の一つとして言われているので、ここの「主」は奴隷に対する主人とも考えられる。

13節。新世界訳「聖なる者たちと、その必要に応じて分け合いなさい。人をもてなすことに努めなさい」。パウロは、一般の貧しい人、ではなく、信者の中の貧しい人、に話を限定して書いている。パウロは内部のことしか考えない人だった。当時のキリスト教徒が貧しい人を助け寄留者の世話をした(基本のあり方)のは、クリスチャン相手に限られない。


13章。

1~7節。パウロは、国家権力、政治権力は絶対的な善であり、絶対的に従わなければならないと言っている。教会が国家権力との結びつきを自己弁護するために、この部分が引用されてきた。(王権神授説)
生まれながらローマの市民権を持っていたパウロは、ローマ帝国の権力を有難がっていた。

1節。新世界訳「相対的な」。教義による付け足しの語。付け足しなのに括弧もついてないというヒドイ訳。パウロの文がこのままじゃ都合が悪いからと、自分たちの教義を優先して勝手に改竄しちゃダメでしょ。

6節。新世界訳「彼らは、まさにこのために絶えず奉仕する神の公僕だからです」。直訳「彼らがこのことに固執するのは神の仕え手としてなのだ」。あなた方は彼らが税金に固執していると言うけど、それは神の仕え手としての責任を果たそうとしているからで、悪口を言ってはいけないよ、と諭している。

8節。前節で「税金を支配者に対して負っている」と言ったその「負う」という単語にひっかけて、ここで「愛以外の何ものも負うな」と、つながりのないことを並べて言うのがパウロの文章。愛以外負うなと言うのなら、国家権力者に尊敬(新世界訳では、誉れ)を負うわけにはいかないのに、パウロはその矛盾に気付かずヘタなレトリックを楽しんでいる。

13節。新世界訳「不義の関係」。原語の意味は、性行為のために床にはいること、ないし性行為そのもの。
14節。新世界訳「肉の欲望のために前もって計画するようであってはなりません」。直訳「肉の思いを満足させるために実行してはいけない」。「肉の思い」となるとすべての肉体的欲求(極端な禁欲主義)になるが、パウロはごりごりの性的禁欲主義者だから、実際は性欲のことだと思われる。


14章。

前回の記事をご覧くださいませ。(タイトル「すべての物は清いのです」)


聖書を、神の霊感を与えられた聖なる者が書いた神聖な本、という色眼鏡を外して、同じ人間が書いた普通の書物として読めば、解釈も随分違ったものになるんだろうな、とつくづく思う。
聖書って、書かれた初期から、色々な宗教的解釈が入り込んで、作り込まれてるみたいだし。確かに特異な本ではあるけれど、原本が残っているわけではないし、色んな解釈ができるし・・・どこまで真理として信じられるものなのか。
・・・ともかくも、この組織の聖書翻訳も解釈も、信じられないことだけは、確信できました。

すべての物は清いのです(ローマ14:20 新世界訳)

2019-03-04 | 聖書
田川氏の解説するパウロがとても興味深かったので、以下、また引用させていただきます。

新約聖書 訳と註(パウロ書簡2 p326~7)より。
ローマ14:20の「一切は清い」に関して。
______________

パウロは明瞭に第一コリントス書簡の議論を頭においている。よほどひっかかったのだろう。

第一コリントス10:23では「一切が許されている」と言っている。

どちらの表現も同じ問題に関する同じ意識の表現である。
そしてどちらも明瞭に、食べ物を仕分けして、この食べ物は宗教的に穢れている、と決めつけ、それによって自分の行動も他人の行動もうるさく管理、支配しようとする、そういったくだらぬ宗教的禁忌をきっぱりと拒絶する宣言である。

初期キリスト教が多くの人々に人気があったのは、その種のくだらぬ禁忌からの解放を鮮明に、きっぱりとした仕方でもたらしたからであろう。

古代人にとっては、どの民族でも、その種の宗教的禁忌がうじゃうじゃとこうるさくのしかかっていた。
その無意味さをずばっと指摘し、そこから解き放たれようと説いたのだから、当然、人気が高まる。
そしてその出発点にイエスが位置した。(マルコ7:15参照)

けれどもユダヤ人出身のキリスト教徒の多くは、ユダヤ教の伝統から十分に足を洗うことができず、むしろその種の禁忌をキリスト教の中にまで持ち込もうとする勢力も強かった。
そしてこれは単に食べ物の禁忌の問題ではなく、「異邦人」を穢れたものとみなすユダヤ人のあの嫌ったらしい民族至上主義がからんでいる。それを彼らはキリスト教の中にも持ち込んで持続しようとしたのである。

異教の神殿に捧げられた可能性のある肉(可能性というだけなら、「異邦人」の肉屋で売っている肉はすべてその可能性がある)をむきになって忌避しようとしたのもその一つである。

しかしパウロは頭がいいから、こういう時にただ単純素朴にごりごりのユダヤ主義を主張したりはしない。本当のところ食べ物に宗教的穢れなどということはありえない、ということもわかっている。
「一切は清い」のだ。

しかしそれならそうとおとなしく認めればいいのに、建前上はその基本原則を認めるような顔をしながら、実際には異邦人の肉屋の肉を忌避する姿勢を手放さない。(略)

そしてパウロはその矛盾をごまかすためにおためごかしの理屈を持ち出す。
食べ物の禁忌に固執しているのは「信仰に関して弱い者」である。あなた方はそういう「弱い者」のことを配慮してあげないといけない・・・。

しかし弱い者に対する配慮どころかパウロ自身が、偶像に供えられた肉を食べることは悪霊と交わることだ、そんなとんでもないことをやってはいけない、くわばらくわばら、と信じ込んでいるのだから(第一コリントス10:20)、パウロの本音がどこにあるかは、一目瞭然である。

そして、その本音を誤魔化しておためごかしの理屈で切り抜けようとすれば、人は説得力を失う。

パウロはコリントスの信者(多くはいわゆる異邦人)から強烈に批判されたことだろう。あなたはイエスの発言まで無視して、自分勝手なユダヤ主義を主張しようとしている・・・。

パウロの二つのコリントス書簡はその件及び類似のいくつかの件をめぐってパウロとコリントスの信者の間で生じた紛争の記録である。
痛いところを突かれて、素直にあやまればいいのに、逆に居直ってかりかりと理屈にならない理屈を並べて反論し、権威づくで相手を押さえつけようとする。

パウロがいかにかりかりしていたかは、二つのコリントス書簡、特に第二書簡を読むとよくわかるが、ローマ書簡はそれと同時並行ないしその直後に書かれた。だからパウロはその喧嘩のとばっちりをローマ書簡にも書き込んでしまったのである。

第一コリントス8-10章でもローマ14章でも、まったく同じ論理の運び(ないし論理にならない居直り)である。
どちらでもパウロは「一切は清い」という程度のことは俺だって知ってるよ、と宣言する。
どちらでもパウロは、そのせりふにすぐに続けて「しかし」とくる。「しかしやっぱり異教の神殿に捧げられた肉」を食べるのはよろしくない、と。

この「しかし」は、まったく説得力のない「しかし」であるが、居直りのせりふというのはまさにそういうものである。

パウロがローマ書で、つまりコリントスの信者たちと直接には何の関係もない未知の相手に、まったく同じ問題を同じ論法でくり返し扱っているのは、いかにパウロがコリントス論争にこだわっていたかをよく示している。
______________


以上、読みやすいよう、たくさん改行を入れさせていただきました。
田川氏は、パウロのこうした姿勢(建前と実際行動の乖離)を、霞ヶ関の官僚とそっくり、と書かれていましたが、自分は、ものみの塔の組織とそっくり~~、と思いました。
パウロ書簡を読んでそれを実践しようとすると、そうなっちゃうってことですかね・・・・・だとしたら、この組織は聖書的だと言えるのかなw。

聖書全体は神の霊感を受けたもの、とあるけど、特に新約に関してはアヤシイところだし、パウロがこういう人だったことを考えると、その内容もどれだけ受け入れて当てはめるか、ムズカシイところです。
でも、自分は創造者としての神の存在を信じてるし、聖書はやっぱり神からの手紙なのかなぁ、とも思うので、引き続きぼちぼちと学んでいこうと思ってます。



(追記)同上。p324~5より ローマ14:16に関して。
_________

(「良きもの」がキリスト教徒が得た「自由」を指すと解釈すれば)

・・・パウロはここではむしろ、食べ物や暦日の禁忌に固執しようとするユダヤ教の流れの信者たちのことを擁護しようとしている(彼らを蔑んではいけない、裁いてはいけない、彼らに障害物や躓きを与えてはいけない)。

従ってパウロがここで、禁忌からの自由を重んじようと言っている、と解するわけにはいかないのだ。

・・・禁忌に固執する「弱い」信者のことを批判する「強い」信者に対して、そういう批判をするな、と言っているのだから・・・

(「良きもの」がパウロの言う「福音」を指すと解釈すれば)

・・・パウロが言っているのは、食べ物に関する禁忌を犯したりしたら、それによって、あいつらのキリスト教は「冒瀆」を犯している、などと悪口を言われかねない。だからそういうことのないようにしよう、ということであろう。


議論のはじめの方では、食べ物の禁忌なぞどうでもいい、と言いながら、結論を言う段になると、それを守ろうとするユダヤ教的キリスト信者さんたちの立場を考えて、守ることに賛成してあげなさい、というのだ。
賛成してあげなさいどころか、最後は「肉は食わない方がいい」という断定的な結論にもっていく(21節)。パウロ的詭弁の最たるものである。

「どうでもいい」と言うのなら、「食っても食わなくてもどうでもいいのだから、それぞれが好きなようにやればいい」という結論しか出ないはずである。それを、「どうでもいいのだから、食うな」とつなげるのだから、自分で自分の理屈を無視した詭弁というしかあるまい。

「食うな」という結論を主張したいのなら、はじめから、これはどうでもいいことではなく、重要な問題なのだ(本当にそうかどうかは別として、パウロの思惑としては)、と言えばよろしかったのだ。

もっとも、そのように正直に本音を言ったら、「異邦人」信者から、パウロはやはりキリスト教をユダヤ教に引きもどすつもりか、という文句が出ただろう。それで無理をして両側を並べるから、こういう詭弁になる。

この箇所については、「良きもの」が何を指しているかについて、他にもさまざまな解釈があるところ・・・
訳としては、従って、なるべく解釈をまぜないように訳さないといけない。
・・・良いことがそしりの「種」にならないように、というのではなく、良いことそのものが冒瀆されないように、と言っている。
_______

ちなみに新世界訳の14:16は「それゆえ、自分の行なう良いことのために悪く言われるようなことがないようにしなさい」。田川訳は「だから、あなた方の良きものが冒瀆されるようなことがあってはならない」。