むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

1、葦刈(あしかり)

2021年07月09日 07時51分31秒 | 「今昔物語」田辺聖子訳










・朝からしとしとと降りつづく小雨が夜に入ってもやまず、
むし暑い京の町は漆を流したような黒い闇に包まれている。

ある邸の奥の一間、女人の住むあたりに灯が明るい。
身分よき人の老いたる北の方が若い女房たち相手に話をしている。


~~~


・「長いこと生きたというても、
わたくしなぞはうかうかと月日を過ごしたゆえ、
とりたてて物語るようなことはないのですよ。

若い人たちに語って聞かせようにも、
昔のことは忘れてしもうた。

え?それでは、
世にまだ知られぬ歌の一つ二つでもおぼえていぬかと?

ほんに、そういえば、こんな古歌がありました。
おお、それにはまず、その歌を詠んだ人のことから話さねば・・・」


~~~


・今は昔、
京に貧しい若者がおりました。

父母も身寄りもなく、ある人に仕えていたが、
一向に芽も出ず、もしやと主人を変えてみたが、
いつまでたってもはかばかしゅうありませなんだ。

この男の妻もまだ年若く、美しく、
それに心やさしい女で貧しい夫に従って暮らしていましたが、
夫はあれこれ考えて妻に言う。

「生きている限りはもろともにと思っていたあなたと私だが、
こうして日に日に貧しくなってゆくのは、
もしや共にいるのが悪縁なのではあるまいかと思われる。

私たちは別れたほうが幸せになるかもしれない。
私にいつまでもついていてはあなたは幸福になれないかもしれぬ。
別れてそれぞれの道を往ったほうがいいのではなかろうか」

妻は反対しました。

「わたくしはそうは重いませぬ。
前世の報いで貧しさから抜けられないというのであれば、
一緒に飢え死にすればいいじゃありませんか」

それでも夫に泣く泣く説き伏せられて、
ついには泣きながら、

「あなたへの気持ちは変りませぬけれど、
もしかしたらわたくしがついているから、
あなたによい運がまわって来ぬのかもしれません。
お別れしてあなたもどうぞよい運をさがして下さいませ」

夫も、

「あなたのことは決して忘れない」

と誓い、二人は泣く泣く別れました。


~~~


・そののち女は、まだ若く美しかったので、
あるお邸にお仕えすることが出来ました。

女の人柄がまめやかでしっとりして心やさしいので、
主も好もしく思い、召し使っておりますうちに、
その主の妻が亡くなりました。

妻を失った主はその女を妻の座に据え、
家うちのことなども任せるようになりました。

そのうち、主は摂津守になりました。
女はいまは国守の北の方と仰がれる身分になったのです。

ところで夫の方はどうなったでしょう。

これは女とことかわり、
いよいよ落ちぶれて京にいられなくなりました。

摂津の国まで流れてきていやしいしもべとなって、
人に使われておりました。

ところが生まれ素性のよいこの男は、
田作りや畑仕事、木こりなどは出来ぬゆえ、
雇い主はこの男に難波の葦を刈らせにやりました。

折も折、摂津守の一行が北の方を連れて領国へおもむく途中、
難波の浦のあたりに行列を止めて宴を張っていたのです。

守と北の方は女房たちと牛車のうちにあって、
珍しい難波の浦の景色に見とれておりました。


~~~


・広々と見わたす限り一面の葦のそよぐ難波の浦。
夏の汐風は車の簾を吹き上げ、女たちの髪を払います。

浦では葦を刈る下人がたくさん働いていました。

この葦はやがて干されて簾になり、垣根になり、屋根を葺いたり、
燃料とされたりするのです。

北の方が葦刈り男たちを何気なく見ていますと、
その中に一人、どこか上品な都ふうな男がいました。

北の方の胸はとどろき、あやしく騒ぎました。
別れた夫に似ているのです。

辛そうに葦を刈っている姿を見て、

(まあ、なんてことを・・・)

と思うも涙がこぼれるのでしたが、
他人に聞かせられる話ではありません。

強いて涙をかくして、

「あの葦刈男の中のあの一人を呼んで下さい」

と供の者にいいつけます。使いはすぐさま、

「お車でお前をお召しになっているぞ」

と男にいいました。
男はびっくりしてわけがわかりません。

ぼんやりしていますと、使いの者が、

「さっさと早くしないか」

といいますと男は刈った葦を投げ捨て、
鎌を腰にさして車の前にひざまつきます。

北の方は近くでその男を見て、
はっきり昔の夫だと知りました。

それにしてもまあ、何と哀れな姿になったことでしょう。

土に汚れた黒い麻の帷子、
袖もなく膝の上までしかない短いものを着て、
顔にも手足にも土がついて汚げなること限りなしというあり様。

北の方はそれを見て悲しく心ふさぎ、
そばの者に命じて食べ物を与え、酒などふるまいました。
おいしそうに食べる男の姿を見るのはせつないことでした。

そばの女房たちはもとより何も知りませんから、
北の方がなぜこの卑しい下人に情けをかけるのか、
不審がっています。

北の方は弁解するように言うのでした。

「大勢いる葦刈り男たちの中でこの者が、
なぜか由ありげに見えてね・・・
さだめし名あるうちの人だったろうに、
と気の毒に思ったものだから」

そして着ている衣の一枚を脱ぎ、
これをあの男に取らせなさい、と取らせるとき、
紙の端に歌を書きつけたのを添えたのです。

<あしからじと思ひてこそは別れしか などか難波の浦にしも住む>


(お互いに相手によかれと思って別れたものを、
なぜこんな難波にまでさすらっておられるのですか)

男は衣を賜り、いぶかしく思うてよく見ると、
歌が目にとまりました。

そして車の中の北の方を、
昔の妻だと悟ったのです。

その時の男のおどろきと恥ずかしさ、

(消えも入りたい・・・こんな浅ましい姿で)

男は自分の宿世のつたなさを嘆きましたが、
やがて心を取りなおすと、硯を借りて、
歌を書きつけました。

<君なくてあしかりけりと思ふには いとど難波の浦ぞ住み憂き>


(あなたと別れてから私は不幸なことばかり続いて、
とうとうご覧のような身の上になってしまった。
こんな状態でめぐりあってしまった難波は、
何と苦しいいやなところだろう)

北の方はこれを見て、
いよいよ男が哀れでたまりませんでした。

しかし、北の方が顔を上げた時、
男の姿はもう見えませなんだ。

男は車の前から走り去ったのでした。
もはや葦を刈ることもせず、どこかへ隠れ去ってしまったのです。

そののち、男の行方は誰も知らなんだそうな。


~~~


・北の方はその話を誰にも語らず心に秘めていました。
それゆえ、葦刈の歌は世に出ずじまいで、
誰一人知る者はいなかったのです。

でも、北の方は折にふれ、その歌を思い出します。

誰一人知らぬはずの歌を、
なぜわたくしが知っているのか、と聞くのですか?
その北の方はわたくしではないかと?

さあ、どうでしょう?
ほほほ。そうでもあり、そうでもないということにしましょう。
いずれにしても古い世のことですよ。

人の世は人の力で及ばぬ運命というものがある。
でもそれに敗れてうちひしがれてしまうのは、
人間らしくありません。

その男はそんな境遇の中でやさしくもしおらしい歌を返した。
あれこそまことの情けある人なのですよ。
人間の風流というものです。

おお、雨も止んだそうな・・・
風が出たのか前栽の呉竹がかそけく鳴る。

若い女房たちはうっとりと耳を傾け、
それぞれに難波の浦の哀切な巡り合いを思い描くようであった。






          




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