・私は母の顔を知らない
母は私が物心つかぬうちに、
亡くなったが、
小野宮家の女房で、
「少納言の君」と呼ばれていたという
小野宮家は、
道隆公(藤原兼家、長男)や、
道長公(藤原兼家、三男)らの、
九条殿の御末とは別の一統で、
清慎公実頼の大臣の御一門をさす
父は小野宮家へ出入りしているうちに、
母と知り合ったらしかった
その頃、
母の朋輩だった人の娘が、
弁のおもとと呼ばれて、
いまは道隆公の北の方の、
女房になっている
この人は顔の広い人で、
道長公の女房とも懇意で、
私はその人に連れられて、
いろんな邸へ遊びに行くことが、
できた
私は車がないので、
弁のおもとが自分の牛車に、
同乗させ連れ出してくれた
この人は私よりずっと年長で、
私の母は知らないが、
私の父をよく知っていた
その頃、
弁のおもとは、
三十七、八だったが、
二十三、四の私に、
同年輩のようにうちとけて、
話すのだった
私は、
父や兄らの身内より、
弁のおもとから両親についての、
認識を得たといってもよい
弁のおもとは、
自分の母から、
私の両親のなれそめを、
聞くことがあったらしく、
五十いくつの父が、
二十代の若い母を熱心に口説いて、
とうとう妻にした、
という話など私に聞かせた
私ははじめて聞くことも多かったが、
それが事実かどうかはもはや、
たしかめるすべはない
当然というか、
意外というか、
弁のおもとが示すのは、
私の父ではなく、
清原元輔という一人の男であった
弁のおもとは、
はきはきとものをいう、
頭のきれる人であった
見聞も広く、
年齢より若作りにして、
それがまた似合っており、
自分なりの言葉や批判を持っていた
目の大きな、
顔立ちの派手やかな人で、
気の利いた歌をよみ、
女房社会の中で、
羽振りよく邸では、
重んじられていた
彼女の母は亡くなっていて、
昔、右中弁をつとめて、
病で退いた父と二人で住んでいた
弁のおもと、という名前は、
ここからつけられたのである
弁のおもとは、
若い頃結婚したが、
子供もないまま、
別れたそうである
いまは邸づとめのあいまに、
父のいる里へ下ったりしていた
私たちは、
弁のおもとの里で、
話し込むときが多かった
弁のおもとは、
物語や歴史の本が好きで、
女にしては漢学の素養もあった
私が弁のおもとと、
つき合うのを好んだのは、
そういう方面の話ができるから
私は父に漢学の手ほどきを受けたが、
弁のおもとは、
道隆公の北の方、
有名な高内侍(こうのないし)、
といった方の影響を受けた、
ということだった
私は高内侍の話は、
噂くらいは知っていた
学才のある高階成忠の君の娘で、
御所に仕えて、
女官の内侍になっていられた
それを若かったころの、
道隆公が通って、
北の方になさったのである
男以上に学問のできる夫人で、
漢詩の詩人でもいられる
それゆえ、
「この北の方の姫君たちは、
みな才秀でていらっしゃって、
大姫(長女)の定子姫も、
すばらしく才気煥発な方
入内されたら、
きっと後宮の人気を、
ひとりじめなさるわよ」
という弁のおもとの話であった
定子姫はお美しいばかりでなく、
気性がほがらかで怜悧でいらして、
文学的才能もゆたかな姫でいられる、
そうだ
貴顕の深窓に養われる、
この定子姫を、
私は心おどらせて思い描いた
その姫が帝に入内され、
花やかにときめく、
物語の世界にあるようなことが、
現実についそばにあるというのだ
「中の姫君(次女)も、
三の君も四の君も、
みなお美しいし、
それに若君たちも、
すてきな公達でいらっしゃる
この道隆の大臣の一族が、
お栄えになるのじゃないかしら
弟でいられる粟田殿の、
道兼の大納言には、
しかるべきお姫さまがいらっしゃらないし、
三男の中納言の道長さまは、
赤ちゃんの姫がやっと、
はいはいなすっていられるころ、
一人前になってご入内、
というには間があるわ
道隆の大臣のご一家が、
これから時めいてゆかれるわ」
そんな話をしていると、
時のうつるのも忘れるのであった
私は弁のおもとに、
権門の家でのみやびやかな宴で、
もてはやされる歌や、
機智に富んだ応酬を聞いているうち、
それらの世界が私に向いているような、
気がされた
自分がそれらの世界に、
立ち交じりたというのではないが、
私は聞くだけで、
充分満たされた
弁のおもとは私の父の歌も、
たくさんおぼえていた
彼女の好きなのは
<たがために
あすは残さん山桜
こぼれて匂へけふのかたみに>
これは小野宮家の太政大臣が、
月輪寺で花見をなさったとき、
父が奉った歌であった
「定子姫も、
あなたのお父さまのお歌を、
そらんじていらっしゃるわ
元輔の娘だから、
歌も巧みでしょうと、
あなたのことを、
おっしゃっていたわ」
「私のことを定子姫さまが!」
「うそじゃないわ」
(次回へ)