むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

「2」 ④

2024年09月02日 08時41分25秒 | 「むかし・あけぼの」  田辺聖子訳










・自分で書いたものを、
読んでるその合間に、
私はまたこういう風なことも書いた

「初秋のころ、
風がひどく吹いて、
雨などがひどく降る日、
涼しくなっていて、
扇も手に取らなくなったころ

そんなとき、
汗の香のかすかに残る、
薄い衣をあたまから引きかぶって、
昼寝をする
その、はかなくも物悲しく、
好ましい情趣」

私はそういうとき、

(ここに
わたし
います
生きて
います
はかなくも
なつかしい
秋にのこる
汗の香
わたし
ここに
寝ています
あなたは
どこに
おわしますか)

と胸にいうのであった

その「あなた」は、
夫ではなかった

死んだ父のようでもあるが、
更に大きな宇宙の中の、
大いなるもの、
仏のようでもあり、
また、言葉を持たない、
あるあこがれ、
わが献身の対象、
そういうものである気が、
される

そういう「あるもの」には、
一生めぐりあわないで、
終わるかもしれない

私は自然が好きだ

木や草や虫、花々
そういう風流人が賞味するものに、
増して何とはない野の自然が好きだ

私が初夏の山里を、
好きなのを則光は知っていて、
連れ出してくれるのであった

則光は馬に乗って、
車の前になり、
後になりしてゆく

子供たちは、
大きい子は則光の馬に、
中の子は従者に抱かれて、
馬に乗っていた

五つ、六つの吉祥だけ、
私や浅茅や乳母と共に、
車に乗った

道の左右には、
やわらかな新芽の枝が垂れ、
車が行くと中まで入ってくる

「あ、蓬の匂いがしない?」

私は心ときめきしていった

道ばたの蓬が車のわだちに、
押しひしがれ、
車輪のまわるにつれて、
香が近く匂い立つ

蓬の香は、
私を夢見ごこちにする

そういう情趣も書き留めたかった

草子はいつの間にか、
厚くたまった

冒頭に「春はあけぼの」
と書いたので、
私はそれらを綴じて、
「春はあけぼの草子」と書き、
弁のおもとのところへ、
使いに持たせた

まあ、何にしても、
それは私の人生の慰みごとだった

現実世界は、
わずらわしい我執や欲望の嵐が、
吹きすさんでいた

兄の致信は、
いまも絶えず事をおこしており、
則光がその後始末を、
しているらしかった

則光は私にはいわないので、
どう思っているか、
わからないが、
兄の致信に奇妙な親近感を、
抱いているらしい

京の町のならず者として、
致信は悪名高く、
どういう縁故でか、
花山院つきの一味の、
悪童連に加担することがあり、
花山院びいきの則光は、
致信を悪く思えないようであった

花山の院は、
み位をお下りになってから、
しばらくは仏道修行に、
専念していられたが、
いまはそれもうち忘れたように、
お気ままなくらしである

昔から色めかしい方で、
女性問題を次々と起こして、
世間の眉をしかめさせて、
いられた

御父・冷泉院の狂疾の気が、
伝わっていられるという噂で、
どことなく、
常軌を逸した風狂の君であった

乳母の子の中務とよぶ女を、
寵愛なさって、
それはよいが、
やがて中務がほかの男との、
間に生した娘まで召され、
母娘ともども懐妊するという、
みっともないことになった

院のおそばには、
つらだましいの一癖ありげな、
悪僧や悪童が集まっていた

出家なすったはずの院が、
暴力に訴えて人もなげに、
京の町を押し通られるのであった

そういう中に、
ともすると致信も、
いるらしかった

賀茂祭のとき、
院の従者が上達部のお車に、
乱暴を働いたことがあった

無道の振舞である

花山院はその翌日も、
謹慎なさるどころか、
むしろこれ見よがしに、
暴れまわられた

有名な無頼どもが、
院のお車のうしろにむらがり、
気勢をあげて町の大路を、
練り歩いた

ことに人目をひいたのは、
院のお車だった

変った数珠がお車の外へ、
誇示されていた

蜜柑を貫いて数珠のように、
したものがぶらぶらと、
さし出されているのだった

いかにも挑発的な、
めざましい趣向だった

しかし前日の乱暴を咎めて、
検非違使の追捕があると、
注進した者があって、
花山院の一行は、
あわてふためき、
散り散りに逃げ隠れてしまった

花山院は、
車副えの男どもに、
守られなすって、
こそこそと逃げ帰られたそうである

ご身分にしては、
みっともないことと、
世人は非難したのだった

検非違使はそののち、
花山院を監視して、
みっちり油をしぼった、
ということだ

いうならば、
「太上天皇」という尊いおん名に、
花山院はきずをつけてばかり、
いられた

しかし朝廷は、
院をどうすることも出来なかった






          


(次回へ)

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