『霧深き宇治の恋』

田辺聖子さん訳の、
「霧深き宇治の恋」上、下
(平成五年)新潮文庫

9、東屋 ⑨

2024年06月20日 08時56分15秒 | 「霧深き宇治の恋」田辺聖子著










・右近は思い切って、
内裏からのお使者をこちらの、
西廂の庭に呼びつけ、
口上をもう一度のべさせる。

「中務の宮も大夫(中宮職の長官)も、
たったいま参上いたします途中」

匂宮はそう聞かれてやっと、
現実に引き戻されたお気持ちに、
なられる。

なるほど、
母后の明石中宮は、
時々急にお苦しみになる折もある、
と思われ、
しぶしぶ浮舟のことは、
おあきらめになる。

「あなたは最後まで、
名を明かして下さらなかった。
しかし、私は決してあきらめない。
きっとまた会いにくる」

といって出ていかれた。

浮舟は恐ろしい夢から、
覚めたような気がして、
汗にぐっしょり濡れて、
臥していた。

乳母はいたわりつつ、

「こんなお住居は、
何ごとにつけ気づまりで、
具合悪うございます。
こうやって宮さまが、
いったんお越しになりましたら、
きっと二度三度と重なって、
この先、
きっとよいことは起こりますまい。
いくら貴いお方と申しても、
油断できないお振る舞いを、
なさるのですから。
何と申してもあの方は、
お姉さまの婿君でいらっしゃる。
無関係な殿方なら、
いいとも気に入らぬとも、
思って頂いてようございますが、
現在の姉婿さまでは、
人に聞かれても格好悪いことで、
ございます。
まあ、宮さまとしたことが、
下々の者の色めいたことを、
なさって・・・」

今日のところは、
どうやら危機を免れたけれど、
この先どうなるやら。

「母君さまのお戻りになった、
あちらのお邸では、
今日も烈しく言い争いを、
なさいましたそうな。
殿さまは、

『お前は上の娘の世話ばかりして、
わしの子供らのことを、
抛ったらかしにするのか。
新婚の婿殿がいるのに。
北の方が家を空けて、
それで済むのか』

とお叱りになったそうな。
すべてあの少将どのが、
もめ事の起りでございます」

と泣きながらいう。

浮舟は、
あれこれ考える余裕もなく、
ただ恥ずかしいばかり。

(このこと、
お姉さまがお知りになったら、
どう思われるかしら)

とただなすすべもなく、
しくしくと泣いていた。

乳母は、
浮舟の嘆きをいとおしく思い、
慰めてなだめていう。

「そうご心配なさいますな。
お姫さまはちゃんと実の母君が、
控えていらっしゃる。
世間から見れば、
父親のない人は見劣りしますが、
性悪な継母に憎まれるよりは、
実の母御の後押しがある方が、
ずっと幸せです」

中の君は異母妹の浮舟が、
可哀そうでたまらなかった。

そのことは聞かなかったふりをして、
浮舟に言い遣った。

「后の宮がお具合が悪い、
ということで宮さまは、
参内なさいましたから、
今夜はもうお帰りになりますまい。
私は髪洗いのせいか、
気分がすぐれずまだ起きています。
こちらにいらっしゃらない?」

浮舟は乳母を通して、

「気分が悪うございます」

と返事した。

中の君は髪の多いたちなので、
すぐにも乾かしきれず、
起きて坐っているのも辛かった。

その時、

「右近の君に申し上げたく」

と浮舟の乳母の声がした。

右近が立っていくと、
浮舟を乳母が連れてきていた。

浮舟は本当に気分が、
悪くなっていたが乳母が強いて、
連れて来たのだった。

「いけませんよ、
姉君さまはじめ皆さまも、
何とお思いになるでしょう。
わけがあったように、
お取りになるかもしれません。
ただ、おっとりかまえて、
お会いなさいませ。
右近の君には私から、
一部始終お話申し上げますから」

そんな風にすすめたのであった。






          


(次回へ)

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