碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

西田 税(みつぎ)のこと (32)

2019年05月23日 21時56分32秒 | 西田 税のこと

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           (ふたたび羅南へ)

  (以下今回)      西田税は大正十一年(1922)八月、「再び祖国に訣るるの記」を執筆した。

 天地二部の経文と、母が東への旅に中京で買ってきた数珠と、一振りの短刀をバスケットに収めて祖国に別れ、北韓に向かった。

 十三日、西田税は門司港を出航して朝鮮半島に向かった。そして八月十九日の暁に靄をついて清津港に入った。

 九月上旬、軍務の寸暇を盗んで、秩父宮に上表する一書を認めた。それは秩父宮殿下に秘かに献上すべき重大文書であった。

 これを同志柴君に託そうと考えた。柴君は東京にあったとき、同志の一人として求めた人物であった。その柴君が西田税の隊に士官候補生としていたのであったが、九月中旬士官学校本科に入校するため出発するので、かれに託そうと考えたのであった。

 柴君は出発した。ところが彼が本科に入校した当時、流行病のため外出が禁止された。そのため彼は十一月になっても事を果たし得なかった。彼は数回にわたって西田税に手紙をもってそれを詫びた。

 十一月、西田税の同志宮本進が突然盛岡から航空学校入校のため上京して来た。そして柴君と会ったとき、柴君はこの事を話した。宮本はただちに「曽根田氏に渡せ!」と言った。曽根田泰司氏は秩父宮殿下の近司であった。

 柴は決意し、外出解禁となった十一月二十六日、千駄ヶ谷に曽根田氏を訪ねたが、氏は秩父宮殿下に付き従い秩父地方に出張中で不在であった。やむなく柴は夫人に西田税の密書を渡し、「西田税なるものから託されしもの、秩父宮殿下の御手に奉られたし」と渡した。

 曽根田氏が帰宅し、これを聞いて驚倒し「いやしくも臣下の分にあって、かかることは罪万死に値する」とした。氏は直ちに柴と会見した。

 十二月四日の夜、二人は会見した。柴はすべてを語った。柴の帰ったあと、終夜まんじりともせずに考えた氏は、ついに悲愴なる決意をし、十二月五日午後六時、人のいない秩父宮殿下の部屋に赴き西田税の一書を献上した。

 十月二十六日付け官報で、西田税は騎兵少尉に任じられ正八位に叙せられた。西田税は恩命泣謝しても及ばぬ感動であった。そして報国殉道の志はいよいよ堅固となるばかりであった。

 西田税の少尉任官の記念であろうか、彼が羅南北方の高地において「悍馬浦林号」にまたがった凛々しい写真が残っている。

 十二月十六日、曽根田氏の書が届き、西田税は氏の悲壮な心に涙を禁じ得なかった。西田税は折り返し数枚の書簡を認め氏に書き送った。

 大正十一年十二月三十一日の大晦日の夜、西田税は木枯らし吹きすさぶ北韓の仮寓に、経文に一人端座して、てんめんとして極まりなき感懐に夜を明かした。

 明けて大正十二年一月二十五日、静養を許され帰郷の旅に上った。夜清津湾を去る船上に西田税はあった。元山で船を下りたあと、竜山および姫路に一泊づつしたあと、二月一日夕刻故郷の地を踏んだ。この旅日記が「祖国を訪ふの記」である。

 二月八日、羅南より曽根田氏の書が転送されて来た。それは「春早々、静養のため東帰せんと告げし後、一月以上なるに消息なし。寒地に病を再発して病床に懊悩せるに非ざるかと、宮(秩父宮殿下)は憂慮せられあり。帰郷せば上京せよ。」との書が西田税を大いに激励した。

 二月九日、ついに東上の客となり、曽根田氏とは刎頸の交わりを結んだ。秩父宮殿下に秘かに拝謁する予定で、宮と曽根田氏との間に約束があったが、突如秩父宮殿下の発熱で実現しなかったのは、西田税にとって失望極まりなかった。

 彼は猶存社を訪ね、久しぶりの再会を喜んだ。西田税の退京の夕べには満川氏を訪ね語り合った。

 二月十四日、東京を辞するとき、秩父宮殿下に拝謁し進言することの不可能を嘆いた西田税は、再び上書の決意を抱いた。

 三月四日に隊に戻った。直ちに西田税は筆をとり、秩父宮殿下への一書を、二十四日に浄書を終え、ただちに秘封し曽根田氏に郵送した。これらの動きの中で、この頃から上官の眼が次第に西田税に注がれるにいたり、彼に対する干渉の火の手が次第に高まってきた。


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